2015年8月10日月曜日

第1160話 池波翁の「銀座日記」 (その7)

作話のつづき。

夜は雨になる。
十時すぎ、床へ入り、ぐっすりと眠った。
きょうは、午前十時に迎えの自動車が来て、上田市へ行く。
旧知の人々と会い、用件をすませ、
[刀屋]という、古いなじみの蕎麦屋へ寄って、
みんなと食べたり飲んだりする。
五時四十分の列車で帰京。
東京は激しい雨だったが、間もなくやむ。

長野市生まれのJ.C.にとって長野はもちろん、
上田も想い出の詰まった土地。
[五明館]の洋食・アイスクリーム、
[刀屋]の蕎麦・天ぷら、忘れ得ぬ味覚をこの舌が覚えている。

(冬の頭痛)

昼ごろ、銀座を出て[共栄]のチャーシューメンを食べてから
ヤマハ・ホールで[コーラス・ライン]の試写を観る。
[ルノアール]で毛のスポーツシャツ、
[ヨシノヤ]でゴム底の靴を買ってから、国電で目黒へ行き、
久しぶりで[とんき]のうまいロース・カツレツを食べる。
二年ぶりだが、店内の清潔さとサービスのよさは
以前と少しも変わらぬ。
酒一本に御飯二杯、みやげに串カツレツを二人前、合計二千六百円。
この店は、
まさに東京が誇り得る[名店]だとおもう。

意義あり。
目黒の[とんき]はそこまでのとんかつ屋ではけっしてない。
これはわざわざ都外から訪れる方の落胆を未然に防ぐがための苦言。
揚げられたロースはパサパサだし、
真っ黒に劣化した揚げ油は著しく食欲をそぐ。
清潔な白衣に身を包む老若の乙女(?)たちには
敬意を表するところ大なれど、
とんかつのマイナス材料を補うまでには至っていない。

冒頭のチャーシューメンにしても
供する店舗は[共栄]ではなく、[共楽]の間違いだろう。
中央競馬会・馬券売り場の隣りに位置する、
小さな店が作るラーメンとチャーシューメン、
それに今の時期なら冷やし中華、そのどれもがおいしい。
名店とはいかずとも、佳店であることに異論をはさむ者はいまい。

カツレツ、とんかつ、焼きそば、炒飯、
脂っこいモノが大好きだった池波翁。
”食”にまつわるエッセイは数あれど、
彼の味覚に鋭さはまったく感じられない。

取り巻いた編集者に罪がなくもないが
翁自身の筆は舌を補って余りあるものがあった。
”筆舌につくしがたい”とはこのことを言うのであろう。

=つづく=