2019年10月31日木曜日

第2253話 意外なところで星がれい (その1)

京急蒲田駅前のアーケードを抜けて目指したのはJR蒲田駅。
胸に秘めた一案とは「三州屋本店」で一飲に及ぶこと。
都内に数多ある「三州屋」の本家本元がこちらである。
もっとも今となってはみな暖簾分けでそれぞれに独立採算制だ。

2年半ぶりに敷居をまたいだ。
底辺の短いL字形カウンターの長いほう、
その真ん中あたりに落ち着く。
オネエさんにサッポロ黒ラベルの大瓶をお願いした。
すると、小首を傾げた彼女曰く、
「キリンなんですけど・・・」
虚を衝かれてサッポロ赤星の有無を訊ねると、
瓶はキリンのクラシックラガーとエビス、
生はキリンラガーのみだという。

ことここに及んで遅ればせながら思い出した。
そうだった、この本店だけはキリン主体なんだヨ。
他の「三州屋」はいづれも、
ビールはサッポロ、清酒は白鶴と相場が決まっている。

多摩川の向こう側、生麦事件の勃発した生麦には
キリンの製造工場があるからネ。
都内といえども大田区・蒲田は
神奈川県の川崎や横浜同様に、キリンのシマなんだろうな。
ここは多少なりとも苦みが抑制される(されたように感じる)、
生のほうを中ジョッキで所望する。
突き出しはわずかながらもしらすおろしで
先ほどの「井戸屋」とかぶった。

壁の品書きを見上げて、そっくり返りそうになった。
何と稀少な星がれいの刺身があるじゃないか。
意外なところで遭遇したものだ。
しかも、この高級魚の刺身がたったの580円。
売切れの憂き目を見る前に即刻、発注した。
ちなみに刺身は平目も本まぐろも同値であった。

星がれいは真子がれいをしのいで
カレイ類の頂点に立つ、美味の極み。
もっとも刺身で食べてこそで
煮付けなら東のナメタ、西のメイタということになろうヨ。

こうして活字にすると判り易いが
会話中に”ホシガレイ”と聞いたら
干しがれいをイメージする向きが多かろう。
赤字覚悟で仕入れた店の心意気を
「干したカレイなの?」-
客にこう返されたひにゃ、立つ瀬がないやネ。

運ばれた星がれい刺しは立派な5切れに加え、
厚みのあるエンガワが2片。
朝締めの新鮮な身肉は死後硬直が解けておらず、
食感はコリコリのシコシコ。
これが破格の580円ときては
恐れ入谷の鬼子母神、びっくり蒲田の星がれいであった。

=つづく=

2019年10月30日水曜日

第2252話 ボーっと乗ってんじゃねーよ!

理髪のため、都(みやこ)の西南、
われらが母校ならぬ、サロンへ。
その日はわりと早めに目が覚めたので
軽いプチ・デジュネをつとめてゆっくり取ったあと、
朝刊をすっかり読み終え、ロードをヒットすることに―。

行き掛けの駄賃を目論んで向かったのは
東急池上線・荏原中延の洋食店「ふじかわ」。
数種類の料理から2種、あるいは3種択べる、
その名もエラベルセットが狙いだ。

メトロを大手町で千代田線から都営三田線に乗り換え、
お次は三田で同じく都営の浅草線に乗り換えたつもり。
ところがそいつは京急直通の三崎口行きだった。
これでは四十七士の墓どころ、
泉岳寺でまたまた乗り換えなきゃならない。
ロンドン・パリに比べ、東京の地下鉄は不便よのぉ。

ボーっと乗ってたんだろうねェ。
気がついたら1駅乗り越して品川駅ときたもんだ。
わざわざ戻るのはシャクだから
このまま行って平和島あたりでランチにしよう。
そう思ったものの、
急行だかなんだか、京急蒲田までノンストップ。
タハッ、ずいぶん遠くへ来たもんだ。

数年前に高架化された駅の改札を抜け、
地上へ降りたらアーケード商店街、
”あすと”が口を開けて待っていた。
歩き始めて間もなく「井戸屋」なる食堂に行き当たった。
昭和の面影残す店内は近所の家族連れでにぎやか。
地元密着度の高さがうかがえ、これならハズすまい。

左右に並ばるテーブルの間を直進。
奥がオープンキッチン・カウンターになっており、
飲む客、食う客入り混じるものの、みなツレなしの単身者。
互いに干渉し合うことなく、孤独のグルメに徹している。
(それじゃあ、遠来のオッサンも仲間に入れてよネ)
心につぶやき、端っこに着席した

ビールは生も瓶もキリンにつき、見送り。
もっとも胸に一案あればこその余裕なんだがネ。
注文はさば味噌煮定食(580円)としらすおろし(150円)。
しばらく様子を見ていると、あじフライ定食(580円)に
本日のサービス定食(700円)の人気が高い。
サービスは紅鮭塩焼きとスパゲッティサラダのコンビだ。

オペレーションは中2・外1の男ばかりが3人。
エプロンに三角巾のオバちゃん、オネエちゃんの姿はない。
整った膳の味噌煮には煮汁用の薄切りしょうがに加え、
さばの上に針しょうがまであしらわれている。
大衆食堂のわりには芸がこまかい。

身に臭みはないし、骨がさほどあるでもなく食べやすい。
わかめ&とうふ味噌汁はそれなりだが
きざみたくあんと緑色がケバいきゅうりのキューちゃん風は
箸をつける気になれなかった。

オッサンにはちょうどのボリューム。
価格を考慮すれば上々の昼めしだった。
胸の一案を道連れにアーケード”あると”を
奥へ奥へと足早に歩いて行きました。

「食事処 井戸屋」
 東京都大田区蒲田4-5-7
 03-3739-4316

2019年10月29日火曜日

第2251話 鯰と鰻をサックリと

荒川遊園地前の遊歩道で仕方なく、
ヌルい生ビールを飲んでいたとき、メールが着信。
なあんだ、さっき別れたばかりのY莉チャンじゃないか。
今夜、東京で1泊して明朝帰郷することにしたらしい。
ついては晩めしをつき合えとの仰せである。
確保した宿は上野駅周辺だという。

10分後に折り返すと打っといて、しばし思案する。
尾久の散策は道半ば、まだ2時間近くの余裕があった。
確か、尾久銀座の入口だか出口だかのそばに
古いうなぎ屋があったハズ、よしっ、そこにしよう。

地番は東尾久で最寄り駅は舎人ラーナー・赤土小学校前。
しかし、ヨソ者にこのラインは使い勝手が悪い。
JR山手線・田端駅に呼び寄せたほうがよい。
飲み干したビールのプラコップをくずかごに放り込んだ。

西尾久の隣りに位置する北区・昭和町から
尾久に戻って小台本銀座、そして尾久銀座に廻った。
念のため、目当ての「うなぎ坂田」に立ち寄り、
20分後の予約を入れて出迎えのため、田端駅へ。

うなぎ好きの相方は上機嫌。
黒ラベルの中ジョッキをカチンと合わせた。
間髪入れずに通したのは、うなぎ肝焼きと上新香だ。
うざく、う巻きもけして嫌いじゃないが
蒲焼きのインパクトが薄まるからなるべく避けている。
肝焼きだけはベツで蒲焼きより好きなくらい。
はたして好物の肝はそこそこレベルに過ぎなかった。
水準ギリギリといったところである。

かぶ・白瓜・なす・らっきょうの上新香は
ぬかの漬かりが上々なれど、
救われないのは振りかかった白い粉だ。
古い食堂や定食屋で油断してると、
ときどき見舞われる災難がコレだ。

かといって客がいきなり、
「お新香には味の素をかけないでネ」
なんて言えるハズがない。
「ウチはそんなもん使ってません!」
店によっては一喝されておしまいであろうヨ。

冷えたキンシ正宗に切り替えたとき、
なまずの天ぷらがあると聞き、即刻お願い。
なまずは東京スタジアム(味の素スタジアム)のある、
京王線・飛田給の居酒屋「いっぷく」で
2年前の秋に食べて以来だ。

あのフライの旨さは今も舌が覚えている。
「坂田」の天ぷらもホックリ揚げられて
なまずの持ち味が活きてはいたものの、
「いっぷく」には及ばなかった。

日本酒を飲み過ぎたせいで食欲は減退気味。
締めにガッツリとうな重は望むべくもなく
白焼き丼をサックリと分け合った。
ホロ酔いを超え、ドロ酔い寸前のツレを
どこかに故郷の香り漂う上野駅までクルマで送り、
こちらは夜更けの不忍通りを歩いて帰途に着きました。
タハッ、男はつらいヨ。

「うなぎ坂田」
 東京都荒川区東尾久4-22-11
 03-3894-4778

2019年10月28日月曜日

第2250話 阿部定事件の町を歩く

荒川区民ならいざしらず、
東京都民でも訪れる人とてほとんどない尾久の町。
とにもかくにもここはおかしな土地柄なのだ。
都営荒川線のほか、JR東北本線・尾久駅には
宇都宮線、高崎線が乗り入れてはいるものの、
乗降客数はけして多くない。

北区・昭和町にある尾久駅は”おくえき”なのに
荒川区の地番、東尾久と西尾久は
それぞれ”ひがしおぐ”、”にしおぐ”と”久”の字が濁る。
この町を知る者はみな、駅・町ともに”おぐ”と呼ぶがネ。
そもそも尾久の町がない北区に何で尾久駅があるんだヨ。

昭和11年(1936)5月
ここで日本中を震撼させる猟奇的な事件が起こった。
此度は事件について詳しく綴らぬが興味のある方には
大島渚がメガフォンをとった日仏合作映画、
「愛のコリーダ」(1976)をオススメする。
ちなみに誰が言い出したか知らないけれど、
昭和11年三大事件というのがあり、
2.26事件、阿部定事件、上野動物園クロヒョウ脱走事件を指す。

町屋2丁目、東尾久3丁目を経て
荒川線が尾久橋通りと交差する熊野前に達した。
ここで一度南下し、尾久本町通りを右折して商店街を散策。
途中の十字路は尾久銀座へ向かわず、
北上して宮ノ前駅そばの碩運寺界隈を歩く。
定が愛人・吉蔵を殺めた待合「満佐喜」はこの辺りにあった。

小台橋から隅田川上流をのぞむ。
落日にはまだ遠く、雲間から陽がこぼれ射して西空は明るい。
荒川遊園地前にやって来ると改装のために休園中。
かつて温泉が湧き出し、尾久の町が隆盛を極めた頃には
大人たちも楽しめたという娯楽施設も近年は集客力を失い、
訪れるのは小学校低学年層とその保護者ばかりとなった。
若者のデートスポットとしてはまったく不向き。
それでも2021年のリニューアルオープン時は
時代遅れを返上し、大きく生まれ変わる予定だという。

何のイベントか、園前の遊歩道に屋台がいくつか出ていた。
おっと、生ビールのスタンドがあるじゃないか。
渡りに舟というより、オオカミに仔ヤギだネ、コイツは―。
300ccほどのスーパードライがプラコップに注がれて400円也。

スタンドを離れ、静かな木陰でグビ~ッ!
さぞかし旨かろう、ってか?
それがネ、あんまり旨くなかったんだわ。
何となれば、ビールがヌルいんでやんの。
ヌルいビールほど不味いものはないのよねェ。
このときポケットのガラケーがブルブルっと来たのでした。

2019年10月25日金曜日

第2249話 町屋は町中華の町

北国在住の友人・Y莉チャンが上京してきた。
不祝儀だという。
つかの間、旧交を温めるため、
白昼から一飲に及ぶこととなった。

斎場が荒川区・町屋というので
近くの町中華&喫茶「川ばた」で待合わせる。
揃って入店すると、女将さんが申し訳なさそうに
「すみません、今いっぱいで・・・」
「じゃ、外で待ってるネ」
「それがちょうど団体さんが入っちゃって・・・」

見渡せば、ホントに満席。
しかも入口近くの爺さんがソース焼きそばを
音を立ててすすってるほかは客に料理が出ていない。
そして揃いも揃って黒づくめのファッションだ。
やれやれ、タッチの差で先を越されちまったわい。
われら二人、目を見合わせて苦笑するばかりなりけり

それではと向かった、これも老舗中華の「百番」。
こちらは満席どころか、ひと月前に廃業してた。
今月末には千駄木の「砺波」が幕を降ろすというのに
「百番」が先立つ不孝を実践してた。

町中華はいよいよおしまいなんだろうか?
「日高屋」、「ふくしん」、「幸楽苑」、
それに加えて、イラサマセ~系。
昭和をつつましく生きた善良な市民が憩える中華は
絶滅危惧種になっちまったんだねェ。
心なしか相方の眼差しにかげりが浮かんでいる。
ダイジョブ、ダイジョビ、町屋は町中華の町だからサ。

「百番」と同じ並びの尾竹橋通り。
「らぁ麺 天元」にようやく落ち着くことができた。
ここもまた古い町中華なのだ。
スーパードライのグラスを合わせながら
餃子・中華そば・半チャーハンをオーダーした。

ニンニクの効いた餡に皮もっちりの餃子はまずまず。
中華そばは自家製極細麺がよく、
バラ肉チャーシュー・細切りシナチク・味付け半玉・
焼き海苔のトッピングにも抜かりがない。
惜しむらくは鳥ガラ&魚介の出汁に昭和の香りが薄かった。
玉子と青ねぎのチャーハンはどうにか平均点だ。

銀座で買い物を済ませて帰途に着く、
Y莉チャンを町屋駅まで送り、
こちらは持て余した時間の有効活用。
あまり足を踏み入れぬ尾久の町をゆっくりめぐってみたい。
東京に唯一残るチンチン電車、
都営荒川線の線路に沿って歩き始めた。 

「らぁ麺 天元」
 東京都荒川区町屋2-4-18
 03-3819-0045

2019年10月24日木曜日

第3248話 22年ぶりのタコス (その2)

前フリが長くなったが、その日の午後は
足立区・北千住の街をぶらぶらしていた。
軽く昼めしもよし、晩酌の早仕掛けもまたよし。
宿場町通りの奥に
タケリア(タコス屋)風の店を見つけた。

店頭のメニューボードを眺めていると、
筋書通りに中からスタッフが現れる。
こういう場合はだいたい女性なんだが男性だった。
そこは男女差別とは無縁のナイスガイ、J.C.、
たまにゃ、ライムを搾ったコロナを1本、
一気にラッパ飲みしてみるか?
余裕の心持ちですんなり入った「ヒゲタコス」。
アラサーと思しき彼はオーナーで
なるほど、鼻の下にヒゲを蓄えていた。

コロナの前に生ビールがほしい。
銘柄を訊けば、デンマークのカールスバーグ。
迷わずお願いして、おつまみ3点盛りというのも通した。
海老&アヴォカドのマヨ和え、スモークサーモンマリネ、
チキン胸肉冷製は、みなタコスの具に成り得るもの。
ビールの合いの手としても過不足ない。

続いてコロナをと思いきや、ここで店主曰く、
同じメキシコから珍しいビールが入荷したんだと―。
香辛料バッチリのチリ・ビヤというんだと―。
気が進まなかったが、せっかくだからトライする。

ンムム、ホントだぜ、こいつは辛えや。
ビールがスパイスにブルンバルンと煽られてるみたいで
これならつまみは要らないかもしれん。
でも、正直言って好みじゃないヨ。

タケリアに来てタコスを食わないわけにはいかない。
フィリングがいろいろあるうち、
3点盛りとかぶらぬよう、ビーフを所望した。
それにしても何年ぶりのタコスだろう。
ニューヨーク以来だから少なくとも22年は経ってる。

当時、懇意にしていたマリアとの別れの晩餐は
ウエスト・ヴィレッジの「Mi Cocina(ミ・コチーナ)」。
グワカモレで始めてタコスをつまみ、
牛ハラミのファヒータなんぞも食べた記憶がある。

彼女は中米、エル・サルヴァドルの首都、
サン・サルヴァドルの出身。
鮨や天ぷらもよく食べてくれたが
最後はマルガリータを飲りながら・・・
ってことでメキシカン。
まさか混乱の母国に帰りはすまいが
人種のるつぼのあの街で
今も明るい瞳(め)をして生きてるだろうか―。

ビーフタコスの中身は挽き肉状のタコミートに
レタス、トマト、アメリカンチーズ。
せっかくのタコスも懐旧の思いにとらわれて
味がよく判らなかったがネ

だけどサ、ラップのBGMはないんじゃないの?。
ちょいとばかりセンチになったオッサンには
トリオ・ロス・パンチョスあたりを聴かせておくれヨ。
それも「ある恋の物語」だとしたら
何も言うことありまっしぇん。

「Mi Cocina」
 57 Jane St. (Hudson St.との角)
 627-8273

「ヒゲタコス」
 東京都足立区千住3-56
 050-5597-1924

2019年10月23日水曜日

第2247話 22年ぶりのタコス (その1)

四つ足ならば、椅子・テーブル以外は何でも食べる中国人。
口に入れば、按摩の笛でもしゃぶる日本人。
ハハ、いい勝負だネ。
だけど、朕思うに、もとい、我思うに
メキシコ料理はあまり人気がないんじゃないかな?
中国人にも日本人にも―。

ところがアメリカ人は大好きなんだ。
本場に近い西海岸はもとより、
アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスは言うに及ばず、
東のニューヨーク、ボストン、ワシントンDCあたりでさえ、
彼らはホントによく食べる。
それもバカみたいに―。

メキシコ人にとって最重要な作物はトウモロコシ。
そのままかじるのではなく粉に挽く。
欧米人の小麦粉に匹敵する存在だ。
トウモロコシ粉の薄焼きパンがトルティーヤで
メキシコ料理における基本中の基本がコレ。
タコス、エンチラーダ、ケサディーヤみなその応用版である。

ところがブリトーだけは小麦粉を使う。
コンビニにタコスやエンチラーダはないのに
ブリトーがあるのは製造者にとってトウモロコシ粉は
調達しにくいうえ、コストアップに直結するからだろう。
たとえ一生懸命作ったところで
”本部”という名の悪代官に買いたたかれるのが関の山。
儲からないものを作っちゃいけない。

トルティーヤは鬼畜スペインに中南米が征服される前から
先住民の間で食べ続けられてきた。
彼らは日本人と同じモンゴロイドの末裔である。
そもそも20~15万年前にアフリカに出現したとされる、
ホモ・サピエンス(現生人類)だが
5万年前には東アジアに進出し、モンゴロイドを形成してゆく。
その後、1万3000年前に往時は地続きだった、
ベーリング地峡を越えてアメリカ大陸に行き着いた。

なぜか?
サケ・マスを筆頭に豊富な水産資源を追い求めた結果だ。
彼らがメキシコ付近に達すると、
その地にはトウモロコシという天の恵みが待っていた。
狩猟・漁撈に代わって、生きる糧を農耕で
得ることができれば、人々の生活は安定する。
弥生人の稲作文化がそれを如実に証明している。

トウモロコシの恩恵を受けた彼らの一部は
農耕に嫌気がさしたのか、なおも移動を続けた。
つい最近・・・でもないけれど、
2500年前には太平洋へと打って出た。
その島々が今回のラグビーW杯で日本にやって来た、
サモアであり、フィジーであり、トンガである。
ルーツを同じくする民族同士が5万年の時を越え、
この島国でめぐり合ったのだ。

=つづく=

2019年10月22日火曜日

第2246話 とんかつ屋の「東京物語」 (その3)

鳴り物入りならぬ、瀬戸物入りの味噌汁のことである。
よみがえった記憶は幼少時、
まだ長野県・長野市に棲み、幼稚園に通っていた頃だ。
通いでウチに来ていたお手伝いさんがいて
その女性のご母堂がJ.C.を可愛がってくれ、
幼稚園が休みの日には徒歩数分のお宅へうかがい、
朝食をいただくのが常だった。

このお宅の味噌汁が陶器の茶碗に入っていた。
その後、上京して以来、
東京で味噌碗を目撃したことはただの一度もないから
長野だけの風習だったのだろうか―。

それはそれとして東京物語膳である。
「蓬莱屋」が使用するパン粉は肌理(きめ)細かい。
とんかつ屋というより串揚げ屋のソレに近い。
一口かつ、串かつ(ヒレと長ねぎ)、ヒレミンチと食べ進み、
いずれも水準に達しているが、なぜか満足度は低い。
ここは看板メニューのヒレカツでゆくべきだった。

あっさり系の揚げものだから卓上のソースはウスターのみ。
代わりに3種の塩が用意されている。
フランスとスリランカの岩塩に日本の藻塩は
際立った違いがないものの、フランスの岩塩に甘みを感じた。

キャベツ・ごはんのお替わりをするでもなく、
デザートのオレンジ・シャーベットをいただき、
今度はタオル地のおしぼりで手を拭い、レジに立った。
応対してくれたのは先ほどの中国系と思しき女性。
バイトだろうがレジまで任されるのは信頼の証しだ。
なるほど、教育がゆきとどいて笑顔は明るくチャーミング。
言葉使いもていねいで、女子卓球の中国代表、
丁寧選手を連想させた。

アメ横の雑踏を避け、
線路の反対側の御徒町駅前通りを上野駅方面へと歩く。
ビールが冷えてさえいれば立ち飲みでも構わない。
過去一度だけ利用した焼き鳥屋の前を通りすがった。
ガード下の「蔵どり」はハツモトがよかった記憶がある。

立て看板のメニューに表記された鳥の各部位に
ハツモトの文字はなかった。
ちょうど呼び込みのアンちゃんが
店頭に現れたので訊ねると、ハツモトありと即答。
即答されたら即入店するしかないっしょ。

スーパードライの中ジョッキ。
大山鶏のもも&ハツを塩で各1本、ハツモトはタレで2本。
以上を発注に及ぶ。
すぐ運ばれた生中をグビ~ッ! 一気にやっつけると、
隣卓でしゃべりまくる三人娘のうち一人と視線が合った。
長い海外生活で学んだことに、
こういう場面は軽くほほえむのがインポータント。
セオリー通りにそうしたら
何なのこのオヤジ! 言わんばかりに目線を外しやがった。
ケッ、可愛くねェな。

もも肉とハツはそこそこながらハツモトがしょっぱい。
塩焼き用に仕込んだのにタレで注文が入ったため、
タレの上塗りを施したものと思われる。
これじゃ旨さ半減だヨ。
文句を言っても始まらないし、
隣りのかしまし娘はピーチクパーチク。
多少時間をかけて2杯目を飲み干し、
早期の上野脱出を図りましたとサ。

=おしまい=

「蓬莱屋」
 東京都台東区上野3-28-5
 03-3831-5783

「蔵どり」
 東京都台東区上野6-4-14
 080-4838-0222

2019年10月21日月曜日

第2245話 とんかつ屋の「東京物語」 (その2)

百貨店・上野松坂屋の真裏に位置する「蓬莱屋」。
瞠目したのは”東京物語膳”なる新メニューだった。
いや、何せ17年ぶりの再訪につき、
かなり前に発案されたのかもしれないが
いくら何でも「東京物語」を持って来るかネ。
まっ、”秋刀魚の味膳”ってわけにはいかないわな。

数量限定特別膳と称された、その陣容は
一口かつ2つ 串カツ2本 ヒレミンチ1つ
これが2460円也。
ただし、周りの誰も注文していない。
客はほとんどみなヒレカツ定食一色である。

こういうメニューを発注するのは、ちとテレくさい。
意を決して
「東京物語、まだありますか?」
訊ねると、
中国系と思われるお運びの女性が
「ハイ、あります」
「じゃ、ソレを―」

揚げ手の店主と二番手はむろんのことに
カウンターに席を取ったすべての客が
このやりとりを聞いているのは明らかだ。
さいわい、懸念した売切れもなく、すんなり注文が通った。
いきなり「東京物語膳を下さい!」というのより、
恥ずかしさも半減している。

では冷えたビールでもいただきましょう。
ありゃりゃ、生はアサヒの熟撰、
瓶はエビスときたひにゃ、逃げ場を失ったも同然だ。
サッサと食べて何処かに移動し、そこで飲めばよし。
 
おしぼり(ウェットティッシュ)と
緑茶が急須ごとサーヴされる。
大して待たされることもなく”物語”が整った。
”膳”を謳うだけあって松花堂仕立てである。
カツのトリオのほかは
繊切りキャベツ、きざみ高菜、黒胡麻を振ったごはん。
少な目のキャベツとごはんはともにお替わり可。

そして、おう、コレ、これ。
(歓迎してるんじゃなく、むしろあきれてる)
昔と変わらぬそば猪口入りの味噌汁には
これまた変わらぬインゲンの小片が律儀に2つ。
したがって当店の味噌汁は
味噌椀と呼べず、味噌”碗”ということになる。
東京中探してもこんな店はほかにない。
と、思いきや、忘却の彼方から一すじの光が射してきた

=つづく=

2019年10月18日金曜日

第2244話 とんかつ屋の「東京物語」 (その1)

この日の夕餉の仕度は自らキッチンに立つつもり。
食材の仕入れ先はJR御徒町駅前の「吉池」だ。
その前に遅めの昼餉。
久々に松坂屋裏の「蓬莱屋」を訪れた。
最後に来たのは2002年9月だから丸17年ぶりになる。

1週前、アメ横裏のマツコが居るとんかつ屋、
「まんぷく」の稿で宣言した通り、
上野とんかつ屋めぐりの一環である。

店先はしょっちゅう行ったり来たりしているので
懐かしさを覚えはしないが、やはり入店して
見覚えのあるL字形カウンターに腰を下ろすと
往時のことが思い出される。
その際、同伴した相手の面影すら偲ばれた。

「蓬莱屋」はとんかつでもヒレカツの専門店。
この店を生涯愛し続けたのが映画監督・小津安二郎だ。
彼の遺作となった「秋刀魚の味」(1962)には
佐田啓二と吉田輝男が相対し、
とんかつ屋で飲食するシーンがあるが
まるで「蓬莱屋」2階の座敷そのまんま。
ロケではなくセットでの撮影だけど、
二人が食べるとんかつは当日、
「蓬莱屋」から取り寄せたというから念が入っている。

佐田が妹・岩下志麻の縁談を
会社の後輩・吉田に持ち掛けると、
この直前に吉田は他の女性と言い交しており、
もっと早く言ってくれればと残念がる。
岩下ほどの美貌なら
約束相手を袖にしても振り替えそうなものだが
そんな不実など毛頭ないのが昔の人のいいところ。
いや、小津映画の美点と言うべきか―。

晩年の小津は盟友の脚本家・野田高梧とともに
蓼科高原にある野田の別荘で脚本の執筆に専念したが
仕事の合間にこんな戯れ歌まで作っている。

♪   雨の降る日の蓼科は
  薄ら寒さの身にしみて
  足を丸めて昼寝すりゃ
  とんとん とんかつ食いたいな
  蓬莱屋が懐かしや    ♪

好きだったんだねェ。

さて、現実に戻っておもむろに品書きを開いた。
ヒレカツ定食と一口かつ定食がともに2980円。
カツ&かつの不統一はたまたまなのか、
それとも意図するところか、客には判らない。

ん? なんじゃ、こりゃ?
五つの漢字に目を瞠った。

=つづく=

2019年10月17日木曜日

第2243話 わが心の町中華 (その2)

余命いくばくもない千駄木「砺波」。
グラスを傾けるたびに
思いはつのり、未練心に蹴つまずく。
かくして古く良かりし東京の灯がまた一つ消えゆくのだ。
嘆くべし。

焼き餃子はもっちりとした皮にややゆるめの餡。
別段、秀でるところなかりしが
実直な造り手が醸しだす味わいに奥行きがあり、
クラシックラガーの苦味にじゅうぶん対抗してくれる。

町中華としてちょいと高い値付けの酢豚(1100円)は
これ以上ないくらい、いかにもにっぽんの酢豚。
爺ちゃん・婆ちゃんから孫・ひ孫に至るまで
四世代が安心して箸の上げ下げにいそしめる一皿だ。

同世代のわれわれはここで清酒に移行した。
本来は紹興酒を欲するところなれど、
残念ながらここにはない。
清酒は灘の生一本・菊正宗、銘柄に不足なし。

五目上海焼きそばはフツーのあんかけ焼きそばに
いろんな具材がトッピングされている。
ラーメンが化粧直しして五目そばに変身した感じ。
食べ手はあまりうれしくない。
それでも仲良く分け合い、美味しくいただいた。

渋る相方をなだめつつ、
菊正のお替わりとお初のカニ炒飯を追加する。
はたして・・・
塩味薄き炒飯は糖尿病と闘う人が食べても問題なさそう。

当夜はこれにてお開きにした。
しかし、ここで年貢を納めるJ.C.ではなかった。
あと半月で「砺波」が幕を降ろすというある日。
台風一過の秋晴れのもと、
白字に赤く”味自慢 中華料理”と染め抜いた、
暖簾をくぐるJ.C.の姿があった。

Why? ってか?
Because, 当店のマイベスト・野菜そばを食べずんば、
どのツラ下げて界隈を歩くことができよう。
野菜そばは醤油ラーメンの上に
キャベツ・玉ねぎ・にんじん・もやし・きくらげなど、
サッと炒めた野菜を盛りつけたもの。
神奈川県のサンマーメンにちょっと似ている。

普段は残すスープをすっかりすすり終えた。
オバちゃんに感謝の言葉を捧げ、
長きに渡ってお世話になった、
わが心の「砺波」に別れを告げました。

「砺波」 令和元年10月末日最終営業
 東京都台東区谷中2-18-6
 03-3821-7768

2019年10月16日水曜日

第2242話 わが心の町中華 (その1)

自著「庶ミンシュラン」にあるように
東京における町中華の代表格として
こよなく愛し続けてきた昭和31年創業の「砺波」。

地番は台東区・谷中ながら
東京メトロ千代田線・千駄木駅より徒歩1分の至近。
駅前の団子坂下から団子坂とは
反対側の三崎坂(さんさきざか)の上り口にあって
千駄木「砺波」のほうが通りがよい。

先の参院選投票日だった。
投票を終えて立ち寄ったとき、
「高齢のため、10月末をもって廃業」の貼り紙に愕然とした。
誰かを誘ってしっかり食べにゃならん、
そう思ったものだ。

9月初旬、実際に観たわけじゃないが
BS-TBSの番組、「町中華で飲ろうぜ」で
玉筋のヤツが「砺波」を紹介しちまったらしい。
まったく余計なことをしてくれたものよのぉ。

体力の衰えを理由にリタイアする老夫婦の店に
番組を観たオジャマ虫がウンカの如く押し寄せ、
今では行列まで成す始末。
これじゃ、年寄りに対するイジメどころか拷問だぜ。
かく言うJ.C.も閉じる前に最低2回は
オジャマしようと企んでるからウンカの1匹だ。
いや、ツレを含めて2匹になるネ。

ただし、われわれはTVにツラれた、
にわかグルメなんかではけっしてない。
根っからの愛好者、それこそ玉筋入りの、
もとい、筋金入りのファンなのだ。

そうしてこうして行列のできる前。
夜の営業が始まる17時ちょうどに赴いた。
相方は文京区在住で、やはり「砺波」ファンのY澤サン。
「すでにご存じでしょうが『砺波』が廃業しちゃいますヨ」-
親切なメールをくれた御仁だ。

当店にはこれしかないビール、
キリンクラシックラガーで乾杯。
この状況を見越して出掛ける直前、
自宅の冷蔵庫から取り出した、
愛飲銘柄のロング缶を飲ってきた。
もちろん、つまみなんか食べてない。

通した料理は、餃子・酢豚・五目上海焼きそばの3品。
ここへ来るのはだいたい昼過ぎだから麺類が多く、
一品料理はほとんど試していない。
アサヒかサッポロがあったら晩酌にも利用したのになァ。

=つづく=

2019年10月15日火曜日

第2241話 ”町中華”の名付け親は誰? (その2)

ここ数年、スローリィ、バット・シュアリィ、
食いしん坊の間で見直され、人気を高めている町中華。
”町中華”の字ヅラを眺めているうちに
何とも不思議な思いが脳裏をかすめてくるが
いったい、誰が名付けたの?
どこのどいつが言い出したの?

わが家の書架に並んでいた1冊、
いわゆるグルメ本の類いに
”町中華”の文字を発見したのだった。
発行日は平成21年、5月5日のせいくらべ。
2009年だから令和元年の丸10年前で
「町中華探検隊」の動画アップが開始される5年前だ。

肝心の書籍名は「庶ミンシュラン②」(グラフ社)。
気になる著者名はJ.C.オカザワときたもんだ。
なあ~んだ! ってか?
へへ、事実だからしょうがあんめェ。
この1年前に発行された「庶ミンシュラン①」だと、

=町中華=
中華オトメ
砺波
百亀楼

では全然なくて

=中華そば=
砺波

ただ、それだけだった。
さすれば、J.C.の頭に町中華の文字が
飛来したのは2008~9年の間だ。
町中華は「庶ミシュラン②」により、
初めて他中華料理とジャンル分けされ、
活字になったものと思われる。

改訂にあたり、担当編集者のF元さんに
ジャンル名として町中華を持ち出したとき、
彼女の反応は
「エッ? 町中華ですか?」-
あとに続く(ナンすか、ソレ?)を
あからさまに飲みこんでたネ、ハハハ。
しかしながら、難色を示すでもなく、
ワケを説明したらすぐに納得してくれた。

J.C.にとって町中華とは
イラサマセ~系中華の対極にあるもの。
そして三大必須メニューは

① 中華そば ② 炒飯 ③ 野菜炒め

中華そばが支那そばならなおいいし、柳麺の表記も好きだ。
ひるがえって餃子にはちっとも固執しない。

てなこって、町中華の名付け親・・・
というのは、さすがにおこがましいが
言い出しっぺは、J.C.でいいんじゃないかな?
もっとも世に広めたのは前述の北尾トロさんだろうネ。
おそらく彼の頭にも似たようなひらめきが
ヒットしたことでありましょう。