2011年12月31日土曜日

第218話 大つごもり雑感

日本中を悲しみの底に突き落とした2011年も
ようやく今日でおしまい。
人それぞれに様々な思いが胸に迫りくる大晦日である。

明治の粋人は大晦日を大つごもりと呼んだ。
つごもりは月隠り(つきぐもり)の音が変化したもので
月の最終日、いわゆる晦日のことを指す。
そして年の最終日、大晦日が大つごもりというわけだ。

1894年、日清戦争が勃発した年に
樋口一葉が発表した短編小説、
「大つごもり」を読まれた方も少なからずおられよう。
この小説が世に出なかったら
この言葉が人々の記憶に残ることもなかったろう。

2006年の正月4日。
北千住のシアター1010で新派公演の「大つごもり」を観た。
ヒロインが死んじまうのか、生きながらえるのか、
観る者の気持ちに屈託を残す幕切れであった。

それはそれとして芝居がハネたあとは
出演者を交えての打上げである。
主演の波乃久里子サンはじめ、
六平直政サン、松村雄基クンを囲んでの宴だ。

この日、久里子ネエさんの妹御のC枝チャンから
会場の手配をおおせつかったのがJ.C.だった。
築地の河岸が開く前日のことで鮮魚類は基本的にアウト。
鯛や平目が駄目なら、泥鰌(どぜう)があるサと
選んだのが西浅草は合羽橋通りの「飯田屋」だ。

うなぎもよいが宴席には不向き、ここはどぜうの出番であろう。
彼岸河豚ならぬ肥満河豚さながらに
ブクブク太りやがった永田町のドジョウは大嫌いだが
江戸の食文化を今に残す下町のどぜうは大好きだ。

2階の大広間に十数名が打ち揃って和気あいあい。
このときであった。
目の前の席にいた松村雄基が
わが板橋高校の後輩であると判明したのは―。
以来ずっと、付かず離れずの交流が続いている。

12月に入ってからは連日のように師走の街に出張っている。
ただ例年より宴席がずいぶん減った。
訪れる店々のスタッフに訊ねたら
前年比の売上がかなり落ち込んでいるという。
株価の低迷、欧州の経済危機の影響も大きかろうが
これが最後の”自粛”なのだろうか。

今年を振り返れば思いがどうしても3月のあの日に向かってしまう。
忘れることなどできやしないし、許されることでもないけれど、
何とか心の奥底に仕舞いこんで
鍵をかけたい気持ちは誰しもが抱いていよう。

時節柄、地上波のTVをつけると、
これでもかこれでもかと同じ映像が流されている。
コソ泥以下の東電の説明に登場するオジさんは
いつも眼鏡のナントカ代理だ。
電気料金の値上げに突っ走るそうだが
「会社が立ちゆかねェんなら、国有化しかねェだろ!」―
こう叫びたい歳の暮れである。

それでは、またあした。
どうぞ、よいお年を!

「飯田屋」
 東京都台東区西浅草3-3-2
 03-3843-0881
 

2011年12月30日金曜日

第217話 今年のクリスマス・イヴ (その2)

昨日のブログを読んだ方からメールをいただいた。
何でもイヴにケンタッキー・フライドチキンを
家族揃って食べる家庭が多いのだそうだ。
ホントかね?
せっかくの情報を疑ったわけではないが
数人の友だちに訊ねてみたら、応えは一様にイエス。
イヴにケンタかァ! 財津一郎じゃないが、サミシ~イッ!

でもって、自分でもいろいろ当たってみると、
その理由として普通の家のキッチンにはオーブンが無いから
ローストチキンは不可能につき、ケンタで我慢なんだと―。
ほかにもサンダースがサンタに見えちゃうからなんて
ひょうきんな見解もあった。

とにかく日本人はフライドチキンや鳥唐揚げを
ちと食べすぎじゃないかネ。
そういやあ、ここ数年の唐揚げブーム、ありゃいったい何なんだ!
親父は赤ちょうちんの焼き鳥で
女房・子どもはチェーン店の鳥カラってか!
これじゃ健全な家庭生活は営めないし、
子どもは味オンチの大人になっちゃうねェ。

そんなことよりマイ・クリスマス・イヴである。
カガクくんとは本郷三丁目の交差点で別れて一時帰宅。
TSUTAYAが送ってきたDVDの「仁義なき戦い」を観た。
昔観たときのほうがよかったな。
ドンパチばかりで画面は揺れるわ音はやかましいわで閉口だ。
老頭児には昭和残侠伝シリーズのほうがええわ。

夜は月例グルメ会のため、日本橋の「ダンドロ ダンドロ」へ。
イヴに食事会もないもんだが
出席者数はほかの月とほとんど変わらずだ。
みんな相手が居ないんだねェ。
いや、カップルより仲間とワイワイのほうが楽しいらしい。

クリスマス・イヴ・スペシャルの前菜は
サラミとモルタッデラ(ラード入りソーセージ)と
フリッタータ(イタリア風野菜オムレツ)の盛合わせ。
インサラータは香り高いウドが主役を張っている。
これは高校のクラスメートのI川クンの差し入れだ。
彼のカミさんの実家は東京でも有数のウド生産農家。

メインディッシュはなかなか東京では
お目に掛かれない骨付き乳呑み仔牛のロース。
これは大好物につき、思わず欣喜雀躍である。
T橋シェフはミラノ風カツレツにするつもりだったが
”待った” をかけて網焼きにしてもらう。
それもセージ&ガーリック風味をリクエストして―。

いやまったくもって、うまいのなんのっ!
訊けばカナダ産とのことだ。
銀座三越の地下に高級和牛専門店があり、
そこでも茨城産の仔牛が手に入るが
すでに母乳以外のものをエサにしているため、
肉の色に赤身が掛かり過ぎている。
そこへいくとこのカナダ産は薄いピンクの身肉から
ミルクの匂いがほんのり立ちのぼるくらいのものだった。

お次はオマール海老のリゾットでこれまた二重丸。
他のメンバーは締めにスパゲッティーニのアマトリチャーナかな、
何かパスタを食べていたけれど、老頭児にはもう入りません。
とは言うものの酒は別腹、キャンティ・クラッシコを
なおも手酌で楽しむ酔眼のJ.C.がおりましたとサ。

ところで土・日はお休みの当ブログですが
大晦日と元日はアップしますので
 ♪ おヒマな~ら 見てよネ ♪

「ダンドロ ダンドロ」
 東京都中央区日本橋本町4-3-14
 03-5942-4790

2011年12月29日木曜日

第216話 今年のクリスマス・イヴ (その1)

日本におけるクリスマス文化というヤツは
いつ頃から始まったのであろうか。

調べてみたら1552年、
陰暦12月9日(陽暦12月24日)に
山口県・山口市において当地の宣教師、
コスメ・デ・トルレスらが日本人の信者を
集めて祝ったのが日本のクリスマスの始まりだという。
ただし、そこから恒例の行事となったわけではなく、
キリスト教弾圧などもあいまって長きに渡り葬り去られた。

復活したのは明治時代後期。
明治18年、横浜で創業した「明治屋」が
同33年に銀座に進出し、クリスマスのデコレーションを
店頭に飾りつけたのがブームのさきがけとなった由。

時代は下って昭和30年代。
イヴやクリスマスの夜ともなれば、
都会のサラリーマンは盛り場で飲み歩いていた。
社内や仲間たちの間ではパーティーもよく開かれた。
それがある時期はファミリーで
ローストチキンとケーキを囲むようになり、
最近はカップルでイヴのディナー後、
ホテルにお泊まりのパターンが主流となった。

こういうヘンテコリンなクリスマスの過ごし方は
世界広しといえどもこの国だけではなかろうか。
欧米では第一に”家族とともに”であろう。
イヴもクリスマスも祝日にならない日本で
ファミリー・クリスマスは今一歩定着しにくい。
その代わりイヴ・イヴが天皇誕生日。
将来、この日を家族で祝うようになるのかも・・・。

さて、今年のわがクリスマス・イヴは
いろいろ忙しい一日となり、昼は東京大学に出掛けた。
安田講堂前広場の地下にある中央食堂で
友人のカガクくんとランチをともにしたのだ。

現地での待ち合わせは午後1時。

スペクタキュラーな光景が拡がる

よく見ると乳幼児を連れた家族も食べてるよ。
東大内の食堂は一通り回ったが
天井の高いここが一番快適なのだ。

注文したのは中央食堂名物の赤門ラーメン。
まずはご覧くだされ。

汁なし麻婆あんかけ麺といったふう

東大生に倣い、赤唐辛子の粉と
写真じゃ判らないが辣油(ラーユ)をたっぷり振り掛ける。
二口、三口と食べ進んだが、いやはや辛いのなんのっ!
学食の味としてじゅうぶんに合格点ながら
おかげで冷たい麦茶を4杯も飲んじまったぜ。

カガクくんは秀才といえどもまだまだお子チャマだ。
クリスマス坦々翡翠麺なんてのをすすっている。
のぞいてみると、ほうれん草を打ち込んだ翡翠麺の上に
鶏肉やらコーンやら紅生姜が乗っかっていた。

食べ終わってしばし歓談後、セルフで食器を下げる。
下げ口の前にクリスマスメニューのボードがあった。

ゲッ!クラムチャウダーうどんは食いたかねェナ

ふと気づくと傍らのカガクくんの両まなこが
銀座コージーコーナーのケーキを食い入るように見つめている。
くわばらくわばら、余計な出費と時間の浪費は御免とばかり、
すかさず彼の背中を押しこくって、早々に立ち去りましたとサ。

=つづく=

「東大中央食堂」
 東京都文京区本郷 7-3-1
 03-3814-1541

2011年12月28日水曜日

第215話 オペラの師匠

オペラが好きである。
でもこの国では高くて行けない。
東京で5回観るのならその料金で
ミラノやウィーン、あるいはニューヨークに行き、
同じ本数を観ることができる。
安いエアチケット・ホテル・レストランに甘んじれば、
旅行代すべて込みでだ。

オマケに上野の文化会館にせよ、初台のオペラシティにせよ、
ハコ(劇場)がイマイチ、いや、イマニだから
行けないのではなく、あえて行きたくない思いもある。
観客の民度の低さというか、
マナーのお粗末さも目に余る。
いくらなんでも幕間にフロアに座り込み、
持込みのおにぎりパクパクはないだろう。
オペラに限らず芝居やコンサートでも見掛ける光景ながら
到底、外国人には見せられない日本人の姿だ。

1991年の12月28日。
20年前の今月今夜、生まれて初めてオペラを観た。
場所はニューヨークのメトロポリタン・オペラハウス。
演目はヴェルディの「アイーダ」。
渡米後、5年経った頃のことで
すでにブロードウェイのミュージカルは何本も観ていたのに
オペラにはまったく縁がなかったのだ。

その1ヶ月ほど前の秋の日、ゴルフコースでのこと。
旧知のマネー・ディーラー、M銀行のF森氏と
1番のティー・グラウンドに立ったときである。
毎度、それなりのチョコレートをにぎってプレイしていたが
その朝はこう持ちかけられた。

「J.C.、今日ボクが勝ったらネ、
 1度オペラに付き合ってくれないかな?」
「エッ?オペラっすか?勘弁してくださいよ、
 第一、そんなガラじゃないですし・・・」
「まあそう言わずにサ、切符の手配もしておくし、
 ハンディを今日は6ツあげるからサ」
「へぇ~っ!6ツ?そりゃおいしいや、Done!」

腕に差はあるものの、6打ももらえば左団扇だろう。
そう思ってDone したのだった。
ちなみにDone というのは市場用語で取引成立のこと。

でもって・・・ホールアウト後。
クラブハウスに肩を落とすJ.C.の姿を見ることができた。
いや、ヤラレましたネ、それもこてんぱんに。

そうして観たのが「アイーダ」である。
ただ、観劇後の第一感は
「ミュージカルよりもオペラのほうが自分に合ってるな」―
このことであった。
2度目のお誘いは2ヶ月後の「セビリアの理髪師」。
もう確信しちゃいましたネ、オペラって実にいいモンだと。

お次の「リゴレット」は2週間後に自らチケットを取り、
ご注進に及んだものでした。
そしてこの「リゴレット」に心打たれ、
終生お気に入りの演目となったのでした。
♪ 風の中の 羽のように ♪
ルン、ルン、てなもんである。

以来5年余りの間、メトに足を運ぶこと150回。
毎シーズン30本も観たことになる。
今でも覚醒してくれたF森師匠には心から感謝しており、
お住まいのある武蔵野方面に
足を向けて寝ることはございません、ハイ。

2011年12月27日火曜日

第214話 東海林サンと中野サン

さほど寒くもない師走の一夜。
3~4ヶ月に1度の割合で催す食事会を開いた。
メンバーは「ナントカのまるかじり」で有名な
漫画家の東海林さだおサン。
「筋肉マン」に実名で登場する中野和雄サン。
そして妙齢のご婦人方が3人。

男3人は毎回同じ顔ぶれだが
ご婦人のほうはほぼ固定されているものの、
多少の入れ替えがある。
まっ、こんな感じでその都度、下町に参集するのである。

幹事はいつもJ.C.につき、今回は浅草にした。
まずは男3人が言問通りの「正直ビヤホール」に集合。
生ビール好きの東海林サンのため、
会食前に必ずどこかで一杯飲るのである。
このたび東海林サンが旭日小綬章を受章されたので
叙勲を祝して華々しく乾杯。
日本一、小さいビヤホールに
お二人は目を白黒することしきりであった。

揃って2杯ずつやっつけたあとは観音裏の奥深くへ進出だ。
目指したのは大の気に入り店、「ニュー王将」。
この夏以降、偽グルメ集団”SKYAMKO”の会、
ニューヨークからTBSラジオに出演していた金融マンのリユニオン、
わりとひんぱんにここで宴を張った。

御大2人には東京で一番おいしいメンチカツを
食べさせるという振れ込みだったから
当然、期待度は高まっておられるハズ。
しかしながら心配は無用も無用の大無用、
今までコレを食べて舌鼓を打たなかった人間を
J.C.は知らない。

案の定、男子も女子もみなご満悦の大絶賛。
あじフライに茄子フライにハムカツサンドまで頼み、
揚げものオンパレードと相成りました。
あの歳で、この歳で、こんなに油モン食ってダイジョブかいな。

ほかには刺身盛合わせ(ほうぼう・さわら・まぐろ中とろ・つぶ貝)、
赤ウインナー炒め、たらば蟹のオムレツ、鶏レバーのピリ辛炒め。
あと何かあったかなァ?
ハッキリと思い出せないが、おそらくこれで間違いはなかろう。

その後、流れたのが
浅草六区と伝法院をつなぐフラワー通りにあるバー、
「Orange Room」である。
(ビヤホール)→(料理店)→(バーorパブor居酒屋)
これがこの会の変わらざるパターンなのだ。
生ビールとサイドカーを1杯ずついただき、お開きとなった。

散会はしたものの、道端に残留したのが
放射能ならぬ、妙齢X2+J.C.の3名。
それじゃあもう1軒と足を運んだのは田原町の行きつけだ。

飲んで歌ってしゃべくって
妙齢たちが店をあとにしたのは1時過ぎだったかな?
一緒に帰ればよいものを独り残ったバカタレが
結局、腰を上げたのは朝6時でしたとサ。

しっかしわれながらバカですけどタフですよ。
しかもそこから家まで歩いて帰ったモンね。
エッ? 田原町の何て店だ! ってか?
まことに遺憾ながら
こればっかりは秘密のアッコちゃんでございます。

「正直ビヤホール」
 東京都台東区浅草2-22-9
 03-3841-7947

「ニュー王将」
 東京都台東区浅草5-21-7
 03-3875-1066

「Orange Room」
 東京都台東区浅草1-41-5
 03-3842-5188

2011年12月26日月曜日

第213話 ラ・ボエーム (その2) 古く良かりしニューヨーク Vol.3

1990年代半ば、
とある年のクリスマス・イヴ。
グリニッジ・ヴィレッジの「La Boheme」で
晩餐を楽しんでいた。
今日はそのつづきである。

=ラ・ボエーム= つづき

リストから選んだシャサーニュ・モンラッシェが
売り切れだからと、
代わりにボルドーをすすめてきたギャルソン、
何、考えてんだか!
このニイさん、まだまだ甘いと言わざるを得ない。


当方がブルゴーニュに固執すると、
セラーから引っ張り出してきたのは
シャンボル・ミュジニーの1988年。
いいでしょう、いいでしょう、これならいいでしょう。


アミューズはローズマリーの香る小さな素焼きのピッツァ。
1切れ口元に運ぶと素朴においしい。
メニューのかなりの部分をピッツァとパスタが占めている。
「ビストロなのかトラットリアなのかハッキリしろい!」―
ここで憤慨しても始まらない。
プッチーニの「ラ・ボエーム」だって舞台はパリでも
れっきとしたイタリアオペラだからね。


オマールのビスクは甲殻類の旨みに
サフランの風味がからんで濃厚な仕上がり。
ブルゴーニュ風エスカルゴのキャセロールの底には

ガーリックバターが溜まっている。
もったいないのでバゲットにからめとって食べた。


ジューシーな若鶏はシンプルなローストもいいし、
ほうれん草を詰めたラ・ボエーム風もけっこうだ。
鴨もも肉のコンフィ(脂煮)は少々しょっぱかったけれど、
滋味あふれる一皿ではあった。


アズナヴールの「ラ・ボエーム」のニュアンスをお伝えするために
今日は訳詩をお送りしながら、DJ風にお別れします。


♪  リラの花咲く窓辺
  もとめ合う二人の愛の巣
  ボクは貧しさに飢え
  キミは絵描きたちに
裸をさらす
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム  ♪
         (訳詩:J.C.オカザワ)


ということで
サヨナラ サヨナラ サヨナラ!

「La Boheme」
 24 Minetta Lane
 212-473-6447

2011年12月23日金曜日

第212話 ラ・ボエーム (その1) 古く良かりしニューヨーク Vol.3

今日は心ウキウキのイヴ・イヴ。
”本命”は明晩にキープしておくとして
今宵は”二番手”とグラスを合わせなければならない。
いや、グラスどころか身体を合わせねば・・・。

と、言いたいところなれど、
本日の予定は麻から、もとい、朝から麻雀ときたもんだ。
恋の季節にいったい何の因果かね?
まっ、ボケ防止にはこれが一番だから仕方がないや。

てなこって、時節柄クリスマスを取り上げてみましょう。
今を去ること十数年前、
ニューヨークでよく働き、よく遊んだバラ色の時代。
「読売アメリカ金曜版」に
「J.C.オカザワのれすとらんしったかぶり」を連載していた。
そのコラムから選抜する”古く良かりしニューヨーク”シリーズ。
久しぶりにその第3回をお送りしたい。
では、まいります。

=ラ・ボエーム=

音楽好きの方が「ラ・ボエーム」と聞けば、
思い起こすのはプッチーニのオペラだろうか、
それともアズナブールのシャンソンだろうか。


アメリカ人にもっとも人気のあるのがこのオペラで
映画「月の輝く夜に」でも効果的に使われていた。
第3幕、アンフェール門の別れのシーンでは
初めてオペラを観るヒロインのシェールに涙を流させている。


シャンソンもアズナブールの哀切きわまりない歌声が胸を打つ。
グレコの「枯葉」、モンタンの「パリの空の下」と並ぶ、
屈指の名唱と言っていい。


去年のクリスマスイヴ。
その名も「La Boheme」というビストロに出掛けた。
オペラの第1・2幕がイヴという設定なのだ。
殊に第2幕、カルチェラタンの「カフェ・モミュス」のシーンが白眉。
F・ゼッフィレッリ演出のメトの舞台は息をのむ美しさだ。


そんな経緯も手伝い、イヴのディナーはここに決めていた。
グリニッジ・ヴィレッジの路地裏にある店の雰囲気はイメージ通り。
バルドー、ドロン、ベルモンド、
壁に貼られたスターたちのポートレートが懐かしい。


ほかにも長いことドロンの婚約者だったけれど、
結局、一緒にはなれなかったロミー・シュナイダー。
作曲家にして歌手、そして俳優としても活躍しながら
病に倒れてしまったジャック・ブレル。
ああ、帰り来ぬ日々よ、青春よ!


=つづく=

2011年12月22日木曜日

第211話 信濃では 鯉と目白と 野沢菜漬け (その2)

鯉のおあとは目白である。
目白といっても目白不動の目白ではない。
小鳥のメジロだ。

長野の生家の両隣りは靴屋と床屋だった。
この床屋のオヤジがよく山に入っては小鳥を捕らえてくる。
ある日、母親が目白を1羽もらった。
雀よりも小柄な小鳥は名が体を表し、
目の周りに白い縁取りがある。

目白は大の甘党で花の蜜を吸う姿が
町なかでもしばしば観察される。
世に広く”梅に鶯”と言われるけれど、
梅の花にやって来るのは鶯じゃなくて目白。
鶯は花蜜をほとんど吸わない。
ホーホケキョの鶯ほど美声ではないが
目白もまたチーチーとよく鳴く鳥である。

さて、母がもらった目白。
捕獲されてすぐに鳴くわけではなく、
何日か餌をやって飼い主に馴らさないと鳴いてはくれない。
それがやっと鳴き始めた頃のこと。
籠から取り出しては幼稚園の友だちに見せびらかす、
バカ息子が居たと思っておくんなさい。
何かのはずみで小鳥をつかんだ手を開くと、
ヤッコさん、この機を逃してなるものかとばかり、
木々の梢に消えてゆきましたとサ。

子ども心に「こりゃ、ヤバい!」と思ったもんネ。
イヤ~な予感がしたもの。
案の定、オフクロはたけり狂った。
空っぽの鳥籠をむんずとつかみ、
息子目がけて投げつけたもんネ。
これが頭に命中して、イテテテテと相成りました。
なおも腹の虫が収まらないと見え、
またもや家の柱に縛りつけられましたとサ。

そんな思い出のある目白だが来年の3月末までは
都の環境保全課に手数料を払って飼養許可を得れば、
1世帯あたり1羽に限り、飼うことができる。
飼いたくて飼いたくて仕方がないけれど、
猫の居る家で飼われたひにゃ鳥は枕を高くして眠れまい。
あまりに可哀相だからスッパリあきらめることにした。

最後は信州名物・野沢菜である。
北信州の野沢温泉近辺が本場のお菜だ。
10月も末になって秋が一段と深まると、
長野市内の家庭でも野沢菜の漬け込みが始まる。
近所の主婦が5~6人集まり、
協力し合って各家庭ごとに順番に漬けてゆく。
”自製自消”のわりにはけっこう大きな樽だった。

野沢菜の漬け込みはまさに晩秋の風物詩。
されど子どもが見ていて別段面白いものではない。
だのになぜか記憶に残り、今でもあの風景が目に浮かぶ。

秩父のしゃくし菜、近江の日野菜、京の壬生菜、安芸の広島菜、
いずれも旨いがやはり青菜漬けは野沢菜にとどめを刺す。
茶によし、酒によし、飯によし、おやきの具材にもまことによし。
ひいきの引き倒しのそしりを受けようとも
所詮、お国自慢とはそういうものであろうよ。

2011年12月21日水曜日

第210話 信濃では 鯉と目白と 野沢菜漬け (その1)

長野県・長野市のランドマークは定額山善光寺。
この世に生を受けてから満5歳まで
本堂の北西、徒歩3分ほどのところに棲んでいた。

家の前には湯福神社があり、
境内には湯福川なるせせらぎが流れていた。
いや、今でも清らかな水が、細く速く流れている。

麻雀牌をかき混ぜる音を子守歌としたあの時代。
思い起こせばいろいろと懐かしい光景がよみがえる。
人間、歳をとるとウシロを振り返るのが常、
しばし、思い出話におつき合いくだされ。

県立長野西高の付属幼稚園に通っていたときは
異常に生きもの好きのやんちゃ坊主であった。
とんぼ採りが大好きで
あの頃のとんぼはずいぶん呑気だったのだろう、
年端もいかない子どもでさえ、たやすく捕まえられた。
虫かごにギッシリ、まるでラッシュ時の電車内状態。
中には窒息死(圧死かな?)してるのもいて
お陀仏したのを庭の隅によく埋めたものだ。

おたまじゃくしとかえるにも目がなかった。
いつも御用聞きに来る「島金」という魚屋に
サカナのアラをもらい、
善光寺の裏にあった、つばめ池にザルごと沈める。
30分ほど放置してからザルを引き揚げると
おたまじゃくしだの、川海老だの、げんごろうだの、
様々な水生動物がゴッソリ獲れた。

デカいおたまじゃくしをまとめて半ズボンのポケットに詰め込み、
家に帰ったときにはほとんどみんなクタバッてたっけ。
アーメン! 当然、彼らも庭の隅に直行である。

そうそう、応接間(ここが麻雀ルーム)の水槽に
金魚が10匹ほどいて、大のお気に入りは黒い出目金。
母親の留守にふと思ったことには
出目金に牛乳を飲ませてやろう、このひらめきであった。
子ども心にもいいアイデアだと思ったものだ。

でもって新鮮な牛乳を一献傾けてやったらば、
哀れ金魚のみなさん、あえなく全滅の憂き目であった。
帰宅したおふくろにこっぴどく叱られ、
今度は哀れJ.C,、オヤジの兵児帯(へこおび)で
家の大黒柱に縛りつけの刑と相成り申した。

フーテンの寅さんの映画を観ていると、
夕暮れ時にラッパを吹きながら
自転車に乗った豆腐売りが登場する。
長野の街には、あれの鯉ヴァージョンがよくやって来た。
近所の加藤鯉店のもので母親が呼び止めると、
真鯉を1尾抱えたアンちゃんが勝手口から上がり込み、
ウチのまな板の上できれいに捌いていったものだ。

まな板の鯉とはよく言ったもの、
きゃつらはけっしてジタバタしない。
ヒゲをたくわえた口をパクパクさせるだけなのだ。
まさに元祖口パクである。
食してみれば洗いはともかく、鯉こくは苦手だったなァ。
ありゃ、相当に泥臭いもんねェ。

=つづく=

2011年12月20日火曜日

第209話 パイを子守の歌と聞き (その2)

およそ半世紀前、
長野市で暮らした幼少時代は
麻雀における洗牌(シーパイ)のジャラジャラが
ララバイ代わりだった。

おかしなことに幼い子どもにとって
その騒音よりもメンバーのために母が揚げる、
カツレツの油の匂いのほうがイヤだった。

それが小学校の高学年あたりから
突如、トンカツが好物になったのだ。
育ち盛りになると、高タンパク・高脂肪を求めるのだろう。

その後も嗜好はどんどん変わり、
昔は駄目だったものが好きになったり、
気にならなくなったりするかと思えば、
逆に好物だったものが嫌いになったり、
ごくフツーの食べものに成り下がったりもする。
思いつくままに整理してみた。

①好き→フツー
 ハヤシライス お茶漬け お好み焼き 
 お汁粉 甘酒 インドりんご バナナ 


②好き→嫌い
 霜降り牛肉 ハンバーガー 焼き芋 
 フルーツ缶詰  


③嫌い→フツー
 親子丼 カレーパン キムチ 塩辛 
 納豆 豆類 海藻類 


④嫌い→好き
 鯨ベーコン まぐろ刺身 ひかりもの 

 酢のもの 筋子 豆腐 チーズ セロリ 
 西瓜

こうしてみると甘いものから見事に脱皮している。
甘味の代わりに酒を覚えたからだ。
ひかりもの・酢のもの・筋子・チーズなど、
よき酒の友はみんな好きになった。
子どもには刺激の強すぎたキムチ・塩辛・納豆も
成長過程で克服している。

青臭くてイヤだった西瓜は
みずみずしさを愛でるようになった。
国光や紅玉と違い、酸味の穏やかなインドりんごは
子どもにとって食べやすかったがトンとご無沙汰だ。
というのも近頃まったく見掛けなくなった。
1年ほど前、巣鴨駅前の果物店で目にしたものの、
りんごブラ下げて散歩でもあるまいて。

ことほどさように人の好き嫌いは変化するもの。
顔を見るのもイヤになった古女房でも
再び愛が芽生えることだってあるハズだ。

いや、これは世の奥様方にも忠告しておきたい。
お宅の粗大ゴミもそのうち変身するかもしれませんよ。
互いの不幸に拍車を掛けるだけの熟年離婚なんて
流行や勢いでするもんじゃありません。
そこのところは熟年らしく、熟慮に熟慮を重ねなくっちゃ!

昨日・今日と結局はハナシがごっちゃになって
子守歌が別れ歌に変身しちゃったヨ。

2011年12月19日月曜日

第208話 パイを子守の歌と聞き (その1)

♪    生まれてしほに浴(ゆあみ)して
   浪を子守の歌と聞き
   千里寄せくる海の氣を
   吸ひてわらべとなりにけり  ♪
         (作詞:宮原晃一郎)


小学唱歌「われは海の子」、二番の歌詞である。
2006年12月15日に
文化庁と日本PTA全国協議会が選定した、
「日本の歌百選」にも選ばれている。
百選のつもりが、どうにも絞り切れずに101選となってしまい、
その101番目がこの曲なのだ。

唱歌や歌曲では「赤い靴」・「あの町この町」・
「みかんの花咲く丘」・「月の沙漠」・「荒城の月」などなど、
流行歌や歌謡曲では「いい日旅立ち」・「秋桜」・
「上を向いて歩こう」・「川の流れのように」・「高校三年生」・
「世界に一つだけの花」あたりが選ばれている。
いかにもお堅い文化庁やPTAがお選びになったという歌ばかり。

個人的には「有楽町で逢いましょう」・「赤いハンカチ」・
「恋のバカンス」・「涙の連絡船」・「よこはま・たそがれ」・
「よろしく哀愁」・「私鉄沿線」なんかを入れてほしかった。
どうやら色恋沙汰はハナからいけないらしい。

それなら「学生時代」は外せないと思うんだが
あれってちょっとレズッぽいから、そこが災いしたんだろうネ。
「無法松の一生」や「唐獅子牡丹」は望むほうがムリだわな。
「山谷ブルース」もアカンわな。

J.C.は幼少のみぎり、毎晩ではないが
浪音ならぬパイの音を子守の歌と聞いていた。
パイといってもアップルパイやピザパイのそれじゃありやせんぜ。
ましてやペチャパイ、デカパイのそれでもない。
パイはパイでも牌なんですネ、そう、麻雀牌である。

当時、亡父はしょっちゅう自宅で接待麻雀を繰り広げていた。
相手は長野県庁・土木課(こんな課あるかな?)の職員たち。
いざ始まれば、徹夜とまではいかなくとも
深夜に及ぶことがほとんどだった。
二階で寝ていたので階下から聞こえ来る、
洗牌(シーパイ)のジャラジャラ音を子守唄としたものだ。
子どもだったせいか、音はあまり気にならなかった。

むしろイヤだったのはカツレツを揚げる油の匂い。
わが家では麻雀とカツレツは常にセットになっており、
チー・ポンが開始されると、亡母がカツを揚げ始める。
揚げ物は打牌しながら食べやすい。
当時の二大ご馳走はステーキとカツレツだったが
麻雀時に食べにくいテキは駄目でも
冷めても美味しいカツはバッチリなのだ。

しかし、あの油の匂いは子ども心をユーウツにさせた。
そのせいで小学校の低学年までトンカツを受けつけなかったほど。
揚げ物つながりで給食に出た鯨の竜田揚げも好きじゃなかったし、
竹輪の磯辺揚げにいたっては
いつか当ブログでも書いたが忌まわしき食いもんだった。
それが人間の嗜好というヤツは
変われば変わるもんなんですねェ。

=つづく=

2011年12月16日金曜日

第207話 今も昔も 中国人は!(その2)

荷風の「あめりか物語」はエッセイ集の態を成しているが
厳密にはフィクションの短編小説集。
ただし、実生活の経験に深く基づいており、
ドキュメンタリー的要素をふんだんに含んでいる。

明治の文人の洋行となれば、
永井荷風以前に森鷗外と夏目漱石がいる。
鷗外はドイツへ、漱石はイギリスへ、
そして荷風はアメリカとフランスに渡った。

荷風はフランスを憧憬していながら
実際に滞在したのはたかだか1年足らずであった。
それもリヨンに8ヶ月、パリにはたったの2ヶ月だ。
一方、好きでもないアメリカでは4年余りを過ごしている。

「あめりか物語」と「ふらんす物語」を読み比べると、
文体や発想のキレ味は「ふらんす~」に軍配だろうが
文筆家としての未熟さを匂わせながらも
長かった「あめりか~」にはそれなりの厚みを感じる。

おっと、チャイナタウンの中国人であった。
「あめりか物語」に収められた一篇、
「支那街(しなまち)の記」から抜粋する。

 空地を行尽すと、扉のない戸口がある。
 這入れば直様狭い階段で、折々痰唾吐き捨てあるのを、
 恐る恐る上って行くと、一階毎に狭い廊下の古びた壁には、
 薄暗い瓦斯(ガス)の裸火が点いていて、米国中、
 他の場所では夢にも嗅げぬ、煮込みの豚汁や青葱の臭気、
 線香や阿片の香気が、著しく鼻を打つ。


 見れば、ペンキ塗の戸口には、「李」だとか「羅」だとかいう名字やら、
 その他縁起を祝う種々な漢字を、筆太に書いた朱唐紙が、
 ベタベタ張付けてあり、中では猿の叫ぶような支那語が聞こえる、
 が、然らざる戸口には、蝶結びしたリボンなぞを目標にして、
 べったり白粉を塗立てた米国の女が、
 廊下に響く足音を聞付けさえすれば、扉を半開に、
 聞覚えの支那語か日本語で、吾々を呼び止める。


 哀れ、この女供は、米国の社会一般が劣等な人種とよりは、
 寧ろ動物視している支那人をば、唯一の目的にして
 ―その中には或る階級の日本人も含んで―
 この裏長屋の中に集って来たものである。
 人間社会は、如何なる処にも成敗、上下の差別を免れぬ。
 一度(ひとたび)、身を色慾の海に投捨てても、
 なおその海には清きあり濁れるあり、
 或者は女王の栄華に人を羨ますかと思えば、
 或者は尽きた手段の果が、かくまでに見じめを曝(さら)す。


”猿の叫ぶような支那語”
”劣等な人種とよりは、寧ろ動物視している支那人”
いや、はや、何ともスゴいや。

出版された1908年は中国人の日本留学が盛んだった時代。
若き日の蒋介石も滞日して勉学に勤しんでいた。
例えばときの留学生たちが「あめりか物語」を読んだとしたら
彼らは永井荷風を激しく憎んだであろう。
もしもその時代にくだんのゴロツキ船長がいたならば、
哀れ荷風、ブスリと刺殺されていたに違いない。

2011年12月15日木曜日

第206話 今も昔も 中国人は!(その1)

沖縄県・尖閣諸島沖で不法操業した挙句、
海上保安庁の巡視船に体当たりした、
中国漁船のあの忌まわしき事件から1年3ヶ月。
またまたやらかしてくれたヨ、中国人のゴロツキ船長が!

突然、刃渡り17センチの包丁を振り回して
韓国の海洋警察係官を刺殺するとは狂気の沙汰である。
これには日本の暴力団も真っ青だろう。
昨日は北京の韓国大使館に銃弾が撃ち込まれたという。
いったい何なんだ、この国は!
こんなんが国連の常任理事国じゃ、
世界はやってられないわな。

事件に関する中国外務省報道局参事官のコメントもヒドい。
自国犯罪者の人権保護を求めるばかりで謝罪はない。
日本人の良識を涼しい顔で踏みにじる、
東京電力のハレンチ弁護団といい勝負だ。

黄海では中国漁船の不法操業が横行しており、
過去5年間で韓国側に2千隻以上拿捕されているが
中国政府は自国の漁船の自制を促すどころか
国を挙げて犯罪を後押ししているとしか思えない。

それにしてもこのところ、
目を覆い、耳をふさぎたくなるような中国ネタばかりだ。
誘拐した乳幼児の大量人身売買。
車に轢かれて瀕死の重傷(のちに死亡)を負った少女を
18人もの通行人が目撃していながら知らんぷり。
そこには生きとし生けるものとしての心の温かさが微塵もない。

経済成長をとげても人的レベルは低迷したまま。
都知事じゃないけれど、民度が低すぎるのだ。
国家のレベルもまた低いがネ。

ここで話題はいきなり飛ぶ。
2ヶ月前のとある日。
"連読"している週刊誌を買いに近所の書店に立ち寄ると、
岩波文庫の棚に永井荷風の「あめりか物語」を見つけた。
いつの頃だか、自宅の書架から消えた1冊である。

姉妹篇の「ふらんす物語」もなぜか見当たらない。
「ふらんす~」の方は4年前に再読した。
荷風ゆかりの街、リヨンを訪ねるにあたって何らかのエピソード、
あるいは手掛かり、足掛かりを求めたからである。

「あめりか物語」を読んだのはワンス・アポン・ア・タイム。
懐かしさもあって誘われるように購入した。 
あらためて読了すると、いや、実におもしろい。

100年前の荷風のアメリカ生活を綴ったもので
ニューヨークのチャイナタウンも登場する。
現代なら出版を差し止められてしかるべき、
中国人に対する差別的描写がここかしこ。
彼らが読んだらさぞ不快だろうが
野蛮な中国人の犯罪が連続する折も折、
明日のブログで原文のまま紹介したい。

=つづく=

2011年12月14日水曜日

第205話 かつては無縁の高円寺 (その3)

今回もまだ高円寺にハマッたままである。
「民生食堂 天平」に出会えたのは
TVロケで伺った焼き鳥店のおかげ。
さもなければ有形文化財ともいえる食堂には
永遠にめぐり逢えなかったかもしれない。

恩人ならぬ恩店の名は「大和鳥」。
所在地の中野区・大和町に掛けて「やまとちょう」と読む。
小体な店とはいえ、親父サンがただ独りで営んでいる。
したがって飲みものなんかセルフサービス。
それも相当に人使いが荒いらしい。

取材時は店を借り切って迷惑を掛けたから
飲み仲間を何人か誘い、出直した。
実はこの夜も「天平」に立ち寄り、
ビールをポンポン抜いてオムレツやかきフライをつまんできた。
当夜のメンバーは5名。
中には最近くるぶしを骨折したひょうきん者が居て
歩行がままならないと、自転車で駆けつけて来る始末。
本人曰く、足を折ったら徒歩よりチャリンコが楽なんだと―。

「天平」から「大和鳥」へは徒歩1分。
あらかじめ奥の小上がりを用意してもらってある。
くだんの親父サン、ことのほか張り切ったとみえて
最初に出た刺盛りがきわめて良質。
本まぐろの赤身・中とろは言うに及ばず、
ぶりも〆さばも高円寺のレベルではない(失礼!)。

ビールはそこそこにチリ産赤ワインに切り替える。
そうしておいて名物のささみ明太焼きとうずら玉子焼きだ。
自慢の品だけにどちらも秀にして逸。
殊にうず玉は殻付きのまま焼かれてくる。
J.C.の長い人生において殻付きうず玉は2度目。
最初は春日部の焼きとん店「福島や」で今年の春のこと。
人生お初が半年間に重なるなんて、こんなこともあるんだねェ。

そういえば、ご無沙汰だった若者の町に
たかだか1ヶ月の間に2度もやって来た。
おかげで老頭児の来訪に耐え得る店を何軒か、
発掘できただけでも大いなる収穫だ。

もともと杉並区は都内でも指折りの若者エリア。
区の統計によれば人口に占める20~30代の比率の高さは
高円寺が突出していて区内139街区中、
高円寺南二丁目は1位、
高円寺北三丁目が3位にランクされている。
道理でオヤジにゃ敷居が高いワケだよ。

最後に余談ながら地名の由来は宿鳳山高円寺。
所在地は駅からほど近い高円寺南四丁目だ。
いまだ目にしたことはないが多少の縁もできたことだし、
近々、参詣に訪れてみようとひそかに企んでいる。

=おしまい=

「大和鳥」
 東京都中野区大和町2-44-8
 03-3337-0990

2011年12月13日火曜日

第204話 かつては無縁の高円寺 (その2)

2度目の高円寺ロケは焼き鳥屋だった。
駅北口から15分近くも歩くだろうか。
かつては大学があり、学生達が行き交った商店街も
今はさびれにさびれて街灯もまばらだ。

この通りでたまたま遭遇したのが「民生食堂 天平」。
民生食堂とは何ぞや?
戦後まもなく生まれた外食券食堂が
昭和26年に民生食堂に移行したもので
これにより外食券を持たない者も食事ができるようになった。
どちらも東京都が米飯の供給を統制するために
登録を前提に営業を促した食堂である。

「天平(てんぺい)」の前を通りかかったとき、
これは大変な店を探し当てたと胸がときめいた。
ロケ終了後にさっそく訪れると、
店主夫婦がのんきにTVの野球中継を観戦中。
パリーグのクライマックスシリーズである。
足元には1匹の猫が戯れ、心和む光景が拡がっていた。

スーパードライの大瓶(600円)を飲みながら
ごく自然に親父サンと会話が始まった。
夫婦揃って巨人ファンなんだと―。
よく見ればこの親父サン、
金田正一と国松彰を足して2で割ったようなご面相。
笑いをかみ殺してその旨告げると、ご本人はテレ笑いだ。

金田は判るが国松って誰だ! ってか?
読売巨人軍の主に1番を打った中堅手なんざんす。
シーズン最高打率はオールスターに出場した1963年の.268。
文字通りの中堅選手で巨人の選手でなければ
まずオールスターはかなわぬ夢に終わっただろう。

ずいぶん前に球界を退いたが今は実業家として活躍中。
ナボナで有名な「亀屋万年堂」の社長サンに収まっている。
というのも、亀屋創業者の箱入り娘と所帯を持ったから。
世界のホームラン王・王貞治が
お菓子のホームラン王のCMに出演したのもその縁なのだ。

ハナシというものは妙なところで絡まり合う。
「民生食堂 天平」の壁に何と王貞治のサイン入り色紙があった。
こういう偶然ってママあるんですよねェ。

女将サンも加わって野球やら猫やら、ハナシに花が咲く。
持ち家なので家賃ナシ、従業員ゼロで人件費ナシ、
だからこそ細々と商売を続けていられるそうだ。
注文したポークソテー(500円)は立派なサイズ。
ケチャップとウスターソースが利いた味付けも懐かしい。

その後も何度か足を運んでおり、
新さんま塩焼き定食(700円だったかな?)なんぞもいただいた。

さんまもさることながら沢庵が旨し

最寄り駅は高円寺だが地番は中野区・大和町。
是が非でも訪れるべし!とまでは言わないけれど、
訪れて後悔することはありますまい。
むしろ古き良き時代を偲ぶに必訪の1軒と言えるでしょう。
実に佳い店でした。

=つづく=

「民生食堂 天平」
 東京都中野区大和町3-10-14
 03-3337-2488

2011年12月12日月曜日

第203話 かつては無縁の高円寺 (その1)

そこそこの繁華街なのになぜか縁薄い場所がある。
ホームグラウンドの千代田・中央・文京・台東区から
遠く離れているのが最大の理由だろうが
なんのなんの好きな町なら遠征を厭うことはない。
西荻・江古田・十条・大塚・麻布十番なんかには
ちょくちょく出掛けているのがその証左だ。

逆に下北沢・自由が丘・吉祥寺あたりは苦手。
自分から進んで行くことはまずない。
もっともこういった遠隔地での飲み会や食事会は
めったにないから余計に疎遠になってしまう。

JR中央線・高円寺はその最たるものだった。
両隣りの中野と阿佐ヶ谷はときどき訪れるのに
高円寺だけは無縁であった。
いかにも若者の町といった雰囲気に
二の足を踏んでしまったらしい。

テレビ朝日の朝の番組に
「やじうまテレビ」があって何度か出演した。
スターの行きつけとか、歌姫のなじみとか、
そういう店を食べ歩くのである。

この番組のおかげで高円寺に2度続けて行く機会があった。
1度目は夏川りみがリピートする沖縄料理屋、
2度目は久本雅美が30年も通っている焼き鳥屋だ。

料理の撮影というのはけっこう時間が掛かるもの。
食べ手のJ.C.の出番はチャチャッと終わるから
待ち時間のほうがずっと長い。
店内にボケッと突っ立っていても仕方ないので
これ幸いと近所の探索に出ることとなる。

そうして見つけた店が当たりだったりする。
だから町歩きはやめられない。
沖縄料理店「抱瓶」のロケの合間、
商店街に2軒並ぶ食堂と洋食屋が心に残り、
後日、あらためて出向いた。

大衆的な食堂の名は「三晴食堂」。
初見の際に客は皆無だった。
訪問日もまた、ほかに誰もいなかった。

キリンラガーの大瓶が500円と安い。
しかも少量ながらつまみがサービスされる。
小鉢の中にはさつま揚げと竹輪と里芋の煮付け。
味付けがよく、お替わりしたいほどだ。
1品だけ注文した鯖の味噌煮(400円)も大当たり。
誰かを誘って再訪し、いろいろと食べてみたい。
なんだかずいぶんトクをした気分で隣りに回った。

レトロな洋食屋は「キッチン フジ」。
初老の夫婦が二人で奮闘している。
スーパードライの中瓶は500円。
本日の定食(600円)をライス1/3人前でお願いした。

料理プレートの陣容は、ウインナーエッグ、白身魚フライ、
豚肉生姜焼きにトマトとキャベツとケチャップスパゲッティ。
あとはポテトサラダ、豆腐とわかめの味噌汁、きゅうりの古漬けが付く。
味・ボリュームともに申し分なく、満足度は高い。
それにしてもこの内容で600円は
ビジネスを逸脱してもはやチャリティの世界であろう。
かつて無縁だった若者の町だが、少しばかり好きになってきたようだ。

=つづく=

「三晴食堂」
 東京都杉並区高円寺北3−10−2
 03-3337-7466

「キッチン フジ」
 東京都杉並区高円寺北3-10-1
 03-3339-5643

2011年12月9日金曜日

第202話 久しぶりだネ 隼人瓜

笹塚観音通りの「常盤食堂」に赴いた際、
近所のの青果店で珍しいものを見つけた。
隼人瓜(はやとうり)という瓜の一種で
実に5年ぶりの再会であった。
最後に見たのは水上温泉近くの朝市だった。
ただちに買って帰り、浅漬けにして食べ、
舌先に涼を呼び込むシャッキリ感を堪能した。

その前の出会いはかれこれ10年以上になろう。
散歩の途中、葛飾区・青戸の民家で実をつけているのを発見。
青戸は変ンな町で京成電鉄の駅や近くの中川に架かる橋の名は
それぞれ青砥駅、青砥橋なのに、地番は青戸なのである。
この町は食の不毛地帯。
食堂にせよ、居酒屋にせよ、これといった店がまったくない。
都心から行って一つ手前の立石とは大違いなのだ。

中川を臨む民家の塀の外に垂れ下がる隼人瓜を見て
無意識に周りを見渡した。
あたりに人影はない。
ということは目撃者がいないことを意味する。
これはもう完全にコソ泥の心理、
あるいは我慢がならなくて立ちションに及ぶ男の心理ですな。

蜜柑や柿ならいざ知らず、隼人瓜なんて誰も知らんだろうし、
ましてや採って食おうなんて酔狂な輩は皆無であろう。
(遠回しに罪を正当化している)

でもって駅前に戻り、
コンビニで飲みたくもないおーいお茶を購入する。
もいだ瓜を入れる袋が必要だったのだ。
犯行現場に再び現れ、
色ぶりのいいヤツを三つばかり失敬した。
どちらサンのお宅か存ぜぬが盗んだのはこのワタシです。
すでに時効成立とはいえ、その節はスイマセンでした。

早いとこ現物を見せろ! ってか?

はいコレです

スライスして一晩浅漬けにしたのがこちら。

塩漬けの実山椒を散らしてみた

もちろん山椒がなくても構わないし、
大葉の千切りなんかは相性がとてもよろしい。
スライスは微妙に厚さや形状を変えたほうが
食感のヴァリエーションを楽しめる。

隼人瓜はアフリカや南米でもポピュラーな野菜。
日本へは真っ先に鹿児島県に渡来した。
薩摩隼人に因んでのネーミングとなった由である。
八百屋のオジさん曰く、今回のは千葉産とのこと。

同じ八百屋で赤かぶをついでに買ってきた。
こちらは甘酢に漬ける。

皮の色が酢に溶け出して真っ赤

隼人瓜と赤かぶを食べ比べてみた。
迷うことなく軍配が挙がったのは隼人瓜のほうでした。

2011年12月8日木曜日

第201話 或る夜のかくれんぼ

美醜はさておいて妙齢の乙女3人に
老頭児3人がまとわりつく集団あり。
その6人が2~3ヶ月にいっぺんの割合いで
仲よく一緒に温泉に浸かっている。
もとい、ともに食卓を囲んでいる。

バカ言っとらんで老頭児ってなんだ! ってか?
ふむ、若い人にゃ読めんだろな、これ、ロートルと読みます。
意味はくたばりかかった、
もとい、くたびれかかったオッサンのこと。
あいや、オッサンというよりジイサンに近いかも・・・。

それはそれとしてこの自称グルメ集団、
お互いの誕生日なんぞを祝うために
食事会を開いたりもして、けっこうカワユイお付き合い。
愛があれば歳の差なんて、なのである。
まっ、あんまり愛は感じないけんど・・・。

もっともBDディナーはモロ当日に催すわけではなく、
2人くらいまとめてやるから、いい加減といえばイイ加減。
当夜も誰かと誰かの、いや、ちょいと待て、
祝福されたのは1人だったかな? まっ、この程度なのだ。

会場は四谷の住宅街にあるフレンチだが
年長の老頭児2人は行きがけの駄賃とばかり、
四谷見附の角打ち「鈴傳」に立ち寄る。
名うての銘酒が居並ぶなか、迷わずビールだ。
つまみは子持ち槍烏賊と大根の煮付け、これが旨い。

経費削減のために当夜のディナーは泡・白・赤すべて持込み。
BDのお祝いだから乾杯は泡のハズ。
したがって老いてなおビールを好むJ.C.には
必要欠くべからざる寄り道だった。

「メゾン・カシュカシュ」に雁首を並べたのは5名。
オトコと香港くんだりにシケ込み、ドタキャンしたのが約1名。
まっ、そのぶんワインをたくさん飲めるから了とするか。

いただきものは
 豚のリエット 冷燻サーモンのキャヴィア添え フォワグラのリゾット
 真鯛&帆立のポワレ 牛ほほ肉の赤ワイン煮 パン2種
 パンプルムースのジュレ ショコラ&マロンのガトー エスプレッソ

フォワグラのリゾットだけが珍しく、あとはクセ球ナシの直球勝負。
食材は平凡でも調理はしっかりしており、美味しくいただけた。
よくよく考えれば、温故知新の気配さえ感じたくらい。

だが、もしも自分がシェフだったら
 ウサギのパテ 真鱈とその白子の温燻 あん肝のリゾット
 あんこう&牡蠣のポワレ 仔羊のクスクス

こう行ったであろう。
リゾットとクスクスがあるからパンは要らない。
あとはBDケーキ1切れにエスプレッソ。
と、注文はつけても総合評価はけして低くなかった。

ところで一体どこがかくれんぼなんだ! ってか?
遅ればせながら店名の「カシュカシュ」、
これが仏語で「かくれんぼ」なんです。

「鈴傳」
 東京都新宿区四谷1-10
 03-3351-1777

「メゾン・カシュカシュ」
 東京都新宿区若葉2-7
 03-5363-5263

2011年12月7日水曜日

第200話 無化調チキンタンメン 男やもめのキッチン Vol.5

談志は死んだが、男子は独り厨房に入り、
なるべく手を抜いて料理する。
”男やもめのキッチン” シリーズ、その5回目と参りましょう。

日清食品が食の昭和史における最大の発明品、
チキンラーメンを発売したのは昭和33年8月25日。
長嶋茂雄がプロデビューした4ヶ月半後のことである。
この大ヒットによって日本国民は中華そば、
あるいは支那そばをラーメンと言い改めることになった。
もっともそれ以前からラーメン(柳麺)なる言葉は
広く人口に膾炙(かいしゃ)していたけれど。

今回の献立はチキンラーメンならぬチキンタンメン。
しかも化学調味料を全廃した無化調タンメンだ。
こいつはオススメ、とにかく旨い。

十数年来のすさまじいラーメンブームのおかげか、
やれ魚介だ、煮干しだ、鳥ガラだ、豚コツだと、
化調を廃したスープを絶対のウリとする店が
雨後の竹の子の如く現出した。
でも、さすがに無化調タンメンにはお目に掛からない。
専門店がクリアできない課題を成し遂げようというのだから
”男やもめのキッチン” シリーズも
まんざら捨てたものではないと思うのだが、いかがでしょうか?

てなこって、アラ・キュイジーヌ!

用意する食材(2人前)は  
 鶏手羽元・・・4本
 白菜・・・1/4カット弱
 にんじん&玉ねぎ・・・適宜
 にんにく&生姜・・・各1カケ
 中華麺・・・2玉(細打ち・太打ちを問わず)
 

大き目の鍋に水を張り、
手羽元と白菜の下半身のザク切り、
にんにく&生姜を投入して点火。
弱火で煮込んでゆく(この間およそ45分)。
1度火を止めて完全に冷ます。

その後、白菜上半身のザクと
適当に切ったにんじん&玉ねぎを投入して再点火。
再び弱火で煮込む(30分目安だがこだわらず)。
麺が加わるから味付けは塩のみで濃い目に。

麺を好みの固さに茹でて湯切り後、どんぶりへ。
上から厚いスープを注ぎ、
白胡椒を振り、胡麻油を垂らして出来上がり。

好みで刻みねぎや香菜(シャンツァイ)を散らしてもよいし、
胡麻油の代わりに辣油(ラーユ)もイケる。
彩りの欲しい方は絹さやを加える(煮すぎ厳禁)。
上げ際にニラのみじん切りを軽く煮るのはまことにけっこう。

煮込まれて骨離れのよくなった手羽元は軟骨も食べられる。
途中で酢を垂らすと舌先が変わって2度目の美味しさ。
味が薄くてもの足りないと感じる向きは
市販、あるいは添え付けのタンメン用スープを
2人前に1袋だけ使用すれば舌が納得する(誤魔化される)。
こうして段々に出来合い化調スープの量を減らし、
舌を慣らしながら鍛えると、
味覚が進化すること請け合いである。

2011年12月6日火曜日

第199話 大正生まれの「常盤食堂」 にせどろ千夜一夜 Vol.5

実のところ、昨日のハナシにゃ続きがあった。
代田橋の「布美よし」、笹塚の「千歳鶴酒蔵」と
立て続けに空振りしてツーストライクと追い込まれ、
いったん打席を外し、策をめぐらせることと相成った。

笹塚観音通りには目星をつけた候補があと2軒ある。
「おかめ亭」なるスタンド割烹と
独立していながらも都内各地に点在する「常盤食堂」だ。
「常盤」は「ときわ」と、ひらがなで名乗る店が圧倒的多数。
特段、秀でた店はなくとも底割れしない安心感がある。
ましてや当夜はノーボール・ツーストライクに追い込まれた。
しかも当食堂は創業大正11年の老舗、安全策でゆくしかない。

サッポロ黒ラベル中瓶(500円)に
ロースハムサラダ(300円)を注文。
夫婦であろう、オバさんが外で接客、オジさんは厨房で調理。
ほかに誰も見当たらず、二人だけの切盛りのようだ。

ビールを空ける間もなく運ばれたロースハムが意外や意外、
ことのほか良質にして、添えられたポテサラもけっこう。
この店は使えるナとほくそ笑んだ。

仕上げのオムライス(800円)も
下町の洋食屋風に、下世話ないい味を出している。
唯一の減点材料が化調にまみれた厚揚げとわかめの味噌汁。
しかしトータルで見れば、この店は当たりだ。
けっして長打ではないが、ドン詰まりのテキサスヒットじゃないし、
ボテボテの内野安打でもなく、クリーンな単打といえよう。

すぐにウラを返すつもりが京王線沿線は縁遠く、
なんやかやと再訪まで7ヶ月を費やしてしまった。
一次試験はパスしたものの、
厳しさの増す二次試験の結果やいかに?

此度もビールと一緒に頼んだのはロースハムサラダ。

ロースハムは2枚付け

それにビールのよき友、串カツ(280円)である。

串カツも2本付け

豚肉の間には玉ねぎの代わりに長ねぎが潜んでいる。
町場の精肉店と似たような値段に脱帽だ。

ビールを飲み続けながら燗酒も欲しくなった。
大関の1合瓶(450円)を上燗で所望する。
同じ大関生冷酒の1合瓶も同値。
酒に合わせてほうれん草のおひたしとアジの開きを。
写真に撮るのを忘れたこのアジが身厚で旨かった。
温泉旅館の朝めしに出て来るのとは大違い。

料理はほかにオムレツ(280円)と豚生姜焼き(450円)。

刻んだハム入りのオムレツ

下味をつけて焼く豚生姜

どちらも大衆食堂のレベルを超えている。
味噌汁以外にハズレなく、
”にせどろ千夜一夜”シリーズにふさわしい佳店であった。

会計後、再び観音通りを歩きながら思った。
毎月18日がご開帳の小体な笹塚観音は
通りのいったいどこに鎮座ましますのだろう。
行ったり来たりしてみたが、ついぞ出くわさなかった。
八百屋のオバちゃんにでも訊いたほうが早かったナ、こりゃ。

「常盤食堂」
 東京都渋谷区笹塚1-21-10
 03-3466-2059

2011年12月5日月曜日

第198話 余震でグラリと揺れた夜

半年以上も前のハナシで恐縮だが
大震災のちょうどひと月後のことだった。
その日は6週に1度の理髪日に当たっていた。

渋谷区役所の真ん前の小さなビルの4階、
客のほうが恥ずかしくなるほどゴージャスな店名のヘアサロンで
さっぱりしたあとに向かったのは代田橋。
渋谷のPARCO裏から
阿佐ヶ谷方面へ行くバスに乗り込もうとしていた。
するとそのときグラグラッと久々に大きな余震がきた。

バスの運転手が
「交通機関の情報が判り次第、ご報告します」―
アナウンスしたほどだから相当なものだ。
乗客もそれぞれに携帯やラジオでニュースを見聞きしては
知り得たことを口々に発し、
騒然とした空気の中にもささやかな連帯感が芽生えていた。

大原の交差点で下車し、すぐ近くの食堂「布美よし」へ。
当夜の狙いは当ブログ、
”にせどろ千夜一夜”シリーズの候補店の物色。
普段あまり出没しない代田橋・笹塚界隈で
3軒ほど周遊する腹積もりだった。

「布美よし」は昼の15時から翌午前2時までの超変則営業。
店先に”お食事”と書かれた青暖簾がかかっていた。
殺風景な店内ではバイトらしき女の子が無愛想。
向いてねェなあ、客商売に!

品書きに朝鮮漬(200円)を見とめた。
そうだよ、昭和30~40年代はみんな朝鮮漬と呼んでいた。
どこのドイツがいつからキムチなんて言い出したのだろう。

評判のもつ炒め(330円)を頼んでみたもののパッとしない。
肉豆腐(250円)しかりであった。
店にゃ悪いけれど無駄足を踏んじまったか・・・。

甲州街道を隣り町の笹塚まで戻る。
飲食店が軒を連ねる観音通りを行ったり来たり。
2軒目として選んだのは「千歳鶴酒蔵」。
左隣りの「なる潮」なるふぐ屋に見覚えがある。
今は昔、ニューヨーク時代に取引があった、
某メガバンクのチーフディーラー、
K島氏にふぐちりを振る舞われた記憶がある。
かれこれ十年余り前のことで
当時、彼は笹塚支店の支店長たったと思う。

「千歳鶴酒蔵」では千歳鶴二級酒の大徳利を上燗で。
地鶏の焼き鳥(3本450円)は塩焼きにしてもらった。
可も不可もないナ。
ミックスフライ3点盛り(750円)というのがあり、
平目・アジ・キス・牡蠣から3つ選ぶ寸法だ。
牡蠣を外して注文してみた。
これまた可も不可もなく、白身は明らかに平目ではない。
おおかた深海魚のホキであろうよ。
締めくくりに千歳鶴枡酒を冷やで1杯飲り、お勘定。

この段階でまだ収穫はナシ。
まあ、こんな夜もあろうて。
さて、これからどう身を振ったものよのう・・・。

「布美よし」
 東京都世田谷区大原1-63-8
 03-3325-9910

「千歳鶴酒蔵」
 東京都渋谷区笹塚1-16-5
 03-3466-4465

2011年12月2日金曜日

第197話 3本のフランス映画

NHKのBSとひかりTVで
立て続けに3本ものフランス映画を観た。
1話で3本はキツいけれど、駆け足で紹介してみたい。

「海の牙」(1946年)  BSプレミアム
 監督: ルネ・クレマン
 出演: アンリ・ヴィダル  ポール・ベルナール
      ミシェル・オークレール


監督は「禁じられた遊び」・「太陽がいっぱい」のルネ・クレマン。
潜水艦映画のハシリとも言えるが出来はあまりよくない。
クレマンには名作が多くとも駄作が少なくない。
「生きる歓び」(当ブログと同タイトルですな)、
「危険がいっぱい」、「雨の訪問者」などはまったく感心しない。
奔放な人妻役(スウェーデン人の設定)を演じた、
ミシェル・オークレールの存在感が男だけの世界で際立っている。


「いぬ」(1963年)  ザ・シネマHD
 監督: ジャン=ピエール・メルヴィル
 出演: ジャン=ポール・ベルモンド  セルジュ・レジアニ
       ジャン・ドサイー  ファビエンヌ・ダリ


フレンチ・フィルム・ノワールの巨匠、メルヴィルの代表作の1つ。
この作品のベルモンド、同じメルヴィルの「サムライ」におけるドロン。
似たような役柄で、ともに帽子をかぶったトレンチコート姿だが
そこはフランス映画界を代表する2人、対極的に印象深い。
原題の「Le Doulos」は帽子のことで隠語は密偵(いぬ)。

「冒険者たち」のレジアニがシブく脇を固めて好演。
名脇役でありながら歌手としての才能にも恵まれ、
「マ・リべルテ(わたしの自由」など、
本家本元のジョルジュ・ムスタキよりはるかに格調高い。
今から37年前、フランス人のGFから教え込まれたのは
レジアニの歌唱とフランス煙草のジタン、この2つでありました。
今頃どうしているだろか?


「暗黒街のふたり」(1973年) シネフィル
 監督: ジョゼ・ジョヴァンニ
 出演: ジャン・ギャバン  アラン・ドロン
      ミムジー・ファーマー  ミシェル・ブーケ


「地下室のメロディー」、「シシリアン」に続き、
ギャバンとドロンが三たび競演。
「地下室の~」には及ばなくとも、なかなかの作品に仕上がった。
金髪ショートカットのミムジーがメッチャ可愛い。
名前も素敵で、もしもあと1匹猫を飼ったらミムジーと名付けたい。
まだ無名だった頃のジェラール・ドパルデューが
チンピラやくざのチョイ役で出ており、
その悪相たるや、のちの出世を誰が想像し得たであろうか。

昔、映画館で観たときのラストシーンは
ギロチンで断頭されるドロンの顔のどアップだったが
今回はあまりに残酷なためか、
あるいはカットだけにカットされていた。
ところで当時(1973年)、
フランスには何台のギロチンが存在していたのでしょうか?
正解は2台で、1台はパリに常駐、
もう1台は必要に応じ、地方周りをしていたんですと。
この映画でそれを知らされました。

2011年12月1日木曜日

第196話 2011年 関原の飲み会

埼玉のお茶屋さん、H.O.クンの提案で
足立区・関原地区を飲み歩くこととなった。
1600年 関が原の戦いならぬ、
2011年 関原の飲み会である。
早いものであれから411年かァ・・・
いや、観戦したわけじゃないけどネ。
それにしても、連日、飲んだくれてばかりで恐縮です。

メンバーはほかに高校の同期生、
K石とO田切(これじゃ実名同然だな!)の総勢4人。
東武伊勢崎線・西新井駅での待合わせを
例によってJ.C.は一足先に現地入りした。

駅から歩き始め、ヤケに即物的な町だなというのが第一感。
マンションもスーパーもとにかくメガサイズで
警察署なんかスコットランドヤードかロス市警なみだ。
さぞや署員も大量に詰めているこったろうから
近所の住民がバカスカ犯罪を犯さないと
連中、ヒマでヒマでしょうがねェだろうヨ。
なんだか先週亡くなった家元みたいな調子になってきちゃった。

10分少々で関原地区に到着。
関原イーストロード、関三通り、関原銀座会、
さして広くもないエリアに名前の違う商店街がひしめいている。
中でも眼鏡・指輪の「明巧堂」なる古い時計店が印象的だ。

みんなと落ち合った最初の店は立ち飲みの「酒屋バル nibu」。
明るい農村、もとい、明るい時間の「松屋酒店」が
夜はバルに変身するスタイルで、nibuは二部のこと。
言わば、ジキル博士とハイド氏みたいなもんですな。

まずはサッポロの生小を2杯。
そして藤本つよしサンという人の作った赤ワインを1杯。
つまみはまぐろ心臓の乾きモノに自家製ベーコンとキッシュだ。
小じゃれたもんが揃っているのが下町の角打ちと異なるところ。
関原地区に迷い込んだら、つぶしておきたい1軒であろう。

2軒目はH.O.が何度か訪れたという、お好み焼きの「若松」。
番地からもお判りのように「nibu」の並びにある。
店内は隣りの卓との間に個室風の仕切りがあって
互いののプライバシーを守っている。

ここではアサヒの生中を2杯。
食べものはタイトルロールの若松焼きに鳥モツ入りもんじゃ。
特筆すべき点は見当たらなくとも
もんじゃタウン月島の平均値よりは上であろうか。

3軒目はJ.C.が目星をつけておいた「和楽」。
実は1時間も早めに出動したのにはワケがあった。
当夜はサッカー日本代表の親善試合、対ベトナム戦があり、
あらかじめTVを置いてる店を物色していた。
小上がりに画面を正面から見据える恰好の卓を見つけ、
予約こそしなかったものの、心のうちで白羽の矢を立てていた。

店先の品書きも
 馬刺し 1000円  海老フライ 600円 
 ぶり照焼・銀だら煮つけ・煮込みハンバーグ 各500円
 もつ煮込み 450円

と、お手ごろ価格。

アサヒの大瓶を1本弱、富久娘樽酒を1合強飲んだ。
馬刺しの旨さは覚えちゃいるが、あとの料理は忘却の彼方。
いや、サッカーに夢中でほとんど食べちゃいないのである。
肝心の日本代表といえば、ショボいことはなはだしく、
このチームに3-4-3はまったくフィットしませんネ。

「酒屋バル nibu」
 東京都足立区関原3-28-11
 03-3886-2270

「若松」
 東京都足立区関原3-28-12
 03-3889-4784

「和楽」
 東京都足立区関原3-6-7
 03-3889-8840