2015年8月31日月曜日

第1175話 池波翁の「銀座日記」 (その22)

松茸が大好物の翁であった。
韓国産もじゅうぶんに美味しいらしく、満足しておられる。
(女の猿まわし)の稿をつづけよう。

きょう新聞に、熊本のOLで二十七歳になるW・Mさんのことがでていた。
大手化粧品の会社に七年もいたW・Mさんは、
おそらく仕事に飽きてしまったのだろう。
突如、猿まわしになった。
そして、いま、熊本の、ある村にオープンした
[猿まわし劇場]の前座をつとめているそうな。

「キョロキョロせんで、自分で、しっかり立ってみい」とか、
「何やってるんだ、お前は。もっと足にちからを入れるんだよ」
などと、コンビの猿・じゅん君を叱り、
芸をおぼえさせるW・Mさんの声は女のものとはおもえぬほど野太い。
オスの猿は、婦人の猿まわしをなめてかかるという。
この七ヶ月でW・Mさんは三度も喉をつぶしたそうだ。
写真も出ていたが、現代の若い婦人としては、
まことにユニークな転身ではないか。
むろん、動物好きなのだろうが、
こういう記事を新聞で見ることは、何だかたのしいおもいがする。
厳しく猿を叱りつけながらも、見る眼には愛情がこもっている。
これを、この世界では「鬼面の愛」というそうである。

おやおや、ずいぶんと惚れ込んだものである。
老いた身体に俗世の世知辛さだけが迫り来る心境の翁には
女性の猿回しが一服の清涼剤になったのでしょう。
確かに微笑ましいものがある新聞記事ではありました。

(体の精密検査)

昨日は朝六時に起き、十時までに三井記念病院へ行く。
部屋は個室で、この前に入院したときと同じ部屋だった。
眼・歯・心臓の再検査。
やはり、年齢相応に少しずつ悪いところも出てくる。
仕方もないことだ。
この病院の食事はよいほうだということだが、やはり旨くない。
見舞客用のグリルでオムライスをこっそり食べる。

所用があるので午前十一時に退院する。
婦長が来て、数種類の薬を持たせてくれる。
帰宅して干し蕎麦をあげさせて食べる。
旨い。
何を食べても旨い。
夜は、おでんと茶飯。
ベッドへ入り、ぐっすりと眠る。
やはり、疲れていたのだろう。

ハハハ、お茶目ですねェ。
オムライスをこっそり・・・といっても有名人の翁のこと、
みんなに見られて、当然、医師たちにも報告がいってるだろうにー。
悪戯(いたずら)を隠しおおせたと、
一人合点しているところが何とも子どもっぽくてカワゆい。

=つづく=

2015年8月28日金曜日

第1174話 池波翁の「銀座日記」 (その21)

日記の文中、[R]とあるのは銀座四丁目、
中央通りに面した、コアビル楼上の「楼蘭」のこと。
翁はこの店の焼きそばと春巻にはぞっこんだった。
かく言うJ.C.もここの什錦湯麺(五目そば)は好物。
銀座随一の中華麺だと思う。

それにしても熱帯夜に苦しんで眠れず、
仕方なく窓を開け放つとは、いったいどんな住宅環境下に
身を置いていたのだろう。
老人特有のエアコン嫌悪症候群に
とりつかれでもしていたのだろうか。
もしも酷暑に寿命を縮められたのだとしたら、非常に残念なことだ。

歯科医へ行く。
今度はよいとおもったが、帰宅して、物を口に入れてみると、
やはり、どこかちがう。
噛みにくい。
うんざりする。
外は目がくらむような猛暑。
その中を旭屋書店へ行き、マクベインの[カリプソ]と
シドニイ・シェルドンの[裸の顔]二冊を文庫本で買う。
寝しなに読む本がなくなってしまったのだ。
食欲がなく、体重二キロ減る。

今夜は、近くの家で夜半すぎまで、男女の高声、高笑いが聞こえ、
戸を開け放したままだから、モロに、こちらへつたわってくる。
午前一時になって、ようやく癒(や)む。
ガラス戸のところに寝ていた猫が、
おどろいて逃げるほどだから車輛の響音よりひどい。

何日か前にロース・カツレツや中入れ鰻丼を完食していながら
”食欲がない”もないもんだが
やはり年寄りの体調は、その日その日の日替わりなのだろう。

翁自身も愛読していた永井荷風のやはり日記文学、
「断腸亭日乗」の最晩年には毎日のように”午後浅草”の文字が見える。
荷風が浅草公園なら、池波は銀座の歯科医ときたもんだ。
近所の家の嬌声に悩まされるところなど、
隣家のラジオの騒音に辟易(へきえき)した荷風をしのばせて
おもわずクスリと笑っちまったぞなもし。

(女の猿まわし)

昨日、家人がデパートで韓国の松茸を買って来たので、
朝は松茸の炒飯にする。
旨い。
午後は歯科医行。
毎日、暑い。
熱帯夜がつづいている。
今夜は、ことにひどい。
夕飯は、家へ帰って、松茸のフライ。
旨い。
きょうは食欲が出た。

=つづく=

2015年8月27日木曜日

第1173話 池波翁の「銀座日記」 (その20)

亡くなる前年の夏には「野田岩」の中入れ丼を平らげていた池波翁。
中入れ丼というのはごはんの上に通常通り、蒲焼2切れ(1尾分)。
加えてごはんの中にも1切れ(半尾分)ひそませた、
豪華版で食べ出もじゅうぶんだ。

J.C.にはとても食べきれるものではなく、
ハナから注文する気などさらさらない。
1尾でも多いくらいだから晩酌のあと、
ドンブリ5~6分目のごはんにうなぎ半尾がちょうどよい。
それもアッサリめのシモ(下半身)がいいな。

これは鮨屋、あるいは天ぷら屋の穴子にも言える。
あまり食べつけない鱧(はも)は知らないが
うなぎも穴子もデリケートな下半身が好きだ。
人間のオンナも下半身が好みだろ! ってか?
いえ、いえ、女性はやはりお顔の付いてる上半身でしょう。
そいでもって、たまにチョコッと下半身のお世話になるのが好手でしょうヨ。

ヨタ話はこれくらいにして、翁のことだ。
何も銀座から日本橋までうなぎを食べに出向き、
そのあとすぐ銀座四丁目の和光にとんぼ返りしなくてもねェ。
銀座には和光のはす向かいに「竹葉亭 銀座店」があるじゃないの。
J.C.は「野田岩」より「竹葉亭」を推したい。

なぜか?
まず第一に「竹葉亭」にはうなぎのほか、鯛茶漬けと鮪茶漬けがあり、
どちらもなかなかの美味しさを誇っている。
第二に料理も酒も割安感に勝っている。
数日前、久しぶりに訪れ、あらためてその感を強くしたところだ。

真鯛の刺身をおかずに温飯(ぬくめし)を食べるのが大好きだった翁、
「竹葉亭本店」には行っているのに
どうして銀座店を利用しなかったのだろうか。
おそらく”茶漬け”の文字に惑わされたのだろう。
この店の鯛茶漬けをいきなり茶漬けで食べる客などいない。
まずは胡麻だれに漬かった真鯛の刺身で温飯をいただくのだ。
J.C.など最後まで付き添いのほうじ茶を使わぬくらいである。
翁はそのことに思いが至らなかったものとみえる。

日記に戻ろう。
いまだに(夏のロース・カツレツ)のつづき。

午後から銀座の歯科医へ行く。
おもいの外、早く終ったので、久しぶりに東和の試写室で
[想い出のマルセイユ]というイヴ・モンタンの映画を観る。
モンタンの半生をミュージカルにしたもので、
アメリカのミュージカルとは違う、いかにもフランス風のレヴュー感覚。
何ということはないが、七十に近くなってから、
初めての我子をもうけたモンタンが元気一杯で、
気楽に、たのしげに演じている。
この暑いときに、老いたモンタンの若々しい姿を観るのはたのしかった。
終って、久しぶりに[R]へ行き、春巻二本、エビの焼きそば。
口に慣れた味だから、安心して食べる。
夜は熱帯夜となって、なかなか寝つけない。
仕方なく、窓を開け放ち、ようやく眠る。

=つづく=

2015年8月26日水曜日

第1172話 池波翁の「銀座日記」 (その19)

翁の「銀座日記」、(夏のロース・カツレツ)のつづき。

うすぐもりで風もあり、歩きやすい。
昨日も銀座へ行き、歯の治療。
終って[みかわや]へ行く。
ポーク・カツレツ、御飯、サラダ。
前から考えていたのだが、この店のロース・カツレツは
ロースの脂がたっぷりついていて、
むかしの洋食屋のそれを略(ほぼ)再現している。

きょうは、つづいて歯科医院へ行き、
終って、久しぶりに高島屋楼上[野田岩]の、中入れ鰻丼。
うまい。
鰻は、ここに限るとまではいわぬが何といっても行きやすい。
地下鉄で銀座に引き返し、和光へ行く。

何だかんだ言いながらもそこは健啖家、
けっこうしつっこいものを盛んに召し上がっているではないか。
J.C.も[みかわや]のロースカツは大好きだ。
同好のよしみで
とんかつよりロース・カツレツと言い張る翁の気持ちがよく判る。

日本橋・高島屋4階の特別食堂内にある、
[野田岩]もかつて盛んに利用した。
金融界に身を投じた1980年頃はオフィスが芝の神谷町にあったので
東麻布の本店をよく訪れたが日本橋本石町に移転してからは
高島屋店のお世話になった。
2005年7月に上梓した「J.C.オカザワの下町を食べる」から
その稿を紹介してみよう。

=多国籍軍の勝利=

改装のかいあって高島屋のレストランは実に充実している。
都内のデパートでは随一といってよい。
どこにでも入居するつまらん店舗ばかりの三越新館よりずっといい。
「お好み食堂」、地下のレストラン街、ロブションの「サロン・ド・テ」、
数あるうち、ベストがこの「特別食堂」。
料理の質、居心地のよい空間、快適なサービス、非の打ちどころがないが
強く推す理由は一つのテーブルで和食・うなぎ・仏料理を
同時に味わえるその多国籍性だ。
そのためにも単身で訪れてはつまらない。
カップルでも不十分、気の合った仲間や家族で出かけるのが正解だ。

食堂内の「帝国ホテル」では
仔牛のカツレツ・コルドンブルー風とコンビネーションサラダ。
ハムとチーズをはさみ込んだカツレツにはドミグラソース、
ガルニテュール(付合わせ)も丁寧で美味しい。
サラダのドレッシングもさすがに高級ホテルの底力を発揮している。
「大和屋 三玄」は三玄弁当。
あんかけの炊合わせと、おぼろ昆布にすり身団子の吸いものが秀逸だ。
「五代目 野田岩」のイチ推しは志ら焼丼。
磁器のどんぶりがいいし、本わさびはたっぷり。
クドさを和らげる大根おろしもありがたい。
東麻布の本店には及ばぬものの、
ある日、いかだ蒲焼定食にありつけて、ささやかな幸せを感じた。

実際、都内の百貨店にここ以上の食事処はありませぬな。

=つづく=

2015年8月25日火曜日

第1171話 池波翁の「銀座日記」 (その18)

本当にカツレツは翁の大好物。
三日と空けずに賞味しているものなァ。

そして、なおも(真夏のロース・カツレツ)

先日から銀座の歯科医院へ通っている。
きょうも行く。
すぐに終わったので、神田の床屋へ電話をかけておいて、
タクシーで神保町まで行く。
散髪をすませ、近くの[揚子江菜館]へ寄り、
五目冷し中華そば食べ、シューマイをみやげにしてもらう。

ひや麦・そうめんはもとより、
冷やし中華のお世話になる季節の真っただ中。
そうそう、冷やし中華とといえば、
先週金曜日の朝日新聞朝刊に、発祥の店、2軒が紹介されていた。
仙台市・青葉区の「龍亭」と
翁の御用達、東京都・千代田区の「揚子江菜館」である。

どちらもいただいているが、迷うことなく「龍亭」に軍配。
それもかなりの大差があった。
この夏の甲子園の準決勝、
仙台育英と早稲田実業の7-0ほどではないものの、
4-1くらいの開きはじゅうぶんにあったネ。

昨日から、台風十三号が接近しつつある。
このため、風雨が強くなる。
テレビをつけたら、十六年前に観た[愛の嵐]をやっていた。
観るともなく観ているうちに、我知らずひき込まれて、
ついに終りまで観てしまう。
ダーク・ボガード、シャーロット・ランプリングの両主演者、
リリアーナ・カヴァーニの監督。
三拍子そろった佳作で、ランプリングのみずみずしさにおどろく。
彼女は二十七歳だったのだ。
十数年ぶりに再会した、元ナチスの親衛隊員とユダヤ人の美少女が、
ナチズムの執拗な手によって、つけねらわれる悲劇。
舞台背景はウィーンで、この時代には、
こうしたテーマが精彩をはなっていたのである。

「愛の嵐」(原題:ザ・ナイト・ポーター)は大好きな作品。
翁が指摘するごとく、ランプリングが本当にすばらしい。
イギリス人の彼女の父親はベルリン五輪(1936年)における、
陸上競技、1600mリレーの金メダリスト。
その血筋を引いているためか
痩身にしてしなやかな肢体の持ち主である。

ランプリングの容貌は英国人というよりもドイツ人、
あるいはオーストリア人を偲ばせる。
画面に流れる退廃的なエロスは欧州の匂いに満ちて、
とても米国の女優が醸し出せるものではない。
ルキノ・ヴィスコンティが絶賛したという「愛の嵐」であった。

=つづく=

2015年8月24日月曜日

第1170話 池波翁の「銀座日記」 (その17)

(吉右衛門の”鬼平”)のつづき。

きょうは、うすぐもりで雨は降らなかったので、散歩に出る。
まったく久しぶりのことだが、
何といっても足がおとろえてしまって、これではどうしようもない。
自動車がまったく通らぬ、私の大好きな、
H薬科大学の裏道を往復すると約二十分弱。
これでは少し足りない。
そこで大通りに出ると、大小の車輛が押し寄せて来て、
排気ガスがたちこめ、胸が悪くなる。
我慢して二十分ほど歩き、帰宅する。
少しでも歩いた所為(せい)か、気分はよい。
明日も歩くつもりなり。
夕飯は、到来物の加茂茄子の味噌かけ。
旨かった。

四度目の[鬼平犯科帳]テレビ化で、第一回を観る。
今回は中村吉右衛門の平蔵で、
これを実現させるのに五年ほどかかった。
プロデューサーの市川久夫さんも、よくねばってくれた。
吉右衛門の鬼平は、第一回のときの父、
松本白鸚(当時は八代目幸四郎)に風貌が似ていることはさておき、
実に立派な鬼平で、五年間、待った甲斐があったというものだ。
しかし、この五年間に激しく時代は変わった。
映画もテレビも、時代劇がどんなものか忘れてしまった。
だから、吉右衛門、中村又五郎をのぞいて下の傍役が、ひどく落ちる。
これは仕方のないことだろう。
回数が進むにつれ、スタッフもよくなってくれるだろうと、期待する。
テレビが終わってすぐに、吉右衛門さんから電話がある。
労をねぎらい、原作者として満足したことをつたえる。

H薬科大学は品川区荏原にある星薬科大学。
池波邸は大学の近所のハズで察するに、最寄り駅は
東急目黒線・不動前か、東急・池上線戸越銀座ではなかったか・・・。

確かに”新鬼平シリーズ”における吉右衛門の存在感は
他者を睥睨、凌駕すること圧倒的。
松平の健チャンにゃ悪いが、「鬼平」を観てしまうと、
「暴れん坊」を観る気がしなくなるんですヨ。

(夏のロース・カツレツ)

脂身のたっぷりついた黒豚のロース・カツレツ。
これこそ、私の夏の活力源だ。
しかし、家で食べるとなると、なかなか、おもうようにいかないが、
このごろ、サラダ用のキャベツのいいのが買えるので、
梅雨が明けてから何度も食べた。
ソースはトマト・ピューレをまぜて家でつくる。
今度、外へ出たら、どこで、ロース・カツレツを食べようかと考えている。
私のは、いわゆるトンカツではない。
昔風のロース・カツレツだ。

=つづく=

2015年8月21日金曜日

第1169話 池波翁の「銀座日記」 (その16)

なおも美空ひばり。

「松葉寿司」のある宮川町の隣り、
野毛町に「パパジョン」なる空前絶後、唯一無二のバーがある。
横浜のみならず、東京にもファンの多い、
知る人ぞ知るユニークきわまりないスポットで
頭髪は喪失しているものの、
白い口ひげがキュートな偏屈おやじが
二度目のカミさんと実の息子の三人で営んでいる。

店内に流れる音楽はジャズとひばりのレコードだけだ。
ジャズバーと言うより、ジャズ&ひばりバーと呼ぶのが正しく、
うっかりスナックなんぞと口を滑らしたりすると、
店主どころか常連に張り倒されそうな店なのだ。
開店して四十有余年、
一日たりとも店を開けなかった日がないのが
何と言っても最大の自慢。

予備知識は言うに及ばず、
その存在すら知らずにフラリと入ったのは
かれこれ五、六年前のこと。
何となく気に染まってしまい、それ以来、
年に一度は止まり木に止まっている。

横浜に泊りがけで出向くのは年に二度ほどだから
二打数一安打、けして悪い数字ではない。
この店での楽しみの一つは
膨大なコレクションのひばりのレコードから
好きな曲をリクエストできること。

訪れるたびに同じ曲をお願いしている。
それがマイ・モースト・フェイバリット・ソングの
「むらさきの夜明け」なのだ。

「真赤な太陽」の大ヒットに気をよくしての、
ひばり・ブルコメ・吉岡治・原信夫のカルテット・コラボ第二弾。
思惑はずれて不発に終わったが
つらいとき、悲しいときに勇気を与えてくれる名曲だと思う。

「松葉寿司」のオヤジさんに、ひばりの好きな色が”紫”と聞いたとき、
瞬時にこの曲を思い起こした。
これはきっと、ひばりが作詞家の吉岡治に
おねだりして書いてもらったに違いない。

とここまで稿を書き進めて
ふいに「むらさきの夜明け」が聴きたくなってしまった。
ちょっと失礼して、CDラックへ。

う~ん、いいカンジ ♪ 明日も頑張ろっと!

とまあ、こんな具合でござんした。
読者におかれては長々とおつき合いくだざり、
まことにありがとうございました。
次話からまた池波翁の「銀座日記」を読み進みます。
 
=つづく=

2015年8月20日木曜日

第1168話 池波翁の「銀座日記」 (その15)

ひばりの稿を続ける。

横浜は日ノ出町交差点そばのウインズ前に
「松葉寿司」という鮨屋がある。
美空ひばりゆかりの店を訪れてみると、
店先に幼い頃のひばりの銅像が
夕日に染められて立っていた。

昭和28年の創業で
それ以前は甘味処だったようだが、ハッキリしない。
終戦直後の物資が欠乏している時期に
ひばり母子がしばしば遊びに来て、葛餅を食べていったという。
この当時、ひばりの実家の鮮魚店「魚増」は
すでに磯子区滝頭で開業していたようだ。

二代目となる現在の「松葉寿司」店主が
たまたまひばりと同い年で、言葉を交わすこともあった。
時は流れて大きく成長したひばりが磯子に御殿を建てると、
催事のあるたびに鮨を出前するようになる。

相方と二人、つけ台に陣取る。
三人連れの先客は店の常連とお見受けした。
こちらは電話予約の際に
特製ちらしに当たるひばり御膳(3150円)をお願いしてある。
そのほかにずわい蟹の爪をつまみにもらう。
御膳の内容はかくの如くであった。

マグロカマとろ2切れ・カンパチ3切れ・帆立貝・子持ち昆布・
焼き松茸玉子焼き・姫さざえ煮・栗渋皮煮・酢ばす・奈良漬け・
松茸土瓶蒸し・イクラ・酢めし・チーズケーキとフルーツゼリー

まずまずの顔ぶれが揃っているものの、
肝心の酢めしに難があった。
ケレン味が強く、酢・塩・砂糖がそれぞれに主張して
きわめて味付けが濃い。

久しく大衆的な鮨店の敷居をまたいでいないせいか
酢めしは受け入れがたいものがあった。
一品で焼き松茸をお願いしたときに
店主が今時期は焼いても旨くないと言った通り、
土瓶蒸しのほうがよかった。

マグロやカンパチは水準に達しており、
ここではそれをつまみに酒を楽しむほうがよい。
ただしわさびはニセわさび。
この夜はビールの大瓶一本に、
焼酎二杯を含めて約七千円の勘定だった。

お重の隅を飾る紫色のゼリーと
チーズケーキを抱き合わせたデザートは
店主が河岸で見つけてきたもの。
美空ひばりがもっとも好んだ紫色にこだわったのだという。

=つづく=

2015年8月19日水曜日

第1167話 池波翁の「銀座日記」 (その14)

美空ひばりが亡くなったのは1989年6月24日。
同年1月にリリースされた「川の流れのように」は
本人も驚くほどの大ヒットとなった。
それはそれとして・・・
「銀座日記」を読み進めよう。

当時、人気歌手だった笠置シヅ子の物真似唄だったが、
その達者さには瞠目したものだ。
ひばりは、まだ子供で、私は二十代の前半だった。
いまさらに、この四十余年の歳月を想う。

ここでちょっと寄り道をし、
稀代の大歌手にスポットライトを当ててみたい。
自著「文豪の味を食べる」から彼女の稿を。
 
松葉寿司」

港町 重入りランチ

美空ひばりは思い出深い歌手である。
個人的にファンと呼べるほどの思い入れはないが
心惹かれる気に入りの曲はけして少なくはない。

そんなことより、1960年代のわが両親の論争である。
「ひばりの佐渡情話」を第一と位置づける父親に対して
「悲しい酒」をベストと言い張る母親がいた。
夫婦ゲンカになるほど議論がエスカレートすることはなくとも、
わが親ながら、ともに強情なツガイであった。

上記二曲に共通するのは曲全体を覆う哀愁。
当然、調べはマイナーコードで綴られている。
子どもの頃からずっと聴かされてきたおかげで
自分の好みもメジャーではなく、
マイナーばかりになってしまった。

「越後獅子の唄」、「津軽はふるさと」、「みだれ髪」、
好きな曲を挙げると、揃いも揃ってみなそうだ。
論争の対象となった二曲にも、それぞれになじんでいる。

そんなわけでレコード売り上げの上位を占める、
「柔」、「川の流れのように」、「港町十三番地」あたりの、
メジャーコードには心惹かれることがない

ちなみに古賀政男作曲の「悲しい酒」は
もともとテンポ早めでノリのよい曲を
ひばりが古賀にお願いして”悲しい唄”に転換させたものだ。

J.C.にとって、ひばりのベストはあいにくヒットしなかった。
ほとんど無名に近いその曲の名は・・・
へへへ、ソイツはのちほど明かすことに致しましょう。

=つづく=

2015年8月18日火曜日

第1166話 池波翁の「銀座日記」 (その13)

(自作の展覧会)

初夏を想わせる快晴。
痛風はまだ癒(なお)らぬ。
姪が銀座へ買い物に行くというので煙草その他をたのむ。
午後は、三十年前に封切られたフランス映画、
[殺意の瞬間]をビデオで観る。
この映画が封切られたとき、
私は、まだフランスを知らず、パリを知らなかった。
映画の主要背景は中央市場(レ・アール)である。
私が初めてパリを訪れたとき、
中央市場は郊外に移されてしまっていた。
そのレ・アールにある、レストランのシェフ兼パトロンを
ジャン・ギャバンが演じる。

J.C.が初めてパリを訪れたのは1971年。
マドリッドから夜行列車のシュド・エクスプレスに乗り込み、
途中、ボルドーに1泊してからパリへ入った。
移転する前のレ・アールのことはよく覚えている。
映画のロケには最高の舞台であった。
市場脇の「オー・ピエ・ド・コション(豚足亭)」で
あまり旨いものじゃなかったけれど、
仔豚の足のパン粉焼きを味わったっけ・・・。

[殺意の瞬間]もボンヤリと覚えている。
これはTVの洋画劇場で吹き替え版を観た。
確か、シャンベルタン(ブルゴーニュの銘酒)と
コック・オー・ヴァン(鶏の赤ワイン煮)が登場したハズだ。

ときは変わって1990年代中頃、ニューヨークのマンハッタンに
「レ・アール」なるステーキハウスが開店した。
アメリカン・ステーキハウスはたくさんあったが
この店はその名が示す通り、フランス風のステーキをウリとした。
ときどき出向いてはフィレ・ミニョン(小さめのフィレステーキ)、
あるいはバヴェット(ハラミのステーキ)とフリッツ(フライドポテト)で
ピノ・ノワールのボトルを空けたものだった。

パリのレ・アールの跡地、
ポンピドー・センターを訪れたのは1997年。
一画に「豚足亭」は健在だった。
その際は豚足をやめて海の幸の盛合せと
舌平目のムニエルを食べたが
相変わらず料理のデキはよくない。
ただ、ただ、懐かしさに魅かれただけだったネ。

(吉右衛門の”鬼平”)

美空ひばりが死去した。
五十二歳である。
私は、ひばりの東京における初舞台を観ている。

=つづく=

2015年8月17日月曜日

第1165話 池波翁の「銀座日記」 (その12)

池波正太郎の日記を読み進めていくと、
体力・気力の衰えが手に取るように判る。
この頃、文字通り、昭和を象徴する人物が世を去った。

(冬ごもり)

ついに、天皇が崩御され、平成元年の新年となったが、
自分に元気のないことは旧年通りで
二枚、三枚の原稿を書くのが、やっとのことだ。

大相撲、千秋楽にて、北勝海と旭富士の優勝決定戦。
北勝海が勝つ。
この人は三ヶ月の休場後に、この成績をあげた。
えらいものなり。
毎日、家にこもったまま、何処へも出ない。
これはよくないとおもうのだが、
いざとなると面倒になってしまい、炬燵(こたつ)へもぐりこむと、
そのまま、夕景までうごかない。
隣家の御主人もそうだ。
この人は「冬ごもり」と称して、毎年、
春が来るまでは庭にも出て来ない。

家にこもりっきりになって外出を渋るようになると、
もうその人の行く末は長いことはない。
面倒、億劫というより、外へ出てゆくことが怖くなってしまうのだ。

池波翁とスポーツとはイメージが重ならないが
相撲に限らず、プロ野球もそこそこTV観戦している。
振り返れば、昭和天皇も大の大相撲ファンであった。

(訃報つぎつぎに)

テレビも新聞も、連日、
リクルート事件と税金問題を取りあげていて、もう飽きた。
日本の戦後で、もっとも質が下落したのは政治家だ。
それは企業の発展と傲慢に足なみをそろえて下落してしまった。
私は大平前首相のころまでは、自民党に希望をつないでいたが、
いまは、投票する気にもなれない。
そうかといって、野党はいずれも頼りなく、相変わらず、
反対のための反対を空虚に叫びつづけているのみだ。
午後から神田へ行き、散髪、すぐに帰宅。
皇居周辺の桜花は、すっかり咲きそろって、
陽気も暖かくなった。
昨日あたりから体調もよくなり、血圧も下がったが、
久しぶりに私を見る人は「すっかり、おとろえた」と、おもうらしい。
床屋で「少し禿げてきたから、短くしてもらおうかな」といったら
「とんでもない、こんなの禿のうちに入りませんよ」と、
はげましてくれた。

本当だ、政治家についてはまさしく翁の言う通りですな。
野党もまたしかり。
それにしてもハハハ、
”禿”をハゲまされるっていうのもねェ。

=つづく=

2015年8月14日金曜日

第1164話 池波翁の「銀座日記」 (その11)

(久しぶりの試写通い)の稿を続ける。

松茸があったことをおもい出し、
そのバター炒めで冷酒を少しのみ、
御飯はやめて小千谷の干しそばをあげることにした。
その旨を電話で家へ予告しておき、地下鉄で帰る。
晴天の夕暮れだが、しだいに冷気がきびしくなっている。
夜、我家にいる四匹の猫のうち、
もっとも年をとっている女猫のメイコが、長らく病気で寝ていたが、
めずらしく今夜、部屋へ入って来る。
しかし、もう歩けない。
歩こうとしては倒れ、倒れては必死になり、
起きあがろうとするありさまを見ていると、あわれになる。
何処へ行きたいのか、それがわかれば手を貸してやるのだが、
わからない。
メイコは我家の猫のうち、もっとも古い猫だ。
人間なら七十をこえているかとおもう。

メイコは未明、家内の部屋で息を引き取った。
猫が最後の期(とき)を迎える姿は、
立派だと、いつもながら、そうおもう。

J.C.も愛猫・プッチと暮らし始め、早や11年を超えた。
彼女の血統書には2004年2月29日生まれとある。
なるべく健康で長生きしてもらいたいと、
食事制限をするようになって1年半になるだろうか。
猫だけにひもじい思いをさせるわけにもいかず、
自分も節食のおつき合いに努めてはいる。
おかげで2キロ以上体重が減り、体調はすこぶるよろしい。

プッチが息を引き取るとき、どんな気持ちになるんだろうネ。
もちろん哀しむに決まっているけれど、
それだけではないような気がする。
今も足元で惰眠をむさぼるその表情は
老猫に似ず、何ともあどけない。

(出さなかった年賀状)

一九八九年の新年を迎える。
六十をこえると格別のおもいもない。
雑煮も元日だけできょうはチキンライス。
一日中、テレビの忠臣蔵を見ていた。
年賀状がぞくぞくと到来。今年にかぎって、心が落ち着かず、
賀状は早く刷りあがっていたのだが、ついに書けなかった。
体調をくずして、千数百枚の宛名を書く気力がなかったことも事実だ。
眼は老人性のかすみ目らしく、
名簿の名を追うのも骨になってきた。

いよいよ、翁もあぶない。
それにしても、千数百枚の年賀状とは!
健康に害が及ぶこと、はなはだしいのではないか。
自殺行為というほかはなく、思いとどまって、よかったぞなもし。

=つづく=

2015年8月13日木曜日

第1163話 池波翁の「銀座日記」 (その10)

またもや、PC不調で丸一日遅れのアップにて恐縮です。
さらに(暖かな日々)のつづき。

新しい年が明けた。
私は、早生まれの戌(いぬ)で、本命の星は六白である。
去年、この六白の星をもつ人は大なり小なり、ひどい目に会った。
むろんのことに例外はあるけれど、
何といっても五黄殺という恐ろしい星が
上へ乗って来たのだから、どうにもならない。
今年は外国へ二度ほど行くつもりだが、
体力的に自信がなくなってきている。
今年は仕事を思いきって減らすつもりだ。

朝から、」まるで春のような暖日。
何だか気味が悪い。
第一食に昨夜のチキン・コロッケをソースで煮て食べる。
午後からY新聞へ行き、例年のごとく映画広告の審査をやる。
これも今年かぎりで辞めることにした。
早く終ったので神保町へ行き、散髪。
それからB社へ行き、むかしからの担当者四名と
近くの中華料理で夕飯をする。
みんな、中年になってしまって食べないし、飲めない。
私も大きなグラスに冷えたビールをなみなみと注ぎ、
ぐっとのみほしたいのだが、のめなくなってしまったし、
すっかり食が細くなってしまった。
先行き、体調が変わって、また、のめるようになるか、どうか・・・
おそらく、そうはならないだろう。

1988年、新春のことである。
めっきりと気が弱くなっていて気の毒なくらいだ。
大好きだったビールにしてもグラス1杯が飲み干せなくなっている。
体調の復元を自ら否定しきってしまっている。

「銀座百点」に連載した「池波正太郎の銀座日記」はここまで。
続いて「池波正太郎の新銀座日記」が始まる。
文庫本のタイトルに、[全]とあるのはこのことだ。

(久しぶりの試写通い)

秋晴れの朝、ほんとうに久しぶりで、試写会へ出かける。
終って、ビルの1Fにある[O軒]へ行き、
たのんでおいたレーズン・パイを受けとり、
店の奥のパーラーでエスプレッソをすするうち
疲れが出てきて、何処へも行く気がしなくなる。
帰りも地下鉄にする。
脚力が、おとろえてしまったことが、はっきりとわかる。
夕飯は家へ帰って食べることにしたので、
コーヒーをのみながら
(何にしようか?)
と、考える。

=つづく=
 

2015年8月12日水曜日

第1162話 池波翁の「銀座日記」 (その9)

(最後の新国劇)

昨日の朝、新国劇の解散を新聞で知る。
午後になると、新国劇と関係が深かった私のところへも、
新聞や通信社その他から、
原稿やインタビューの依頼があったが、その大半をことわる。
いまさら、何をいうことがあろう。
きょうは、夜になって、
新国劇の島田正吾・辰巳柳太郎の両氏が解散のあいさつに見える。
おもえば、新国劇と私のつきあいは三十六年にもなる。
なんという、歳月の速さだろう。
そのことをいうと、二人とも、憮然たる面もちとなった。
人間という生きものに対しての、歳月の速度は無常でさえある。

名優・緒方拳を生んだが、すでに消滅した新国劇。
ひるがえって細々とではあるけれど、
新派の存命が不思議なくらいだ。
そうですねェ、歳をとってからの一年は
子どもの頃の三年に匹敵しましょうか・・・。

この夏は仕事を減らし、
のんびりできるかとおもったが体調を崩してしまい、
予定通りにはいかなかった。
残暑も、ようやくしのぎやすくなったけれども、
秋からの仕事が詰まって来て、なかなか銀座へも出られないし、
試写にも行けない。
食欲がなくなってしまい、体重も減ってきて、どうも元気が出ない。
きょうは夕飯に、近くの商店街のマクドナルドから
ハンバーガーを買って来させ、それで少量の酒をのんでから、
あとはトロロそばにしたら、うまく食べられた。
こんなのもタマにはよい。

夏マケというか、このあたりから翁の生命線は下降気味となっている。
しかし、マックのハンバーガーで酒なんぞ飲めるものかなァ。
ビールやワインならともかくも日本酒はキツかろうヨ。

(暖かな日々)

今年最後の試写へ出かける。
かつて、満州国の皇帝だった溥儀の自伝をもとにして
イタリアのベルナルド・ベルトリッチ監督がつくった、
[ラスト・エンペラー]である。
三時間に近い長尺を少しも退屈せずに観た。
ピーター・オトゥールのイギリス人牧師がよく、
日本から参加した坂本龍一の甘粕大尉はどうにもならない。
坂本に甘粕は無理だ。
だが、坂本担当の音楽はよかった。

予想に反してどうしようもなく退屈な映画だったネ。
日本人の俳優としては
海外の、殊に女性に人気の坂本龍一だが
箸にも棒にも掛からない稀有なアクターと断ずるほかはない。

=つづく=

2015年8月11日火曜日

第1161話 池波翁の「銀座日記」 (その8)

(来年の賀状)

今朝は早目に起きて仕度をし、青山斎場へ。
講談社・野間社長の葬儀へおもむく。
焼香をすませ、出てくると雨もやみ、
参列者が長蛇の列をつくっている。
帰宅し、二組の来客の相手をすませると、
もう夕刻になっていた。
鶏のスープ鍋をし、終った後のスープへ
塩とコショウを振り込み、飯へかけて食べる。
ベッドへ入ったが、さまざまなおもいが去来し、なかなか寝つけない。
ついに午前二時、起きて少量の睡眠薬をのむ。

鶏のスープ鍋はJ.C.も大好き。
鍋の締めに雑炊を好む向きが多いが、雑炊は嫌いだ。
ごはんを煮る代わりに
冷やめしでもいいから熱いスープをかけ、
お茶漬けみたいにサラサラやるほうがよほど旨い。

悩み事が多いと睡眠不足になるのだろう。
翁もたびたび睡眠薬を処方している。
自慢じゃないが、J.C.は生まれてこのかた、
睡眠薬のお世話になったことはただの一度もない。

これはたぶんに麻雀その他で徹夜慣れしているからだろう。
慣れているから徹夜がちっとも怖くない。
眠れなければ、朝まで起きてれば、それで済むことだ。
眠れないのに眠ろうとするから余計に眠れないので
ここは発想の転換、
朝まで起きていようと思うと、途端に眠くなるハズ。
嘘だと思ったらぜひ試してご覧なさい。

なおも(来年の賀状)の稿。

鶴田浩二、石原裕次郎、このところ、俳優の死亡が多い。
きょうは有島一郎の死が報じられる。
今夏は梅雨前から気候が悪く、
私も家族も飼猫までも体調を崩してsひまったほどだから
病人にはさぞよくなかっただろう。
午後、印刷屋から、
「来年の年賀状は、まだですか?」
と、電話がかかってくる。
なるほど、今年は年賀状の注文が大分に遅れていたことに気づき、
すぐに画稿えお描く。
いったん、梅雨が明けたというが、それが取り消しになったので
きょうも雨で蒸し暑く、さっぱり仕事がすすまない。

好きな二人の俳優が前後して亡くなったのは1987年。
ニューヨークに赴任した年だった。

=つづく=

2015年8月10日月曜日

第1160話 池波翁の「銀座日記」 (その7)

作話のつづき。

夜は雨になる。
十時すぎ、床へ入り、ぐっすりと眠った。
きょうは、午前十時に迎えの自動車が来て、上田市へ行く。
旧知の人々と会い、用件をすませ、
[刀屋]という、古いなじみの蕎麦屋へ寄って、
みんなと食べたり飲んだりする。
五時四十分の列車で帰京。
東京は激しい雨だったが、間もなくやむ。

長野市生まれのJ.C.にとって長野はもちろん、
上田も想い出の詰まった土地。
[五明館]の洋食・アイスクリーム、
[刀屋]の蕎麦・天ぷら、忘れ得ぬ味覚をこの舌が覚えている。

(冬の頭痛)

昼ごろ、銀座を出て[共栄]のチャーシューメンを食べてから
ヤマハ・ホールで[コーラス・ライン]の試写を観る。
[ルノアール]で毛のスポーツシャツ、
[ヨシノヤ]でゴム底の靴を買ってから、国電で目黒へ行き、
久しぶりで[とんき]のうまいロース・カツレツを食べる。
二年ぶりだが、店内の清潔さとサービスのよさは
以前と少しも変わらぬ。
酒一本に御飯二杯、みやげに串カツレツを二人前、合計二千六百円。
この店は、
まさに東京が誇り得る[名店]だとおもう。

意義あり。
目黒の[とんき]はそこまでのとんかつ屋ではけっしてない。
これはわざわざ都外から訪れる方の落胆を未然に防ぐがための苦言。
揚げられたロースはパサパサだし、
真っ黒に劣化した揚げ油は著しく食欲をそぐ。
清潔な白衣に身を包む老若の乙女(?)たちには
敬意を表するところ大なれど、
とんかつのマイナス材料を補うまでには至っていない。

冒頭のチャーシューメンにしても
供する店舗は[共栄]ではなく、[共楽]の間違いだろう。
中央競馬会・馬券売り場の隣りに位置する、
小さな店が作るラーメンとチャーシューメン、
それに今の時期なら冷やし中華、そのどれもがおいしい。
名店とはいかずとも、佳店であることに異論をはさむ者はいまい。

カツレツ、とんかつ、焼きそば、炒飯、
脂っこいモノが大好きだった池波翁。
”食”にまつわるエッセイは数あれど、
彼の味覚に鋭さはまったく感じられない。

取り巻いた編集者に罪がなくもないが
翁自身の筆は舌を補って余りあるものがあった。
”筆舌につくしがたい”とはこのことを言うのであろう。

=つづく=

2015年8月7日金曜日

第1159話 池波翁の「銀座日記」 (その6)

(風邪のち痛風)

昨日の朝、起きたら身体の節々が痛い。
何年ぶりかで風邪にやられたのだ。
鍼を打ちに出かけ、帰宅してからはベッドへもぐりこんだままだった。
今朝は発汗して目ざめる。
大分よいようだ。
昨日は白粥に梅干しだけだったが、きょうは、いきなりカツ丼にする。
夜は姪が来て、牛肉と野菜の西洋おでんをつくる。
あとは蠣御飯。
ベッドでテネシー・ウイリアムズの短篇集を読む。
いずれも粒揃いの凄い短篇ばかりだが、
中でも[呪い]の一篇は、
私のように長らく猫と暮らしてきた男にとっては何ともたまらない。
人の世に傷つけられ、、もはや絶望のみとなった若者ルチオと
牝猫ニチェヴォが相抱いて、川へ入り、自殺をとげるはなしだ。
灯を消してから、私より先に病死していった飼猫たちを
つぎつぎにおもい起こしてみる。
私が子供のときからの猫を数えると、
おもい出しただけでも十七匹になるが、実際はもっといたろう。

うう~ん、猫かァ。
師匠には到底かなわないけれど、
こちらとて一匹の牝猫とかれこれ10年以上も同棲している。
感謝こそすれ、彼女に対する不平・不満は一切ない。
おかげでもともとは犬派だったのに
今じゃ、丸っきりの猫派と相成ってしまった。

ウイリアムズの[呪い]は未読。
しかしながら、人に裏切られて絶望の淵に立ったルチオが
愛猫とともに入水するハナシは衝撃的に過ぎた。
人と猫のあいだには、ある種のカタルシスが生ずる気がする。
相方が犬ではとてもこうはゆくまい。

わが家のボケ猫・プッチはただ今11歳。
ボケ猫ながら、なかなかの飼い主孝行で
幼いときの不妊手術を除くと、これまでまったくの医者要らず。
己の身の健康を謳歌している。
面倒くさがり屋の飼い主にとって、これ以上の名猫はござらん。

(川口松太郎氏のこと)

ことわりきれぬ用事で信州に向かう。
昨日は数年ぶりで善光寺門前の[五明館]へ泊まった。
この宿へ、はじめて泊まったのは約三十年も前のことだが、
ずっと係の女中さんだったおときさんが一ヶ月ほど前に
七十五歳で亡くなったことを知らされる。
おときさんは数年前に引退をして、
息子さんが建てた家へ引き取られ、
あひあわせな晩年を送っていたが、私が[五明館]へ泊まると、
わざわざ顔を見せに来てくれたものだ。

=つづく=

2015年8月6日木曜日

第1158話 池波翁の「銀座日記」 (その5)

(夏の終り)

連日の猛暑。
少し元気をつけようとおもい、
第一食に薄切りのビーフ・ステーキを食べる。
買い物がたまったので、午後から銀座へ出かけ、
レコード・画材・本・薬などを買い、
[Y]でざるそばを食べる。
夕景に帰宅したが、ざるそばを食べたので、
すぐには食べられず、夜がふけてから粕漬のタラコと
ジャコに大根おろし、瓜の香の物で御飯を一杯食べてから
自分の文庫本の装丁をやる。
ベッドへ入ってから、ふと気がついた。
きょうは、まったく酒もビールものまなかったのだ。
何十年ぶりのことだろう。

文中の[Y]は[よし田]のことだろう。
あまり感心しないコロッケそばが有名だが
やはりそばのデキは今ひとつ。
ただ、これだけの空間を保つそば屋は銀座にはほかにない。
しいて挙げれば「泰明庵」だろうか・・・。
夕飯の献立はいかにも夏の家めしといった感じ。
タラコに瓜ときて、冷たいビールを飲み忘れるなんて
翁もヤキが回ったのかも。
その点、J.C.は半世紀近く、飲まない日はございやせんネ。
エッ、単なるアル中だろうが! ってか?
ほっとけや。

(フランス旅行)

昨日の夕方に、フランスから帰国し、
きょうはヘラルドで[スワンの恋]の試写を観る。
地下鉄で新橋へ出るまで、何の危惧も不安もなく、
のんびりとしていられるのが嘘のようだ。
いまのパリは危険にみちているそうな。
私たちは、つつがなく二十日間の旅を終えたが、
例によって、ほとんど夜は出歩かないようにした。
もっとも安全だといわれていた十六区のパッシーあたりでも、
いまは白昼から、若い女が頸の急所をナイフで切り裂かれたりする。

おや、おや、物騒な。
1983年の旅行だから、ミッテラン政権下と思われるが
この頃のパリはちっとも危険な感じがしなかったけどなァ。
第一、ほとんど夜に出歩かないんじゃ、パリを訪れた意味がない。

J.C.が初めて十六区のパッシーを訪れたのは1995年。
週末にデジュネを食べたが、一画は平和そのものだった。
まだ還暦前なのに翁の臆病風はいったいどうしたことだろう。
嘆かわしいとしか言い様がないじゃん、ジャン・バルジャン。
あゝ、無情。

=つづく=

2015年8月5日水曜日

第1157話 池波翁の「銀座日記」 (その4)

奥多摩に遊んだ数日後の日記である。

(親思う心にまさる親心)

朝八時に飛び起き、コーヒーをのむだけにして、
歌舞伎座の昼の部を観に出かける。
久しぶりに[夏祭浪花鑑]を観る。
この芝居は、私がもっとも好きな狂言の一つで、
大詰・長町裏の殺陣は、いつ観てもすばらしい。
今回は幸四郎初役の団七九郎兵衛、
勘三郎が、これも初役の三河屋義平次という配役だ。
終わって、用事を済ませてから、近くの[竹葉亭]へ行く。
二年ほど前に、椅子席が設けられたので、まことに便利になった。
キクラゲとキュウリの胡麻和えでビールをのむうち
鰻が焼けてきたので、酒を注文する。
最後は鯛茶漬、これで、ちょうどよい。

[竹葉亭]はJ.C.も大好き。
ただし、八丁目の本店よりも五丁目の支店が気に入りだ。
1階・2階・地階とあるうち、特等席は
入れ込みの座敷になっている2階の晴海通りに面した窓際。

鰻屋だからたまに鰻もいただくが
もっぱら鯛のかぶと焼きとかぶと煮で酒を飲み、
まぐ茶、いわゆるまぐろ茶漬を締めとしている。
旨いんだな、コレが!

(ムッソリーニの悲劇)

ヘラルドの試写室で、エットーレ・スコラ監督が
七年ほど前に作った[特別な一日]を観る。
第二次大戦直前のイタリア。
独伊協定がむすばれて、ヒトラーがローマにやってくる。
ムッソリーニはこれを歓迎し、
熱狂的な記念式典がおこなわれた当日、
ローマの高層アパートに住む中年の女が
夫や子供たちが式典を見物に出かけた後、
同じアパートの中庭をへだてた部屋に独り住むホモの中年男と、
ふとしたことから生涯一度の情事を持つというテーマで、
これを映画にしたり、小説にしたりするのは
なかなかむずかしいのだが、
スコラ監督は、自分で書いたオリジナル脚本を演出して
なるほどと、納得せしめたのは、さすがだ。
女をソフィア・ローレン、男をマルチェロ・マストロヤンニという、
呼吸の合ったコンビが至難の役を見事に演じきっている。

この作品はJ.C.も大好き。
同じスコラの[あんなに愛しあったのに]も好きだが
こちらはヒイキの女優、ステファニア・サンドレッリが出ているからネ。
ヒイキ目を排除すれば、[特別な一日]に軍配を挙げることになろう。
翁のおっしゃる通り、ソフィア&マルチェロのコンビは白眉で
彼らの最高傑作と断じても不都合は生じまい。

=つづく=

2015年8月4日火曜日

第1156話 池波翁の「銀座日記」 (その3)

それでも上野の「愛玉只」は今も健在。
界隈には見どころも少なくなく、
散歩がてらに一度はお出向きあれ。

(ソフィスティケーテッド・レディース)

午後、講談社か[イン・ポケット]の編集長・宮田君が来て、横浜へ行く。
波止場で写真を撮られる。
年少のころ、横浜に遊んだ日々が、さまざまにおもい出されてきた。
夕暮れになったので[ニューグランド・ホテル]のバーへ行き、
マンハッタンをのむ。
「そろそろ、いいでしょう」
というので、東京へひき返し、築地の[K]で常盤新平さんと対談をする。
帰宅して、カラスの[カルメン]全曲のレコードをテープに入れる。
二時間半もかかってしまい、今夜は、
それをウォークマンで聴くうち、いつしか眠ってしまう。

ふ~む、翁はオペラにも造詣が深いのですな。
やはりカラスには魅了されるようで
男声ではドミンゴが気に入りのハズだ。

サブタイトルと内容が伴わないのは
一つのタイトルの範疇にいくにちもの日々が綴られているため。
ご了承のほどを。

(親おもう心にまさる親心)

二人の友人と、奥多摩へ遊びに行く。
先ず、沢井のあたりを取材してから吉野梅郷へもどり、
故吉川英治氏の夫人が経営する[紅梅苑]へ行き、少憩する。
ここのコーヒーは、注文があるたびごとに新しくいれる。
だから、うまい。
名実ともに、いまや奥多摩の名物となった菓子を求めてから、
福生へまわり、旧知のレストラン[さんちゃん]で夕飯。
熱々のタマネギのフライで冷たいビールをのんでから、
それぞれにステーキ、カレー・ライス、カニの焼飯、
その他を注文し、分け合って食べる。
満腹して車に乗ったら、たちまちに眠ってしまい、
「着きましたよ」
いわれて、めざめたら、もう品川の家の前だった。

奥多摩へは小学校六年生の遠足以来、一度も行っていない。
どうも自然派じゃないんだよネ。
福生の洋食店も名前を聞いたことがある程度、
第一、福生の町を訪れたことがない。
いかにも池波翁好みのメニューが並んでいて
満腹&満足が紙面からも伝わってくる。

そう、そう、池波邸は戸越の辺りにあった。
星薬科大学の裏道を好んで散歩されていた。

=つづく=

2015年8月3日月曜日

第1155話 池波翁の「銀座日記」 (その2)

昭和の人気TV番組、
「ロッテ歌のアルバム」じゃございませんが
1週間のごぶさたでした。

PCの不具合、その他もろもろの事情で
ブログのアップが大幅に遅れております。
これから早急に埋めてまいりますので
読者のみなさんには8月3日にさかのぼって
読み進めていただければ、ありがたく思います。

 さっそく「池波正太郎の銀座日記」を読み継いでいきたい。 

 浅草・上野・谷中 )

地下鉄で上野へ出る。
〔アサヒグラフ〕の絵の連載が間もなく終るので最後の取材。
上野駅や山内をスケッチしたり写真を撮ったりしながら、
谷中へ出た。
道を歩いているとB社の女性編集者に声をかけられたので、
谷中警察署のとなりの店で、
むかしなつかしい〔愛玉只〕を食べる。
〔オーギョーチー〕は台湾特産の蔓系植物で
これを寒天のようにして、独特のシロップをかけて食べる。
私が子供のころは、浅草六区の松竹座の横町にあった店で、
よく食べたものだが、いまはこの店だけだ。
五十年ぶりで食べたことになる。
 「どうだ、うまいかい?」
尋ねると、女性編集者は
「とても、おいしいです」
と、いう。
おせじではないらしい。
私も、むかしの風味が少しも損なわれていないように思った。
 
J.C.も〔愛玉只〕を二度訪れている。
さして旨くもないし、
ましてや甘味イーターでもないわが身、
ハナシの種に一度食べればじゅうぶんなのだが
雑誌か何かで白ワイン入りのオーギョーチーの存在を知り、
試してみたくなったのだった。
 
根津神社そばの日本そば屋「夢境庵」で昼食をとったのち、
15分ほど歩いて見覚えのある古い店舗にやって来た。
目当ての一品を注文したことは言うまでもない。
ところがコイツが大ハズレ。
とても食べられたものではなく、
たった2匙で文字通り、匙を投げ出した。
 
そのまま席を立つのも気が引けるので何か言いわけが必要だ。
「ちょっと忘れ物をしちゃったのでお勘定!」―
老店主はポカンとしていたが、これしか手立てがないやネ。
 
店を出てハッと気がついた。
根津のそば屋に本当に午後の会議資料を忘れてきてた。
今来た道を逆戻りの巻である。
われながらバカですねェ。
 
=つづく=