2014年7月31日木曜日

第893話 連れて帰った黄金虫 (その4)

 ♪ おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ 天国に行っただ
   長い階段を 雲の階段を
   おらは登っただ ふらふらと

   おらはよたよたと 登り続けただ
   やっと天国の門についただ
   天国よいとこ一度はおいで
   酒はうまいし 
   ねえちゃんはきれいだ
   ワーワーワッワー     ♪
    
   (作詞:ザ・フォーク・パロディ・ギャング)

黄金虫は死んじまったが帰って来た。
もちろん死んだヤツが生き返るわけはないからベツの個体だ。
仮に前話の主役を黄金虫1号としようか。
となると、こちらは黄金虫2号である。

1号が永眠して二日後の朝、
家を出たらドアの外に1号に瓜二つの2号の姿があった。
あらら、こんなところにまたもや黄金虫。
「どうしたんだヨ、オマエ?」―そう、問いかけたい気持ち。

こう、たびたび見掛けたんではねェ。
仕舞いにゃ、家に押し掛けられたんではねェ。
 いやはやたまったもんじゃないゾ!
なんてことはまったくなく、
来るモノ拒まず(オンナはその限りに非ず)主義のJ.C.は
歓迎の意を表して、さっそく拙宅に招き入れた。

今、出たばかりの主(あるじ)がいきなり舞い戻ったものだから、
見送りに出ていたウチの猫がキョトンとわれわれを見ている。
これがホントの招き猫ですがな。
すでに愛猫・プッチは1号と戯れた過去があるから二の轍は踏まない。
興味深げに眺めているだけだ。

取りあえず例の蜂蜜を深めの皿に垂らし、
その皿を2号の仮住まいとした。
もちろん猫の手のとどかない、安全地帯に置いてネ。

その日はずっと外で、帰宅したのは23時過ぎ。
2号の様子をうかがうと、おとなしく皿に収まっているじゃないの。
ごほうびにキュウリのスライスを進呈してみた。
すると、よく食べるんだな、これがっ!
キュウリにまたがる黄金2号
2、3日、そんな生活を送っていた2号だったが
いつの間にかいなくなった。
黄金虫は金持ちかもしれんが、移り気でもあるんだなァ。
でも、どうやって外に出たんだろう?
ひょっとしてベッドの下か本棚の奥で
屍(しかばね)になっていたりして―。

=おしまい=

2014年7月30日水曜日

第892話 連れて帰った黄金虫 (その3)

何十年ぶりかで昆虫を自宅に持ち帰った。
いや、童心に返るなァ。
と、思いきや、昨夏、油蝉(あぶらぜみ)をそうしたことを思い出した。
でも、あいつはもはや瀕死の状態にあったからねェ。
元気な虫はやはり数十年ぶりになる。

さっそく、愛錨・プッチと対面させる。
去年、蝉と遊んだ経験があるので
大してとまどうでもなく、しばし戯れていた。

そうだ、何か食べものを与えなけりゃ・・・。
童謡には
”飴屋で水飴買ってきた”
とあるから水飴は好物のハズ。
でも男やもめのしがないヤサにそんなモンがあるわけがない。

濃い砂糖水でも作ってやるか?
いや、ちょっと待て!
確かいただき物の蜂蜜があったな。
戸棚の奥に探り当て、即刻開封に及ぶ。

スプーンに1/4匙ほど与えてみたが微動だにしない。
微動だにしなかったが、そのうちモサモサと動き始め、
垂らしてやった蜂蜜をなめ始めたではないか!
水飴ならぬ蜂蜜をなめる
ご覧になってお判りのように
黄金虫は黄金色に輝いているのではない。
光沢を備えた緑色をしている。

もしも黄色い小旗を手に
蟻のと渡りの交通整理に及んだならば、
昆虫界のちょいとしたみどりのオバさんだネ。

奴さん、翌日も生きていた。
ときどき羽ばたいて飛び立とうとするのだが
何せ六つ足がベトベトの蜂蜜に取られて
テイク・オフできないでいる。
ちと可哀想になって
その夜は黄金虫の足を洗ってやって就寝した。

目覚めて翌朝、あやつがいない。
くまなく探したというのではないけれど、
一応、室内を捜索してみたものの、見つからなかった。
部屋は閉め切ってあるから外には出られぬと思うがネ。

さして気にもとめず、そのまま外出して戻ったのは夜。
ライトを点けると、何やら愛猫が戯れている。
前足の先にはくだんの黄金虫である。
黄金虫ではあったが、すでに骸(むくろ)と化していた。
虫かごでも買ってきて
住宅環境を整えてやらなければいけなかったかな・・・。

ところがその黄金虫が帰って来たのであった。

=つづく=

2014年7月29日火曜日

第891話 連れて帰った黄金虫 (その2)

東武伊勢崎線は鐘ヶ淵。
そう、あのカネボウの工場があった土地だ。
電車が駅に差し掛かった折、
車内で発見した黄金虫を指でつまんだところである。

奴サン、折りたたんだばかりの羽根をまた開き、
どこぞへ飛び立とうと羽ばたくものの、
そう簡単には脱出を許さぬ、
イヤな野郎が車内にいたのが運のツキであった。

スーパーで買った食品のレジ袋の上に置いたらば
しばらく上下を行ったり来たりしている。
どうやらテイク・オフをあきらめた様子にて
そのうち、袋のてっぺんでおとなしくなった。

そうこうするうち、終点の東武浅草に到着。
この街にやって来て
すんなり帰宅の途に着くわけにはまいらない。
さて、どこで飲もうか・・・。
何となく、そのコガネくんを解放する気になれず、
そのままレジ袋の中に放り込んだのだった。

台東区浅草1丁目1番地1号、
街のランドマークと言い切ってよいビヤホールでまずは生中を1杯。
別段、料理は何も取らなかった。
ウェイトレスがプレッシャーをかけてくるわけでもなく、
こういう飲み方ができるビヤホールは大好きだ。
くだらんお通しをおっつけてくるチャーン居酒屋は
ぜひとも見習ってほしい。

ビヤホールのあとは
ちょくちょく顔を出すホッピー・ストリートの酒場でホッピーだ。
白・黒・赤とあるうち、黒の中(ボトル)を1本、
外(焼酎)を2杯で切上げる。

夜もそれなりに更け、そろそろ家に帰らねば・・・。
地下鉄・銀座線の階段を降りかかったときに
ハッと気がついた。
例の袋がないヨ、店に忘れてきたヨ。

あわてたわけでもないが引き返した。
レジ袋は酒場にちゃあんとありました。
中を調べると、鐘ヶ淵で捕獲したコガネくん、
身じろぎもせずにたたずんでおった。

酔いも手伝って、こやつを家に持ち帰り、
どのくらい生きているのか見当もつかないが
一応、保育、いや、飼育というのかな、
とにかく、そうしてみようと思った。
虫を自宅に連れ帰る、何十年ぶりのことであろうか・・・。

=つづく=

2014年7月28日月曜日

第890話 連れて帰った黄金虫 (その1)

 ♪ こがね虫は かねもちだ
   金ぐら立てた くら立てた
   あめ屋で水あめ
   買ってきた

   こがね虫は かねもちだ
   金ぐら立てた くら立てた
   子どもに水あめ
   なめさせた     ♪
 
     (作詞:野口雨情)

東京メトロ・千代田線の綾瀬駅。
下り直通電車の行く先は我孫子や柏だったりもするが
千代田線の最終駅は綾瀬だ。
まあ、ここから出る亜線の北綾瀬もあるがネ。

都心から松戸に向かう途中、
たまたま乗った電車は綾瀬どまり。
乗り継ぎのため、ホームにたたずんでいた。

手持ち無沙汰につき、晴れた空をぼんやり眺めていたら
何やら正体不明の小さな飛翔物がいくつか舞っている。
目をこらすと、どうやら昆虫らしい。
おそらく黄金虫であろう。

この虫から連想されるのはまず冒頭の童謡。
そしてエドガー・A・ポーの短篇小説だろう。
小説は初めて暗号を扱った推理モノとしてつとに有名。
中学生の頃に「黒猫」や「モルグ街の殺人事件」とともに
読了した記憶はあるものの、
ストーリーの細部はすっかり忘れてしまった。

それよりも唱歌「黄金虫」の歌詞を調べていて
とんでもないエピソードに行き着いた。
何でも野口雨情作詞のこの歌の主役は
黄金虫ではなく茶羽ゴキブリなのだそうだ。

スペイン語の歌にゴキブリを歌った「ラ・クカラーチャ」があるから
主役がゴキブリでも平気の平左だが
コガネムシが実はゴキブリだったというのは
素直に看過できないものがある。

その二日後。
今度は東武伊勢崎線の浅草行きに乗っていた。
電車が堀切を過ぎて鐘ヶ淵に差し掛かったとき、
車内に1匹の黄金虫を発見。
どこから侵入したのやら、
足元ににじり寄ってきたので思わずつまみ上げた。
久方ぶりに小金(こがね)に恵まれた気分である。

=つづく=

2014年7月25日金曜日

第889話 レバのちょい焼き (その3)

金町の「ブウちゃん」をまだ引きずっている。
好きな店ですからネ。
そう、そう、アホであった。

フランス人なら
「Q'est ce que c'est ?」
アメリカ人なら
「What the hell is this ?」
ということになろうヨ。

これがスペイン人だとダイレクトに
「ああ、アレか」と理解できる。
そう、アホはスペイン語でニンニクのことなのだ。

それでは何だってニンニクだけがスペイン語表記なのか?
何でも店の女将がフラメンコを習っているらしくて
遊び心からイジクッてみたらしい。

焼きとん以外のつまみを紹介しておこう。

 ミックスホルモン刺し ワサビのくき漬 おしんこ
 ねぎぬた かくや 冷やしトマト ブロッコリーマヨ
 めかぶ しらすおろし なめ茸おろし いんげん
 ほうれん草 沖縄もずく 冷奴 谷中生姜  以上300円
 もつ煮込み  400円

かくやとあるのは、古漬の新香を塩抜きして醤油をかけたもの。
漢字では覚弥とも隔夜とも書く。

好みの品はワサビのくき漬。
ほどよい辛味に醤油のしょっぱ味、
そしてシャキっとした歯ざわりがいい。
もつ煮込みも好きだ。
小ぶりの小鉢でくるが、深みがあるから量はじゅうぶん。
つゆもタップリでちょうとした吸い物代わりの役目を果たす。

飲みものは酎ハイが中心だ。
J.C.はビールを1本飲んだあと、酎ハイ(290円)をお願いする。
これは通称ボール、ハイボールの短縮形だ。
周りを見渡すと、レモン色の液体を飲む客が圧倒的。
沖縄の柑橘を使ったシークアサーハイである。
フレッシュ感があってなかなかに美味しい。

ほかには、ウーロンハイ、ウイスキーハイ、静岡割り、
青森りんごハイとあってみな300円。
トマトハイのみ350円だ。
静岡割りは日本茶ハイのことであろう。

おっと、大事なことを書き忘れていた。
焼きとんに大ガリ(咽喉部)とあるが
これは」ナンコツ以上に固いので
歯の悪い方はもちろん、丈夫な方も
せっかくの歯を痛めかねない。
ご用心あれ。

=おしまい=

「もつ焼き ブウちゃん」
 東京都葛飾区金町5-17-5
 03-3600-5895

2014年7月24日木曜日

第888話 レバのちょい焼き (その2)

葛飾の誇る焼きとんの優良店「ブウちゃん」にいる。
ただし、ここでは焼きとんとはいわず、もつ焼きと呼ぶ。
紺地に白く染めぬいた暖簾にも
大きく”もつ焼き”、小さく”ブウちゃん”と明記されている。

ここでJ.C.、はるか昔を振り返った。
わが記憶をたどると、
初めて焼きとんを食べたのは1960年3月20日。
以前、当ブログでもふれたが
日にちをピンポイントで特定できるのは大相撲のおかげだ。
その日曜日は3月場所の千秋楽。
結びの一番は互いに全勝の栃錦と若乃花である。
14勝無敗の横綱同士が千秋楽の結びで対戦するのは史上初だった。
この取組は現在、
浅草ウインズが建つ場所にあった新世界地下の温泉で観た。

浅草唯一の温泉で汗を流したあとに向かったのが
西浅草の今は無き「菊水」である。
これまた今は無き仁丹塔の裏手に在った、
「八ツ目鰻」のはす向かいに交番があるが
この脇の道が菊水通りだ。
大衆酒場がストリートに残す全国的に見ても
きわめて稀有なケースといえよう。

さて、葛飾・金町である。
「ブウちゃん」における焼きとんの部位の品揃えはかくの如し。

 レバ シロ ハツ ナンコツ 大ガリ タン
 ガツ カシラ コブクロ アブラ テッポー

大ガリというのは豚の咽喉部のこと。
アブラはカシラの周りの脂肪の多い肉片。
テッポーはシロ(小腸)の先の直腸だ。

J.C.の気に入りはもちろんレバ。
これだけはミニマム2本はいただく。
塩とタレのチョイスは断然タレがよい。
レバの特性に甘辛い醤油ダレが抜群の相性を見せてくれる。
しかもここのタレはサラリとして飽きがこないのがよろしい。

タン・ナンコツ・ハツなど、
豚の上半身はおしなべて塩がよく、
ガツ以下の下半身にはタレが合う。
この法則を頭の片隅に置いておくと、
焼きとん屋ではとても重宝するハズだ。

野菜串のネギ・シシトウ・ピーマン・シイタケ・アホも80円均一。
シイタケが同値というのは茸好きにはありがたいことだろう。
常連のオジさんたちはもっぱら焼きとんだが
若いカップル、殊に女性には野菜が人気だ

エッ? 何だって?
アホっていったい何だ! ってか?
ハハ、それは次話のお楽しみ。

2014年7月23日水曜日

第887話 レバのちょい焼き (その1)

焼きとん、それもレアのレバが食べたくなった。
レバ刺しはそれほど好まぬのに
ちょい焼きレバが大好きなのだ。

これは好物のたら子にも言える。
たら子のちょい焼きは酒の肴に飯の友に
まったくもって非の打ち所がない。
もっともこの魚卵に限っては生(なま)も好き。
よく焼きだけがパサつくから少々苦手だ。

都内で新鮮な豚もつを提供する店はかなりの数にのぼる。
中でもちょい焼きレバとなると、大田区・雑色の「三平」か
葛飾区・金町の「ブウちゃん」に落ち着くだろうか。
あくまでもJ.C.の知る限りにおいてはネ。

それでもって雑色はちと遠いから金町に出向いた。
この日は野暮な所用に振り回されて時間を食われてしまい、
「ブウちゃん」の赤提灯前に到着したのは20時過ぎ。
確かこの店のラスト・オーダーは22時半のハズ。
まだまだまだゆっくり飲める。
ありがたや。

葛飾・金町は南口、
ほぼ線路添いに亀有方面に2、3分歩くと、
提灯の赤い灯りがぼんやりと見えてくる。
それが焼きとんの「ブウちゃん」だ。
手前にもう一つ赤提灯があるけれど、
こちらは「デコちゃん」、間違えないように―。

そう、そう、線路添いと書いたが
JR金町駅南口には京成金町の駅がある。
くれぐれも京成の線路づたいを歩かぬように―。
そうすると寅さんの町、柴又に行っちまいますヨ。
夜の柴又は寂しい、いや、むしろ侘しいかな。
いわゆるわびさびの世界が待っている。

さて、「ブウちゃん」。
J.C.はスーパードライの大瓶(500円)をさっそくお願いする。
たまさか瓶が売り切れたりもするが
その際は生の中ジョッキ(550円)でゆく。

名代の焼きとんは一律80円。
この値付けがまことに歓ばしい。
まさしく、庶民の味方と言い切ってよい。

薄給の新入社員にも
位置を失った窓際のオトッちゃんにも
はたまた、被年休受給の老頭児(ロートル)にも
こよなくやさしい佳店がここである。

=つづく=

2014年7月22日火曜日

第886話 言葉がとても見つからないわ (その6)

1998年、フランス大会は日本のW杯元年。
艱難辛苦を乗り越えてというより、
あまりにも足踏みを重ねすぎてのデビューであった。

十有余年のニューヨーク駐在から帰国したばかりの’97年秋。
まだ棲まう物件が定まらずに知人宅で居候生活を強いられていた。
そこで観たのがドーハの悲劇ならぬ、
歓喜のジョホール・バルーだった。

この街はシンガポール滞在時に
いくどか訪れているので親しみがある。
市内の市場ではよく海亀の卵を買い求めたものだ。
よそではなかなかお目に掛かれない珍品だったからネ。

とにかく亀の卵というヤツは
白身がゆるくて熱湯でゆでようがフライパンで焼こうが
なかなか固まってくれない。
なんか温泉玉子の目玉焼きみたいになってしまうのだ。
日本から友人がやってくるたびに
亀玉をご馳走したっけなァ。
味はさておいて、みんな歓んでくれたのでした。

とにもかくにもフランス大会から16年が経つんだねェ。
長かったような、短かったような・・・。
相応の歳をとったことになる。

フランス大会の日本代表は
ふがいないといえばふがいなかったけれど、
そのぶん期待値が低かったから
べつに列島を哀しみに沈ませることもなかった。

日本のゴールはジャマイカ戦におけるゴン中山の1点のみ。
とは言え、救われた気がしないでもなかった。
3ゲーム戦ってノーゴールじゃあまりにも惨めだもの。

決勝のフランスVSブラジルは
ジダンのヘッド2発がズドンと決まってフランス圧勝の感が強い。
いくらホームだからって
フランスはこんなに強かったのか!
世界中が驚いたハズだ。
ちまたの予想ではがんばってもベスト4どまり。
優勝なんか夢のまた夢と思われていた。

こうして4年後に日韓大会を迎える。
日本のベスト16に比べ、
韓国のベスト4は立派すぎるほどに立派。
ご同慶の至りというほかはない。

まっ、この辺りからは記憶に新しく、
わざわざ回顧することもなかろう。
明日はサッカーから転じて
飲み食いネタでまいりましょう。

=おしまい=

2014年7月21日月曜日

第885話 言葉がとても見つからないわ (その5)

1994年のアメリカ大会はW杯史におけるエポック・メーキング。
サッカー不毛の地、北米大陸にワールドカップが上陸したのだ。

ニューヨーク在住のJ.C.は
ニュージャージーのジャイアンツ・スタジアム(だったと思う)で
予選リーグではあったがイタリアVSノルウェーを観戦した。
あとにも先にも生で観たW杯はこの一戦のみ。

ちなみに五輪で観たサッカーは
東京五輪のハンガリーVSモロッコ戦だけだ。

さて、そのイタリアの対ノルウェー戦。
開始直後にイタリアGKの反則でPKをとられた挙句、
本人は一発退場の巻である。
イタリア派としてはガックシもいいところ。
GK抜きでは戦えないので
代わりに下げられたのが何とバッジョときたもんだ。
イタリア派はみなふてくされたぜ。
まあ、何とか追いついて引き分けには持ち込んだがネ。

アメリカ大会では二人のファンタジスタが世界を魅了した。
かたやブラジルのロマーリオ、こなたイタリアのバッジョ。
両者相まみえた決勝戦は灼熱地獄の中、
まさに真昼の決闘であった。

その熱戦の模様を伝えた記事があるので抜粋して紹介しよう。
そう、当時、読売アメリカに連載していたマイ・コラム、
「J.C.オカザワのれすとらん しったかぶり」である。

ロベルト・バッジョの蹴ったボールがバーの上を越えた瞬間に
イタリア代表の熱い夏は終わり、
冬のブラジルは歓喜に包まれた。

守りに守って守りぬくイタリアに
攻めても攻めてもゴールを割れないブラジル。
観る者の目には凡戦に映るが
傷だらけのイタリアが
強豪ブラジルを迎え撃つにはこの戦法しかないのだ。

ゲームは延長に入って俄然、
攻守の切り替えが速くなり、TVの画面から目が離せなくなる。
しかし、すでに両軍の選手達は疲労困憊。
軸足の踏ん張りが利かないから
放つシュートがことごとく流れてしまう。

W杯史上初のPK戦による決勝。
この決着のつけ方に不満は残るが
両雄の健闘にいささかも水を差すものではない。

決戦後、夕食をとるため、リトルイタリーに出掛けた。
道ゆく人の姿がいつもより少なく、心なしか活気がない。
敗戦の哀しみに街全体が沈んでいたのかもしれない。

ずいぶんW杯を引っ張ってしまったが
このアメリカ大会に初出場するはずの
日本代表を襲ったのが”ドーハの悲劇”であった。

=つづく=

2014年7月18日金曜日

第884話 言葉がとても見つからないわ (その4)

1966年のイングランド大会以降、
W杯の歴史を回顧している。

’78年のアルゼンチン大会は
軍事政権下の異様な雰囲気の中で開催された。
脅迫を受けたオタンダの至宝、
J・クライフが参加を見合わせたほどだ。
決勝戦はそのオランダと地元アルゼンチン。
延長の末、地元が栄冠を勝ち取る。

この試合は芝のシティ・ホテルのルームで観た。
当時はここで働いており、翌日も午前中から仕事。
帰宅しても真夜中の観戦はツラすぎる。
そこでこちらは宴会担当と、部署は違うが
旧知の友人がフロントにおり、便宜を図ってもらった。
要するにタダで泊まらせてもらったワケだ。

スペイン大会は’82年。
’80年に金融界に身を投じていたJ.C.は
ようやく生活が安定し、自宅でゆっくり観戦できたのだった。
決勝はイタリアと西ドイツでイタリアの勝利。
イタリアは大会序盤に苦戦を強いられたが
優勝候補の筆頭・ブラジルを沈めてから調子の乗った。
西ドイツは一次リーグでアルジェリアに破れ、
その後のリーグ最終戦、対オーストリアとの談合試合が
W杯の歴史に大きな汚点を残すこととなる。

’86年のメキシコ大会は赴任先のシンガポールで観た。
シンガポールはバクチ好きの中国人の国である。
J.C.はここで彼らにサッカー賭博(?)の方法を
徹底的に叩き込まれた。
コレについては近いうちに当ブログで紹介したい。
本当はブラジル大会前に載せればよかったのだが
当局からにらまれるオソレがあったのでネ。
この大会はマラドーナの独壇場。
決勝もアルゼンチンが西ドイツを破り、二度目の栄誉に輝く。

’90年のイタリア大会時はニューヨークにいた。
ちょうど長期出張が入ってしまい、
ロンドン―パリ―ブラッセルと飛び回ったから
あまり試合を観ていない。
それでもイングランドのゲームをロンドンのパブで観戦できたりもした。
地元イタリアをサポートしていたJ.C.が
アルゼンチンにPK戦の末、敗れたという悲報を聞いたのは
ヒースロー―JFK間の機内アナウンスであった。
伊・西独の決勝を夢見ていただけに
このときも、言葉がとても見つからなかった。
結果は西独がアルゼンチンに楽勝する。

’94年、アメリカ大会は
当時、ニューヨークに棲んでいたJ.C.にとり、
忘れ得ぬ特別な大会となった。
以下は次話で―。

=つづく=

2014年7月17日木曜日

第883話 言葉がとても見つからないわ (その3)

W杯ブラジル大会では悲劇的シーンに事欠くことがなかった。
ドイツに打ちのめされたブラジル国民の心の痛手は
いつの日か、癒えることがあるのだろうか?
背骨が治癒してネイマールが再びピッチに立つのは
そんなに先のことではなさそうだ。

スペイン、イタリア、イングランド、ポルトガルの一次リーグ敗退も
悲劇といえば悲劇だ。
それに比べてわが日本の惨敗は
せいぜいプチ悲劇どまりだろうネ。

一方、母国に夢と希望を与えて余りあったのは
断然、コスタリカとアルジェリアの2ヶ国。
この2チームの大健闘は称えられてしかるべきだ。
イビチャ・オシムの故国、
ボスニア・ヘルツェゴビナの初勝利も
自国民を大いに力づけたことだろう。

メキシコとコロンビアはもはやかつての退屈なチームではない。
殊にメキシコの進化と躍進は4年前のスペインに迫るものがあった。
近い将来、ベスト4どころか、
決勝戦の舞台に踊り出てくるものと思われる。
それほどに強くなったのだ。
日本が目指すのはドイツのサッカーでは断じてない。
ドイツからは頭脳や精神に学ぶところはあっても
肉体・技術はメキシコを範とすべし。

大江健三郎じゃないが
ここで個人的な体験としてのワールドカップを振り返ってみる。

J.C.が初めて観たのは1966年のイングランド大会。
クイーン・エリザベスをして
「サッカーにはドラマがある」と言わしめた大会であり、
地元イングランドと西ドイツとの白熱した決勝戦は
後世にその栄えある残像を残す。

’70年のメキシコはブラジルの強さが際立っていた。
戦法・戦術が様変わりの現代とは一概に比較しかねるが
史上最強の勝ち方だった。
決勝でもイタリアを文字通り軽く一蹴。
まったく危なげなく手にした栄光だったと言える。

’74年は西ドイツ。
当時、ロンドンに棲んでいたJ.C.は
バイト先の隣りのパブでラガービールを飲みながら
決勝の西ドイツVSオランダを観た。
隣りにはスウェーデン出身のGFがいて
その夜のディナーを賭けたっけ・・・。

結果はオランダを取ったこっちの負け。
賭けには負けたけれど、
ヨハン・クライフが率いたチームは
モダンサッカーの嚆矢(こうし)であった。

’78年以降はまた明日!

=つづく=

2014年7月16日水曜日

第882話 言葉がとても見つからないわ (その2)

ポン友・ホケンからのメールはかくの如し。

しばらくオカちゃん、
今、3位争いなどはどうでもいいけど、
ブラジルVSオランダ戦を観てるよ。

せっかく今年のMLBを楽しみにしていたのに
田中の故障でガッカり。

ドイツ戦観て判ったけど、
これからのスポーツ選手は体力、
技術、プラス脳力(頭の良さ)がないとね。

ブラジルはスピードや技術あるけど、頭悪そう。
本田も長友もマー君もダルもあまり頭良くないし。
星野監督、ヤンキースのジラルデイーは最低。

日本では中6日なのに
6月頃からマー君を7~8回まで
100球以上投げさせ中4日で登板させてた。
高校野球での投げ過ぎもなんとかしないと、残念無念!
おいらの心配が的中し、
田中の選手生命が早々に終わってしまったのだ。
次は大谷に期待するしかないよ。

明日はドイツが99%勝つと思うけど、
メッシもいるから楽しみに観ます。

コレに対するJ.C.の返信は

みんなドイツ派だけど、あえてアルゼンチン。
ドイツのサッカーはだいぶ改善されてきたが
あのスタイルは好きになれない。

中南米でのW杯開催は少ないからあまりアテにはならないものの、
‘62年@チリ ‘70年@メキシコ 
‘78年@アルゼンチン ‘86年@メキシコ
と、ブラジル&アルゼンチンの栄光の歴史があるからネ。
‘94年@アメリカもブラジルだったもの。

ブラジルに大勝したドイツだが
アルジェリアと延長までもつれこんだ事実を忘れちゃいけない。
元代表DF・秋田なんか3-0でドイツだとサ。
W杯の決勝戦で3点差予想なんて、プロのやることじゃないヨ。
よって小額ではあるけれど、アルゼンチンに賭けてみました。

下馬評では圧倒的有利のドイツに対し、アルゼンチンはよく戦った。

今大会を振り返れば、悲劇の連続だったように思う。
もちろん最大の悲劇は、
ブラジルのドイツ戦における7-1と
コロンビア戦でのネイマールの負傷だ。

と、ここまできて、以下は次話であります。

=つづく=

2014年7月15日火曜日

第881話 言葉がとても見つからないわ (その1)

しばらくどころか
長いことお待たせして申し訳ありませんでした。
お詫びいたします。
どうぞ、お気を取り直していただいてご覧ください。

 ♪  やって来ました 倦怠期
   不貞くされ 女房は家出して
   スイジ センタク ゴハンタキ
   新婚当時を 思い出す ソラ ♪
       (作詞:なかにし礼)

W杯ブラジル大会も閉幕。
おおかたの予想通り、覇者はドイツであった。
期間中、多くの方から
「得意のサッカー・ネタをなぜやらぬ?」―
しきりに読者の声は届いていたが
ふてくされJ.C.はかたくなに沈黙を守っていた。

実際は沈黙を守ったのではなく、
日本代表のあまりの不甲斐なさに言葉を失っていたのだ。

 ♪ 見覚えのある レインコート
  黄昏の駅で 胸が震えた
  はやい足どり まぎれもなく
  昔愛してた あの人なのね

  懐かしさの一歩手前で
  こみあげる 苦い思い出に
  言葉がとても見つからないわ

  あなたがいなくても こうして
  元気で暮らしていることを
  さり気なく 告げたかったのに・・・ ♪

      (作詞:竹内まりあ)

そう、”言葉がとても見つからないわ”症候群に陥っていた。
この4年というものザック・ジャパンはいったい何をしてきたんだ。
失われた4年間は日本サッカー史に
末長く汚点を残すことになるだろう。

とにかく日本がプレイした3試合は退屈至極。
勝ち負けを忘れてもヒドくつまらなかった。
日本人だからこそ、何とか観ていられたけれど、
思い入れなどない外国人にとって
日本のゲームは苦痛以外の何ものでもなかったろう。

決勝戦の前夜、
アメリカ西海岸在住の雀友・ホケンから来信あり。
野球とゴルフにかけては一家言持つ奇人が
サッカーについて物申してきたのだ。

そのやりとりを紹介してみよう。
と、ここまできたところで
また明日ということになりました。

=つづく=

2014年7月14日月曜日

第880話 秀治爺さんが愛した酒場 (その3)

渋谷随一の立ち飲み酒場、
「富士屋本店」の止まり木に独り止まっている。
天然の平目を粉わさびで味わいながら、
今宵のこれから先を思案する。
残り少ないビールをコップに注いで
とりあえずもう1本所望した。

目の前のカウンター内では
背の低いアンちゃんがサカナを焼いている。
グリラーに張りついているのではなくて
他の仕事をこなしつつ、時折り焼け具合を確かめに戻るのだ。

察するに三枚おろしのサバであろう。
いい匂いも漂ってきたではないか。
小柄なアンちゃんに一応、魚種を確かめたうえで注文した。
焼き上がるまでそこそこの時間が掛かるのは覚悟のうえだ。

壁の色紙群をぼんやりと眺めていた。
名バイプレイヤーとして名を馳せた、
大滝秀治の色紙が3枚まとめて並んでいる。
大滝翁がこの店を愛したことは知っていた。
でも、色紙の存在に気づいたのは今日が初めて―。
何となれば、J.C.が陣取るのはいつも左手奥だったからネ。

秀治爺さんの3枚の色紙はかくの如し。

1枚目
 ”もう駄目だと思ったり まだやれると思ったり”

2枚目
 デフォルメした自画像 ちょいと頑固な爺さん風 文言ナシ

3枚目
 ”仕事は火事場のバカ力”

いずれも気取りがなく、好感が持てる。

それにしても「富士屋本店」、
いくら常連といっても3枚は書かせすぎだろう。
このあたりが下町とは異なるところ。
渋谷はあくまでもビジネスライクだ。

焼きあがったさば塩焼きには
大根おろしがたっぷりと添えられている。
これはありがたい、そして評価したい。

両隣りはそれぞれにカップル。
定番のハムキャベツをつまんでいる。
そのうちともに追加したのが、はんぺんチーズだ。
ふうむ、こういうものが若者に人気なのか・・・。
試してみようと思ったものの、どうにも食指が動かず、
夕暮れの渋谷の街に出た。

「富士屋本店」
 東京都渋谷区桜丘町2-3 富士商事ビルB1
 03-3461-2128

2014年7月11日金曜日

第879話 秀治爺さんが愛した酒場 (その2)

でもって、表参道のヘアサロン「ブランコ」に通い始めた。
ところが担当の店長・T添クンが
ネール部門のヘッドの女性、何といったかな、
名前は失念したが、彼女と所帯を持って独立する運びとなった。
その開業先が神奈川県のセンター北ときたもんだ。

何とかやりくり頑張って、1年ほどは遠征したろうか?
その後はさすがにギヴアップ、
くだんの「ブランコ」に舞い戻ろうとした矢先である。
T添クンのアシスタントだったK子チャンが
父親の経営する渋谷の「B」に異動して
以来、お世話になっているわけなのだ。

どうでもいいハナシを引っ張ってしまったが
先週も二ヶ月ぶりに理髪をしてきた。
せっかく渋谷くんだりまで足を延ばして
このままスゴスゴ引き下がってはオトコが立たない。

はて、どうしよう?
どうしよう? はイコール、どこで飲もう?
ということである。
渋谷の行き着けとなれば、
唯1軒、「富士屋本店」しかないんだな、これがっ!

見覚えのある階段を久々に降りた。
若者の街・渋谷の地下にこんな空間が潜んでたのか!
初めて訪れた客は誰しもそう思うに違いない立ち飲み酒場が姿を現す。
現しはしたけれど、
いつもポジションを取る左奥に身を置くスペーはがなさそうだ。

店内を見渡すと、若いカップルの数が増えたように思う。
困るんだよねェ、こういうの。
若いアンちゃんとネエちゃんには
行くべきチェーン居酒屋がいくらでもあるだろうに―。
オヤジたちの憩いの場を占領してほしくはないんだわサ。

店のオバちゃんの指示に従い、
落ち着いたのは入口に近いトイレの脇だ。
いいヨ、いいとも、いいですヨ、
ベツにイケてるオンナを連れてるワケじゃなし、
一杯飲めれば、どこでもようござんす。

そんな気持ちでお願いしたサッポロ黒ラベルの大瓶。
本日のオススメのボードをしばし吟味して
選んだつまみは天然平目刺しである。
夏の平目、しかも天然となれば、産地は限られる。
十中八九みちのく、それも青森県だろう。

すばらしくはなくともそれなりの平目刺しには
一片のエンガワが添えられていた。
けっしてエンガワ好きではないが
そのコリコリ感はなかなかのものであった。

=つづく=

2014年7月10日木曜日

第878話 秀治爺さんが愛した酒場 (その1)

二ヵ月に一度、好きではない渋谷の街に出る。
髪を理するためである。
ヘアサロンは渋谷区役所の真ん前にあり、
距離的にはJR原宿駅(千代田線・明治神宮前)と渋谷駅の中間にあたる。

行くときは明治神宮前で下車することが多い。
渋谷駅前は人混みが半端じゃないからネ。
かの有名なスクランブル交差点なんぞ渡る気がしないもの。
ここでふと思ったことに
若者を中心に”半端でない”を
”半端ない”とハショるようになったのはいつ頃からだろうか?
ここ5~6年前からのような気がしないでもないが、定かではない。
耳障りでキラいな言葉だ。

若者はともかくも、近頃では年配者まで使うようになった。
先日も還暦を過ぎたのみともが
いけシャアシャアと”半端ない”を連発するのにウンザリ。
たまりかねて(べつにたまりかねることもないのだが)、
言ってやったネ。

「いい歳こいて、そのはすっぱな言い方は何とかしろヨ。
 それこそ半端者扱いされるゾ!」
「ンなことどうでもいいじゃないの。
 あんまり細かいことゴチャゴチャ言ってると、老け込んじゃうヨ」

言われてみりゃ、それもそうだナと思った次第。
どうせ馬の耳に念仏だし、早急に話題を変えた。

おっと、理髪であった。
通っているヘアサロン「B」はあまりに大仰な店名につき、
こちらのほうが恥ずかしくて紹介しかねる。
オーナーの趣味だろうが、その臆面のなさに脱帽だ。
J.C.の髪の手入れをするのは愛娘(まなむすめ)のK子チャン。
彼女とのつき合いは軽く10年を超えるだろう。

ニューヨークから帰国後、
日本橋室町のオフィスに通い始めた。
往時、苦労したのが理髪店探し。
何年か前に日本チャンピオンになった、
店主が営む床屋なんぞにも行ってみたが
あまりに時代遅れのダサさに閉口したものだ。
こちらの注文に応じて店主、いろいろイジクるのだけれど、
どう頑張ってもデビュー当時の橋幸夫か
三田明みたいになっちゃうんだよねェ。

こりゃ日本の床屋はダメだぜ。
そう思い、相談したのが当時のGFだ。
青山界隈のサロンに出入りしていた彼女が探してきたのが
表参道の「ブランコ」なるお店。
発祥は名古屋でその後、東京を始め、
あちこちに進出した一種のチェーン店であった。

=つづく=

2014年7月9日水曜日

第877話 なぜに演歌は北へゆく? (その6)

 ♪ ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて 
   さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ 
   いま青春の河を越え 
   青年は青年は 荒野をめざす ♪
         (作詞:五木寛之)

フォークソングにおいて青年は荒野をめざすのに
なぜに演歌は北をめざすのか?

昭和の流行歌が大好きなJ.C.は
衰えつつある思考能力をそれなりに回転させてみた。
究明の末、たどり着いた先は二つ。

それは明治と昭和、それぞれの始まりとともにやって来た。
アメリカ近代史において
大きな存在感を放つのは西部開拓史。
そこまでの重さはなくとも北海道開拓史は
まだ明けやらぬ、明治の夜明けに射す、一すじの光だったろう。

札幌農学校の初代教頭・クラーク博士が残した名言、
”ボーイズ・ビー・アンビシャス”に喚起されて
北の大地をめざした青年は少なくなかった。
当時の血気にはやる若者の心に
「行かねばならぬ、行かねばならんのだ!」―
この精神を鮮やかに刻みこんだのだった。

時は流れ昭和の初め。
満洲国設立を機に今度は中国・東北地方へ
多くの日本人は向かった。
大連やハルビンが明治における、
札幌や函館の役割を担ったわけだ。
しかし、その夢は敗戦で砕かれる。

北に向かう志は振り出しに戻る。
その結果、満洲の代替として
再び北海道が脚光を浴びることになる。

小林旭の”渡り鳥シリーズ”。
趣きは異なるものの、高倉健の”網走番外地”シリーズ。
日活も東映もこぞって北をめざした。
旭にいたっては西部劇の「シェーン」よろしく、
カウボーイ・ハットをかぶっちゃってるもんなァ。

おしなべて日本列島の”南”はすでに開発された土地。
比べて”北”は未知の広大な大地だから映画の舞台にはもってこい。
夢を紡ぐに打ってつけだった。

こうして昭和の映画と流行歌は
ただひたすらに、北へ北へと向かう。
失われた満洲のスペア・タイアが北海道だったのだ。

=おしまい=

2014年7月8日火曜日

第876話 なぜに演歌は北へゆく? (その5)

さて、京都は新京極。
レコード店のあとは映画館だ。
足を止めたのは上映中の封切り映画、
「黒の奔流」の看板、ならびにポスターである。

監督は渡辺祐介、主演は山崎努と岡田茉莉子。
まだ初々しい松坂慶子も可愛い顔を見せている。
彼女の本格的デビューはおそらくこの作品ではなかろうか。

原作は松本清張の「種族同盟」で
清張モノといったら松竹映画のおハコ、
本作もご多分にもれない。

松本清張、山崎努、岡田茉莉子はそれぞれに好きだ。
この映画が封切られる6年前、J.C.は中学三年生だった。
夏休みに新大久保の海星学園で開講された、
東大学増教室に通っていた。

担任の先生に
「オカザワくんのオカはどっちの字?」―こう訊かれ、
思わず口をついて出たのが
「岡田茉莉子の”岡”です」―本人いたって真面目に応えたが
先生をはじめ、クラスの仲間にゲラゲラ笑われましたネ。
しかもそのときのクラスメートがJ.C.と同じ高校に進学し、
そこで言いふらしたものだから
しばらくは学窓の笑いものになっちまったぜ。

ヨタはさておき、「黒の奔流」である。
ヒマにまかせていつしか切符を買っていた。
映画のほぼ冒頭、
弁護士・山崎努と助手・谷口香が場末のラブホテルで
”事後”のけだるい時間と空間を共有している。
このときラジオから流れていたのが
藤圭子の「京都から博多まで」だったのだ。
情景と音楽とがピタリとシンクロナイズしていた。

以来、新京極を訪れるたびに
頭の中をこの曲が鳴り響くようになってしまった。
まるで条件反射ですな、こうなったら―。

好みの話題になると、
ついハナシが脇道にそれて駄文を綴ってしまう。
そろそろ本題に入らねばならない。

本題って何だったっけか? ってか?
あちこち回り道しているあいだに
読者とて何が何だか判らなくなったことだろう。
さもありなん。
それはまた、次話で明らかにいたしましょう。

=つづく=

2014年7月7日月曜日

第875話 なぜに演歌は北へゆく? (その4)

働きに働いた1972年バイト先は
東京五輪の年に開業した東京プリンスホテル。
夏場はずっと、ビヤガーデン勤務である。
往時、このホテルのビヤガーデンは都内の最高峰。
かなりコンパクトになるけれど、
御茶ノ水にあった「コペンハーゲン」がそれに続いた。

何せ、東プリのガーデンは
芝生の上で生ビールが飲めるんだからネ。
増上寺の境内だった広大な土地を
小ずるく買収してせしめたものだから
駐車場にしたってぜいたくにも青空の下だ。
都心のホテルでそんなマネができたのはこのホテルのみ。
芝生から夜空を見上げれば
東京タワーがくっきりと、その雄姿を見せていたっけ―。

1972年9月。
季節もののビヤガーデンがクローズしたあと、
5日ほど休暇をとって京都を旅した。
ちょうどミュンヘン五輪の開催中だ。
京都の旅館で夜中に観た男子バレーボールの準決勝、
日本VSブルガリアの一戦は今もまぶたから消えることはない。

J.C.は京都に行ってもあまり名所旧跡や古刹を訪ねることをしない。
祇園や新京極をあてもなくぶらぶらするのが好きである。
ぶらぶらにも限度があるから、
バー「サンボア」の止まり木に止まったり、
ビヤホール「ミュンヘン」のテーブルにくつろいだりしてるけど―。

その午後はバレーボールのおかげで
寝不足のまま錦小路を行ったり来たり。
翌日東京へ帰るため、
車内で缶ビールの友とするつまみや弁当の物色にいそしんだ。
当日の調達では時間が気になって
おちおち品定めをしていられないからネ。

とある川魚専門店で琵琶湖産モロコの串焼きを2本。
それと、どこの産だか聞きそびれた、
うな重を翌夕のピックアップで予約した。

心晴ればれ新京極を闊歩(かっぽ)する。
すると、通りすがったレコード店から
聴き覚えのある曲が流れてきた。
耳をすませばジャズにアレンジされた、
「モスクワ郊外の夕べ」じゃないか。

大好きな曲の演奏はアル・カイオラ楽団。
トランペットが耳朶に響いて快感をもたらしてくれる。
何年かのち、突如として聴きたくなり、
あちこちレコード店をあたったが、
ついに見つからず、今だに聴けていない。
悔やまれて悔やまれて仕方がないんだヨ、これがっ!。

=つづく=

2014年7月4日金曜日

第874話 なぜに演歌は北へゆく? (その3)

最近でこそあまり耳にしないが
1960年代から80年代にかけて
叙情を内包したにっぽんの演歌はひたすら北を目指した。
1950年代に日本全国から仕事を求めた若者が
恋人を置き去りにしてまでも東京に向かったのと好対照を成す。

おおざっぱに俯瞰しただけだが
主人公、あるいはその相方が南に去りゆく歌は見つからなかった。
行く先は十中八九、北だから致し方ない。

東もなかった。
ところが数は少ないものの、西はありました。
1972年の年明けにリリースされた藤圭子の「京都から博多まで」である。

  ♪ 肩につめたい 小雨が重い 
   思いきれない 未練が重い 
   鐘が鳴る鳴る 哀れむように 
   馬鹿な女と 云うように 
   京都から博多まで あなたを追って 
   西へ流れて行く女     ♪
         (作詞:阿久悠)       

リアルタイムで好きな曲だった。
「新宿の女」や「圭子の夢は夜ひらく」より耳にしっくりなじんだ。
強く印象に残っているのにはワケがある。
それは1本の邦画だった。

そこは後述するとして1972年の夏、
一世を風靡していたのはこの曲ではない。
吉田拓郎の「旅の宿」と、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」だった。
天地真理の全盛期でもあり、欧陽菲菲が大ブレークした年でもあった。

1972年のマイベスト10を挙げると、

① さよならをするために・・・ビリーバンバン
② 京のにわか雨・・・小柳ルミ子
③ 旅の宿・・・吉田拓郎
④ 愛する人はひとり・・・尾崎紀世彦
⑤ あなただけでいい・・・沢田研二
⑥ 雨のエアポート・・・欧陽菲菲
⑦ 雨・・・三好英史
⑧ 北国行きで・・・朱里エイコ
⑨ 赤色エレジー・・・あがた森魚
⑩ ふりむかないで・・・ハニーナイツ
 次点: 待っている女・・・五木ひろし

’72年の流行歌には思い出がいっぱい詰まっている。
’71年に最初の欧州旅行から戻り、
’73年にはアフリカ経由で二度目の欧州に旅立つ予定。
その間に挟まった’72年は明けても暮れてもバイトひとすじ。
軍資金の捏造に日々邁進していた時期だった。

=つづく=

2014年7月3日木曜日

第873話 なぜに演歌は北へゆく? (その2)

裕次郎の歌声が耳に心地よい、
「北国の空は燃えている」に触発されて
主人公が北ではなく、
どこかほかの方角へ向かう曲はないものかと、
ヒマにまかせて思い浮かべてみた。

歌謡史専門の書籍をあたったり、
インターネットで検索してみたわけではない。
自分の記憶をたどっただけである。

最初にピンと来たのは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」。

 ♪  恋人よ ぼくは旅立つ 
  東へと向う列車で 
  はなやいだ街で 君への贈りもの 
  探す 探すつもりだ       ♪
       (作詞:松本隆)

行く先は東。
ただし、この曲は演歌とはいえない。
J・ポップにカテゴライズされてしかるべきだろう。
第一、恋人と別れていない。
贈りものを買って帰るんだからネ。

北とは真反対の南はないものか?
そこで浮かんだのはサザンの「チャコの海岸物語」。

 ♪ 恋は 南の島へ翔んだ 
  まばゆいばかり サンゴショー 
  心から好きだよチャコ 抱きしめたい ♪

南に翔んではみたものの、
桑田佳祐の佳曲とて演歌にはほど遠い。
北に向かってこそ演歌、
東京人が”南”に抱くイメージは陽気で明るすぎる。

はて、困った。
南がダメなら西はどうだろう?
浮かんだのは往年のデュオ、チェリッシュだった。
そう、「なのにあなたは京都へゆくの」である。

 ♪ 私の髪に 口づけをして 
   「かわいいやつ」と私に言った 
   なのにあなたは京都へ行くの 
   京都の町は それほどいいの 
   この私の 愛よりも      ♪
      (作詞:脇田なおみ)

”あなた”は西へ向かったが、これもやはり演歌とは呼びがたい。

ほとんどあきらめかけたとき、
ひらめいたのが、またもや藤圭子であった。

=つづく=

2014年7月2日水曜日

第872話 なぜに演歌は北へゆく? (その1)

 ♪ 窓は 夜露に濡れて
   都 すでに遠のく
   北へ帰る 旅人ひとり
   涙 流れてやまず  ♪
     (作詞:宇田博)

1961年のヒット曲「北帰行」は小林旭が歌った。
作詞の宇田博は作曲も手がけている。
原曲が生まれたのは1941年、日米開戦の前夜であった。
当時、宇田は旧制旅順高校の二年生だったという。

演歌の世界では世を棄てた男も
心傷ついた女もこぞって北を目指してゆく。
なぜだろう?  なぜかしら?
その疑問に対しては、のちほど考察を加えるとして
しばし流行歌としての演歌を俯瞰してみよう。

オープニングの「北帰行」を筆頭に
ザッと挙げても、同じく小林旭の「北へ」、徳久広司の「北へ帰ろう」、
石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、都はるみの「北の宿から」。
吉幾三の「海峡」、山川豊の「函館本線」と
よくもまァ、みんな揃って北に向かうものだ。

石原裕次郎にいたっては
「北の旅人」、「赤いハンカチ」、「夕陽の丘」と北のオンパレード。
そんな裕次郎ナンバーの中にあって
意表をつかれるのは「北国の空は燃えている」である。
まずは歌詞をご覧くだされ。

 ♪ おきき瞳を閉じて 波の音がする
   別れに来たのに もう発つのか
   枯れた唐きびゆれる さいはての駅で
   淋しさかくして 俺は口笛吹く
   気をつけて 元気でな 幸せになれよ ♪
           (作詞:岩谷時子)

作詞はあの岩谷時子だ。

さて、舞台の特定はできないが北海道であることは確かだろう。
この曲が珍しいのは恋人と別れて新しい人生を歩み始める女性が
北海道のさいはての駅を発つところである。

向かうのはおそらく東京であろう。
これはいわゆる定番の逆バージョンで
極めて稀少なケースといわずばならない。
去ってゆくオンナに未練を残しつつ、
ヤセ我慢をしているオトコが独り、
駅のホームに立ちつくす姿が目に浮かぶ

=つづく=

2014年7月1日火曜日

第871話 テキサスでは五人の仲間

北海道・釧路のK山サン、石川県・羽咋のY澤サン、
岡山県・倉敷のS瀬サンのお三方から
内容がほぼ同様のメールをいただいた。
前話の「シンガポールの四人の仲間」についてである。

中でも一番長文だったK山サンのお便りを
ダイジェストで紹介してみよう。
例によってご本人の許諾は受けていない。
事後承諾をよろしく願うばかりである。

それではまいりましょう。

毎日楽しみに拝見しています。
わたしの一日は目覚めてすぐキッチンに立って
お湯を沸かすことから始まるんです。

お紅茶をいれたらモーニングカップと一緒にパソコンの前へ。
受信メールをチェックして返信が済んだら
開くのがJ.C.さまの「生きる歓び」です。
初めてブログを拝見したとき、
とても素敵なタイトルだと思いました。

二年くらい前のことでした。
その頃はわたしも「生きる歓び」を実感していた時期だったんですよ。
品川区の会社に勤めていて
職場で知り合ったカレがいたんです。

その人と一緒に見たのが
ヘンリー・フォンダの「テキサスの五人の仲間」でした。
J.C.さまのブログの見出しに「シンガポールの四人の仲間」を見て
もしやと思いましたが、やはりポーカーのお話でしたね。
読んでいるうちにわくわくしてきました。

今は思い出の一コマの「テキサスの五人の仲間」ですが
ラストのどんでん返しには思わず、アッと声をあげてしまいました。
今回、偶然にもあの頃に引き戻してくれたJ.C.さまに感謝します。

これからも拝見してまいりますので
体力の続く限り書き続けてくださいませね。

K山サン、メールをくださり、ありがとうございました。
そして日々のご愛読にもお礼申し上げます。

1966年のアメリカ映画「テキサスの五人の仲間」は
なかなかによくできた作品。
のちの「スティング」に大きな影響を与えてもいる。
ヒロインを演じたジョアン・ウッドワードは
実生活で「スティング」の主役、
ポール・ニューマンの奥さんというのも何かの因縁だろう。

個人的には「スティング」より好きな「テキサスの五人の仲間」、
機会があったらぜひご覧くださいまし。