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2024年10月10日木曜日

第3642話 「点と線」の 帰りに買った「点と線」

新丸ビルの「ポワンエリーニュ」から
隣りの丸ビルに移動してTSUTAYAへ。
購入したのは前にも読んだ、
「点と線」(新潮文庫)だ。

あれは中学三年の修学旅行。
新幹線じゃなかったと思うが
特急だか急行だかの列車名は忘れた。
東京駅を出発してすぐに読み始め、
京都着のちょい前に読了した。

文芸評論家・平野謙が解説に書いている。
この小説にはキズがあるとー。
4分の間に犯人は二人の仲居を伴って
13番フォームに立たねばならず、
さらには一組の男女を15番フォームに
立たせねばならない。
非常に困難で、それがキズだと仰る。

J.C.思うに、女のことだから
「ちょっと私、おトイレ!」
なんてなったらすべてがパーだ。
さらに国鉄のダイヤは正確といっても
多少のズレだって考えられるだろう。
すべてが最初に4分間ありきで
ストーリーが進み、あちこちムリが生じて
キズだらけなのである。

何もわざわざ北九州までガイシャを
連れて行かなくともいいもんだが
旅行雑誌「旅」の連載小説だから
清張センセがサービス精神を発揮するのも
当然の成り行きなんだろう。

犯行現場は北九州・香椎の海岸。
心中に見せかけた男女の遺体が横たわる。
実は J.C.、この現場に立ってみたかった。
よって博多旅行の際、行ってみた。
二組の男女よろしくJR香椎駅から
西鉄香椎駅を経て海岸へ歩いた。

ところがどっこい、どこまで行っても
海岸にたどり着かないんだ。
今世紀初めだったから四半世紀も昔だが
すでに埋め立てが進んでいた。
’57年発刊の原作にもこうある。

西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、
歩いて十分ばかりである。
駅からは寂しい家なみがしばらく両方につづくが、
すぐに切れて松林となり、
それもなくなってやがて、
石ころの多い広い海岸となった。
この辺は埋立地なのである。

何てこったい!
心にシラケ鳥を飛ばせたまま博多に戻り、
屋台のヤケ酒をあおったのでした。

2017年9月22日金曜日

第1706話 松本清張を読み返す

ここ数週間、松本清張をしきりに読んでいる。
再読の作品もるが、ほとんどは初読である。
「半生の記」、「影の車」、「途上」、「鬼火の町」、
「不安な演奏」、「喪失の儀礼」と、
エッセイ、連作短篇、短編集、推理モノ、時代モノ、
何でもアリだ。

しっかしねェ、「半生の記」をのぞいて
厳しく評価すれば、凡作、駄作の山であった。
過半が昭和30年代半ばに書かれたもので
作者は多忙を極めていた時期である。

昭和20年代半ばに「西郷札」、「或る『小倉日記』伝」で
文壇に登場した清張だが
広く世に知られ、読まれるようになったのは
昭和32年に発表された社会派推理小説の嚆矢、
「点と線」以降であろう。

連載を何本も抱えて締切に追われ、
推敲が浅く、文体もザツで
キズや欠点だらけの作品が量産されてしまったわけだ。
そんなこんなを考慮しても読み手には不満が残った。

共通するのはオチの稚拙さ。
その点、池波正太郎、藤沢周平、山本一力、浅田次郎など、
そのときどきの流行作家にキズはほとんど見られない。
清張の作品群が他山の石として効能を発揮したのかもしれない。

直近、手に取った「不安な演奏」と「喪失の儀礼」はともに
布田や調布、そして深大寺など
西東京エリアが舞台となっている。
新宿―八王子間を結ぶ京王線沿線の土地である。

わが身を振り返ってふと思ったのは
京王線を利用する頻度がずいぶんと低いことだった。
同じ新宿起点の小田急線と比較してみたら
その差は歴然であった。

深大寺が舞台となると、
第一感は原作・映画ともに気に入りの「波の塔」。
ヒロイン役の有馬稲子、脇の桑野みゆき、
どちらも大好きな女優だからネ。

そうだ!
調布・布田界隈を歩いてみよう。
歩くといっても居心地よさそうな酒場の探訪が
第一の目的だが、とにかく行ってみよう。
そう思って東京都23区のシティマップル、
その巻末にある首都圏鉄道路線図を開いた。
不満の残った清張作品ながら
ここに怪我の功名が生じたのだった。

2015年9月7日月曜日

第1180話 池波翁の「銀座日記」 (その27)

1ヶ月以上に渡って読み進めてきた翁の「銀座日記」もいよいよ大詰め。
最終章、(舞台の鬼平)をつづける。。

去年の日記を読み返してみると、まだまだ元気で、
一日二食だが欠かさずに食べている。
そのかわりに、家人が重症の拒食症になってしまい、
(これでは、来年が持つまい)
と、おもっていたが、今年になって、私が同じ症状になってしまったのである。
拒食症というのも、辛いものだ。
やせおとろえて体力がなくなり、立ちあがるのにも息が切れる。
ま、仕方がない。
こんなところが順当なのだろう。
ベッドに入り、いま、いちばん食べたいものを考える。
考えてもおもい浮かばない。

この文章で、「銀座日記」は結ばれている。
池波正太郎の絶筆と断じてもよいのではないか。
亡くなったのは1990年5月3日未明、享年67歳。
病名は拒食症なんかではなく、急性白血病であった。
5年前の1985年には夏目雅子が同じ病気で亡くなっている。
女優の享年は27歳、若すぎる。

食欲がなくなったり、些細なことで息が切れたり、
たびたび転倒したり、これらはすべて病のせい。
好きだったビールがノドを通らず、
酒をほとんど飲めなくなってしまった。
そのワリに食べるほうは最晩年までなんとか継いでいけている。

長すぎたこのシリーズの締めくくりに
翁が好んで訪れた飲食店を地域別にリストアップしてみよう。

=銀座=
 楼蘭 煉瓦亭 新富寿司 みかわや 清月堂 凮月堂

=有楽町=
 やぶ 慶楽

=京橋=
 与志乃 ドゥ・ロアンヌ

=日本橋=
 野田岩 たいめいけん

=淡路町=
 まつや 竹むら

=神保町=
 揚子江菜館 松翁

=駿河台=
 てんぷら山の上 新北京

=築地=
 かつ平

=目黒=
 とんき

鮨・天ぷら・うなぎ・カツレツ・中華、
脂っこい食べものが大好きだったんですねェ。
それはそれとして
長いこと、おつき合いくださり、ありがとうございました。

=おしまい=

2015年9月4日金曜日

第1179話 池波翁の「銀座日記」 (その26)

「銀座日記」を読んでいて、気が滅入るのはこちらのほうである。
食欲が失せて目方が減り、心細さを嘆く翁が気の毒でならない。
(舞台の鬼平)を続ける。

一日中、ミゾレまじりの雨となる。
出るのをやめようとおもったが、
おもいきって、地下鉄で歌舞伎座の[鬼平犯科帳]を観に行く。
出てしまえば、さして寒くないのだ。
私が[鬼平ー狐火]の脚本を書いたのは、二十二年も前ののことで、
いうまでもなく、先代の幸四郎(白鸚)さんのテレビの鬼平が
大好評であったことから、東宝(当時、白鸚さんは東宝にいた)が
明治座の舞台にかけたのである。
いまの幸四郎、吉右衛門は盗賊の狐火兄弟を演じた。
今回は、八十助と歌昇が演じて、なかなか、よかった。

外へ出て、何を食べようか、と考える。
迷うことなく、[新富寿司]へ行った。
食べられるかどうかとおもったが、ぺろりと食べてしまう。
こういうときは握り鮨にかぎる。
[清月堂]でコーヒーをのんでから、[凮月堂]へ寄り、
アイスクリームとシャーベットを買って帰る。
あまりに疲れたので、タクシーを拾い、帰る。

そうですネ、食欲を失ったときはにぎり鮨にかぎりますネ。
何十年も以前、知り合いの幼女の入院先に
鮨の折詰をぶら下げて見舞ったことがあったが、折を開いた瞬間、
その子の瞳がパッと明るくなって輝いたのをよく覚えている。
その食味のみならず、見た目の美しさ、華やかさが
江戸前鮨の魅力なのだろう、いや、魔力と言いきってもよい。

よく友人・知人から、[凮月堂]の”凮”の字は
どうしてフツーの”風”の字じゃないの?
こう訊かれることがある。
答えは
”風”には”虫”の字が入っており、
お菓子の中に虫が入っちゃ、具合が悪いからである。

午後になって、少し足を鍛えようとおもい、地下鉄の駅まで行く。
往復四十分。
息が切れて、足が宙に浮いているようで、危なくて仕方がない。
いろいろな人から入院をすすめられているが、いまは入院ができない。
また、入院したところで結果はわかっている。
夜は、家人が所用で出かけたので、
鳥のそぼろ飯を弁当にしておいてもらい、食べる。
やはり、半分も食べられなかった。
今夜は[鬼平犯科帳]の最終回、九十分の長篇。
鬼平の[大川の隠居]と[流星]を一つにしたものだが、
脚本よろしく少しもダレなかった。
評判がよかったので、また三月から撮影をするらしい。

自宅やホテルの部屋で何度も転倒しているのに
40分の散歩は無謀きわまりない。
おそらくこれが人生最後の散歩だったと思われる。

=つづく=

2015年9月3日木曜日

第1178話 池波翁の「銀座日記」 (その25)

このシリーズも綴りに綴って、いよいよ(その25)まできてしまった。
しかし、まだ終わらない。
いましばらくのおつき合いをー。

(舞台の鬼平)

六十七歳の誕生日なり。
義姉と二人の姪が、鯛一尾を祝いに持って来てくれるというので、
第一食は、もりそばのみにしておく。
編集関係の新年挨拶が、そろそろ、やって来はじめる。
私は十二月に休んで、正月は元旦から仕事をする。
それをわきまえているので、新年は、編集者が、ほとんどあらわれない。
夕飯、姪が大きな鯛を持って来る。
第一食をひかえておいたので、旨かった。

一昨日から山の上ホテルへ来ている。
毎日、曇っていて寒い。
昨日は、天ぷらコーナーへ行き、
いろいろと食べたが、やはり食欲が出ない。
すっかり、やせてしまった。
仕事もせず、のんびりホテルに泊まっているように見えるが、
もう、そろそろホテルへ一人で泊まることも
むずかしくなってきたようにおもう。
二度も三度も、部屋の中で転倒する。
足がすべるのだ。

新潮社の相談役、佐藤俊夫氏が先月に亡くなり、
その葬儀が青山斎場でおこなわれる。
私は冠婚葬祭に出なくなってしまったが、きょうだけは別だ。
帰宅して、今夜は、手製のチャーシュウをつくらせる。
うまくいかなかったが、努めて食べる。
毎日のように体重が減っていくのが心細い。
今夜は二度も、書斎の中で転倒し、腰を打った。

ごく普通の室内生活をしていて
何度も転ぶようになってしまってはもうダメだ。
読んでいて余命いくばくもないことを感じてしまう。

きょうはコロムビアの試写があったので、
行くつもりだったが出そびれてしまう。
私の出不精は、いよいよ本格的なものになってきた。
何を食べても旨くない。
体重が減って、まことに心細い。

毎日、鬼平犯科帳を少しずつ書きすすめている。
気が滅入るばかりだ。
今月は歌舞伎座で吉右衛門が[鬼平]を演っているので、
ぜひとも行きたいとおもっている。
だが行けるか、どうか・・・。
それほど、私の外出嫌いは重症になってきている。

=つづく=

2015年9月2日水曜日

第1177話 池波翁の「銀座日記」 (その24)

引き続き(テレビづけの正月)

昨日、第一食は鳥南ばんを食べて、
久しぶりに山の上ホテルへ行く。
年末は数日、何処かへ行っていないと家の女たちが困る。
大掃除をするからだ。
夜テレビで、大岡政談[魔像]を、杉良太郎が演(や)る。
これを大河内伝次郎の主演で観たのは、
まだ私が小学生のころだった。

快晴の朝、ホテルに近いうどんや[M]へ行く。
きょうはあたたかい山かけそばにする。
それから散髪。
やはり行きつけの床屋がよい。
夜はホテル内の天ぷら。
昨日は、あまり食べられなかったが今夜は、
コースをほとんど食べられた。
突き出しの白魚をさっと煮たのがよかった。
これほどに食欲があると自分でも安心をする。

うどんや[M]は駿河台に近い猿楽町にある[松翁]のこと。
古くから行きつけた神田須田町(旧連雀町)の[まつや]ではない。
[松翁]はうどんも供するがメインは蕎麦だ。
「銀座百点」の読者には[松翁]を[まつや]と
取り違えている向きが相当数いるのではないか。
J.C.は蕎麦そのものも、店内の雰囲気も、[まつや]のほうがずっと好き。
数年前に失火で焼け、再建された近隣の[かんだやぶそば]よりもなお、
[まつや]を愛好している。

平成二年の元旦、快晴なり。
朝、入浴をする。
例年のごとく、雑煮とおせちの第一食。
夜は、亡師・長谷川伸の原作による[荒木又右エ門]を
テレビでやったので、二時間余もかかって全部観る。
原作は時代小説のドキュメントのおもむきをそなえた傑作だが、
テレビ化にあたって、これを忠実に構成化し、
すばらしい出来栄えとなった。
主演の仲代達矢以下、出演の人びと、いずれも気が入っていて、
ことに平幹二朗、緒方直人の河合父子が最後の別れをするシーンなどは、
両人とも、本当の泪が出たほどだった。
原作のちからだ。
吉右衛門の語りも荘重でよかった。

きょうもテレビを観る。
十二時間もかけての[宮本武蔵]つづいて[緋ぼたんのお竜]を観て、
一日、つぶれてしまう。
やはりテレビはクセになる。
つとめて観ないようにしてはいるのだが・・・。

テレビづけといっても商売柄か、
ご覧になっているのはもっぱら時代劇ばかり。
でも、その気持ちはよく判ります。

=つづく=

2015年9月1日火曜日

第1176話 池波翁の「銀座日記」 (その23)

さらに(体の精密検査)の稿。

昨日から、山の上ホテルへ泊まっている。
きょうは所用をすませてから、地下鉄で銀座へ出る。
先ず、試写で観なかった[ブラック・レイン]を、日劇プラザで観る。
日米の俳優と大阪ロケによるアメリカ映画。
いま人気上昇中のマイケル・ダグラスと、わが高倉健の共演である。
監督は[エイリアン1]のリドリー・スコット。
高倉健は十五年も前に、シドニー・ポラック監督で、
大物スター、ロバート・ミッチャムを向うにまわし、
任侠道に生きるやくざを演じた、というキャリアをもっている。
[ザ・ヤクザ]である。
映画は成功というわけにはまいらなかったが、高倉のやくざはよく、
いまだに、決闘シーンのあざやかさが目に残っている。

[ブラック・レイン]は1989年にニューヨークで観た。
確かに健サンと、これが遺作となった松田優作が
マイケル・ダグラス&アンディ・ガルシアを食っていた。
食ったどころか、優作はアンディをなぶり殺しにしちゃったもんネ。
この映画を観たニューヨーカーの同僚たちは異口同音、
優作の狂気じみた惨酷さを語ることしきりだった。

[ザ・ヤクザ]は1975年(もう40年も以前なんだ!)にロンドンで観た。
やくざのしきたりにのっとって、ミッチャムが小指をツメるシーンは
ロンドナーの失笑を買ってしまったけれど、
なかなかに楽しめる作品だった。
あちらの映画誌にも”ラストのエンカウンターは必見!”とあった。
何たって、健サンの見せどころは
「昭和残侠伝」に代表される”討入り”であろうヨ。
翁は”決闘”とおっしゃるが、アレは”決闘”じゃなくて”討入り”。
最後通牒とてなく、いきなり殴り込むんだからネ。

(テレビづけの正月)

毎朝、焼穴子を食べている。
きょうは午後になって、今年、死去した友人・井手雅人の次女、
和歌子ちゃんが訪ねて来る。
顔つきばかりか、しゃべり方まで、井手君そっくりだ。
夜は、けんちん汁に牛肉のすき焼き。
ともかく寒くて身うごきもならぬ。
炬燵へ入ったら最後、もう出られない。
それにカレイの煮付けと柚子切りそばで夕飯。

食欲が失せた、というわりにはかなり食べてますなァ。
第一、けんちん汁とすき焼きを同時に食べるかネ。
挙句はカレイの煮付けときたもんだ。
変わりそばの柚子切りで締めるのはヨシとして
どちらも甘辛醤油味のすき焼きとカレイの煮たのを
一緒に味わう突飛な技には唖然とする。
こんなマネは凡人にゃ出来っこないぜヨ。
びっくりしたなァ、もう!

=つづく=

2015年8月31日月曜日

第1175話 池波翁の「銀座日記」 (その22)

松茸が大好物の翁であった。
韓国産もじゅうぶんに美味しいらしく、満足しておられる。
(女の猿まわし)の稿をつづけよう。

きょう新聞に、熊本のOLで二十七歳になるW・Mさんのことがでていた。
大手化粧品の会社に七年もいたW・Mさんは、
おそらく仕事に飽きてしまったのだろう。
突如、猿まわしになった。
そして、いま、熊本の、ある村にオープンした
[猿まわし劇場]の前座をつとめているそうな。

「キョロキョロせんで、自分で、しっかり立ってみい」とか、
「何やってるんだ、お前は。もっと足にちからを入れるんだよ」
などと、コンビの猿・じゅん君を叱り、
芸をおぼえさせるW・Mさんの声は女のものとはおもえぬほど野太い。
オスの猿は、婦人の猿まわしをなめてかかるという。
この七ヶ月でW・Mさんは三度も喉をつぶしたそうだ。
写真も出ていたが、現代の若い婦人としては、
まことにユニークな転身ではないか。
むろん、動物好きなのだろうが、
こういう記事を新聞で見ることは、何だかたのしいおもいがする。
厳しく猿を叱りつけながらも、見る眼には愛情がこもっている。
これを、この世界では「鬼面の愛」というそうである。

おやおや、ずいぶんと惚れ込んだものである。
老いた身体に俗世の世知辛さだけが迫り来る心境の翁には
女性の猿回しが一服の清涼剤になったのでしょう。
確かに微笑ましいものがある新聞記事ではありました。

(体の精密検査)

昨日は朝六時に起き、十時までに三井記念病院へ行く。
部屋は個室で、この前に入院したときと同じ部屋だった。
眼・歯・心臓の再検査。
やはり、年齢相応に少しずつ悪いところも出てくる。
仕方もないことだ。
この病院の食事はよいほうだということだが、やはり旨くない。
見舞客用のグリルでオムライスをこっそり食べる。

所用があるので午前十一時に退院する。
婦長が来て、数種類の薬を持たせてくれる。
帰宅して干し蕎麦をあげさせて食べる。
旨い。
何を食べても旨い。
夜は、おでんと茶飯。
ベッドへ入り、ぐっすりと眠る。
やはり、疲れていたのだろう。

ハハハ、お茶目ですねェ。
オムライスをこっそり・・・といっても有名人の翁のこと、
みんなに見られて、当然、医師たちにも報告がいってるだろうにー。
悪戯(いたずら)を隠しおおせたと、
一人合点しているところが何とも子どもっぽくてカワゆい。

=つづく=

2015年8月28日金曜日

第1174話 池波翁の「銀座日記」 (その21)

日記の文中、[R]とあるのは銀座四丁目、
中央通りに面した、コアビル楼上の「楼蘭」のこと。
翁はこの店の焼きそばと春巻にはぞっこんだった。
かく言うJ.C.もここの什錦湯麺(五目そば)は好物。
銀座随一の中華麺だと思う。

それにしても熱帯夜に苦しんで眠れず、
仕方なく窓を開け放つとは、いったいどんな住宅環境下に
身を置いていたのだろう。
老人特有のエアコン嫌悪症候群に
とりつかれでもしていたのだろうか。
もしも酷暑に寿命を縮められたのだとしたら、非常に残念なことだ。

歯科医へ行く。
今度はよいとおもったが、帰宅して、物を口に入れてみると、
やはり、どこかちがう。
噛みにくい。
うんざりする。
外は目がくらむような猛暑。
その中を旭屋書店へ行き、マクベインの[カリプソ]と
シドニイ・シェルドンの[裸の顔]二冊を文庫本で買う。
寝しなに読む本がなくなってしまったのだ。
食欲がなく、体重二キロ減る。

今夜は、近くの家で夜半すぎまで、男女の高声、高笑いが聞こえ、
戸を開け放したままだから、モロに、こちらへつたわってくる。
午前一時になって、ようやく癒(や)む。
ガラス戸のところに寝ていた猫が、
おどろいて逃げるほどだから車輛の響音よりひどい。

何日か前にロース・カツレツや中入れ鰻丼を完食していながら
”食欲がない”もないもんだが
やはり年寄りの体調は、その日その日の日替わりなのだろう。

翁自身も愛読していた永井荷風のやはり日記文学、
「断腸亭日乗」の最晩年には毎日のように”午後浅草”の文字が見える。
荷風が浅草公園なら、池波は銀座の歯科医ときたもんだ。
近所の家の嬌声に悩まされるところなど、
隣家のラジオの騒音に辟易(へきえき)した荷風をしのばせて
おもわずクスリと笑っちまったぞなもし。

(女の猿まわし)

昨日、家人がデパートで韓国の松茸を買って来たので、
朝は松茸の炒飯にする。
旨い。
午後は歯科医行。
毎日、暑い。
熱帯夜がつづいている。
今夜は、ことにひどい。
夕飯は、家へ帰って、松茸のフライ。
旨い。
きょうは食欲が出た。

=つづく=

2015年8月27日木曜日

第1173話 池波翁の「銀座日記」 (その20)

亡くなる前年の夏には「野田岩」の中入れ丼を平らげていた池波翁。
中入れ丼というのはごはんの上に通常通り、蒲焼2切れ(1尾分)。
加えてごはんの中にも1切れ(半尾分)ひそませた、
豪華版で食べ出もじゅうぶんだ。

J.C.にはとても食べきれるものではなく、
ハナから注文する気などさらさらない。
1尾でも多いくらいだから晩酌のあと、
ドンブリ5~6分目のごはんにうなぎ半尾がちょうどよい。
それもアッサリめのシモ(下半身)がいいな。

これは鮨屋、あるいは天ぷら屋の穴子にも言える。
あまり食べつけない鱧(はも)は知らないが
うなぎも穴子もデリケートな下半身が好きだ。
人間のオンナも下半身が好みだろ! ってか?
いえ、いえ、女性はやはりお顔の付いてる上半身でしょう。
そいでもって、たまにチョコッと下半身のお世話になるのが好手でしょうヨ。

ヨタ話はこれくらいにして、翁のことだ。
何も銀座から日本橋までうなぎを食べに出向き、
そのあとすぐ銀座四丁目の和光にとんぼ返りしなくてもねェ。
銀座には和光のはす向かいに「竹葉亭 銀座店」があるじゃないの。
J.C.は「野田岩」より「竹葉亭」を推したい。

なぜか?
まず第一に「竹葉亭」にはうなぎのほか、鯛茶漬けと鮪茶漬けがあり、
どちらもなかなかの美味しさを誇っている。
第二に料理も酒も割安感に勝っている。
数日前、久しぶりに訪れ、あらためてその感を強くしたところだ。

真鯛の刺身をおかずに温飯(ぬくめし)を食べるのが大好きだった翁、
「竹葉亭本店」には行っているのに
どうして銀座店を利用しなかったのだろうか。
おそらく”茶漬け”の文字に惑わされたのだろう。
この店の鯛茶漬けをいきなり茶漬けで食べる客などいない。
まずは胡麻だれに漬かった真鯛の刺身で温飯をいただくのだ。
J.C.など最後まで付き添いのほうじ茶を使わぬくらいである。
翁はそのことに思いが至らなかったものとみえる。

日記に戻ろう。
いまだに(夏のロース・カツレツ)のつづき。

午後から銀座の歯科医へ行く。
おもいの外、早く終ったので、久しぶりに東和の試写室で
[想い出のマルセイユ]というイヴ・モンタンの映画を観る。
モンタンの半生をミュージカルにしたもので、
アメリカのミュージカルとは違う、いかにもフランス風のレヴュー感覚。
何ということはないが、七十に近くなってから、
初めての我子をもうけたモンタンが元気一杯で、
気楽に、たのしげに演じている。
この暑いときに、老いたモンタンの若々しい姿を観るのはたのしかった。
終って、久しぶりに[R]へ行き、春巻二本、エビの焼きそば。
口に慣れた味だから、安心して食べる。
夜は熱帯夜となって、なかなか寝つけない。
仕方なく、窓を開け放ち、ようやく眠る。

=つづく=

2015年8月26日水曜日

第1172話 池波翁の「銀座日記」 (その19)

翁の「銀座日記」、(夏のロース・カツレツ)のつづき。

うすぐもりで風もあり、歩きやすい。
昨日も銀座へ行き、歯の治療。
終って[みかわや]へ行く。
ポーク・カツレツ、御飯、サラダ。
前から考えていたのだが、この店のロース・カツレツは
ロースの脂がたっぷりついていて、
むかしの洋食屋のそれを略(ほぼ)再現している。

きょうは、つづいて歯科医院へ行き、
終って、久しぶりに高島屋楼上[野田岩]の、中入れ鰻丼。
うまい。
鰻は、ここに限るとまではいわぬが何といっても行きやすい。
地下鉄で銀座に引き返し、和光へ行く。

何だかんだ言いながらもそこは健啖家、
けっこうしつっこいものを盛んに召し上がっているではないか。
J.C.も[みかわや]のロースカツは大好きだ。
同好のよしみで
とんかつよりロース・カツレツと言い張る翁の気持ちがよく判る。

日本橋・高島屋4階の特別食堂内にある、
[野田岩]もかつて盛んに利用した。
金融界に身を投じた1980年頃はオフィスが芝の神谷町にあったので
東麻布の本店をよく訪れたが日本橋本石町に移転してからは
高島屋店のお世話になった。
2005年7月に上梓した「J.C.オカザワの下町を食べる」から
その稿を紹介してみよう。

=多国籍軍の勝利=

改装のかいあって高島屋のレストランは実に充実している。
都内のデパートでは随一といってよい。
どこにでも入居するつまらん店舗ばかりの三越新館よりずっといい。
「お好み食堂」、地下のレストラン街、ロブションの「サロン・ド・テ」、
数あるうち、ベストがこの「特別食堂」。
料理の質、居心地のよい空間、快適なサービス、非の打ちどころがないが
強く推す理由は一つのテーブルで和食・うなぎ・仏料理を
同時に味わえるその多国籍性だ。
そのためにも単身で訪れてはつまらない。
カップルでも不十分、気の合った仲間や家族で出かけるのが正解だ。

食堂内の「帝国ホテル」では
仔牛のカツレツ・コルドンブルー風とコンビネーションサラダ。
ハムとチーズをはさみ込んだカツレツにはドミグラソース、
ガルニテュール(付合わせ)も丁寧で美味しい。
サラダのドレッシングもさすがに高級ホテルの底力を発揮している。
「大和屋 三玄」は三玄弁当。
あんかけの炊合わせと、おぼろ昆布にすり身団子の吸いものが秀逸だ。
「五代目 野田岩」のイチ推しは志ら焼丼。
磁器のどんぶりがいいし、本わさびはたっぷり。
クドさを和らげる大根おろしもありがたい。
東麻布の本店には及ばぬものの、
ある日、いかだ蒲焼定食にありつけて、ささやかな幸せを感じた。

実際、都内の百貨店にここ以上の食事処はありませぬな。

=つづく=

2015年8月25日火曜日

第1171話 池波翁の「銀座日記」 (その18)

本当にカツレツは翁の大好物。
三日と空けずに賞味しているものなァ。

そして、なおも(真夏のロース・カツレツ)

先日から銀座の歯科医院へ通っている。
きょうも行く。
すぐに終わったので、神田の床屋へ電話をかけておいて、
タクシーで神保町まで行く。
散髪をすませ、近くの[揚子江菜館]へ寄り、
五目冷し中華そば食べ、シューマイをみやげにしてもらう。

ひや麦・そうめんはもとより、
冷やし中華のお世話になる季節の真っただ中。
そうそう、冷やし中華とといえば、
先週金曜日の朝日新聞朝刊に、発祥の店、2軒が紹介されていた。
仙台市・青葉区の「龍亭」と
翁の御用達、東京都・千代田区の「揚子江菜館」である。

どちらもいただいているが、迷うことなく「龍亭」に軍配。
それもかなりの大差があった。
この夏の甲子園の準決勝、
仙台育英と早稲田実業の7-0ほどではないものの、
4-1くらいの開きはじゅうぶんにあったネ。

昨日から、台風十三号が接近しつつある。
このため、風雨が強くなる。
テレビをつけたら、十六年前に観た[愛の嵐]をやっていた。
観るともなく観ているうちに、我知らずひき込まれて、
ついに終りまで観てしまう。
ダーク・ボガード、シャーロット・ランプリングの両主演者、
リリアーナ・カヴァーニの監督。
三拍子そろった佳作で、ランプリングのみずみずしさにおどろく。
彼女は二十七歳だったのだ。
十数年ぶりに再会した、元ナチスの親衛隊員とユダヤ人の美少女が、
ナチズムの執拗な手によって、つけねらわれる悲劇。
舞台背景はウィーンで、この時代には、
こうしたテーマが精彩をはなっていたのである。

「愛の嵐」(原題:ザ・ナイト・ポーター)は大好きな作品。
翁が指摘するごとく、ランプリングが本当にすばらしい。
イギリス人の彼女の父親はベルリン五輪(1936年)における、
陸上競技、1600mリレーの金メダリスト。
その血筋を引いているためか
痩身にしてしなやかな肢体の持ち主である。

ランプリングの容貌は英国人というよりもドイツ人、
あるいはオーストリア人を偲ばせる。
画面に流れる退廃的なエロスは欧州の匂いに満ちて、
とても米国の女優が醸し出せるものではない。
ルキノ・ヴィスコンティが絶賛したという「愛の嵐」であった。

=つづく=

2015年8月24日月曜日

第1170話 池波翁の「銀座日記」 (その17)

(吉右衛門の”鬼平”)のつづき。

きょうは、うすぐもりで雨は降らなかったので、散歩に出る。
まったく久しぶりのことだが、
何といっても足がおとろえてしまって、これではどうしようもない。
自動車がまったく通らぬ、私の大好きな、
H薬科大学の裏道を往復すると約二十分弱。
これでは少し足りない。
そこで大通りに出ると、大小の車輛が押し寄せて来て、
排気ガスがたちこめ、胸が悪くなる。
我慢して二十分ほど歩き、帰宅する。
少しでも歩いた所為(せい)か、気分はよい。
明日も歩くつもりなり。
夕飯は、到来物の加茂茄子の味噌かけ。
旨かった。

四度目の[鬼平犯科帳]テレビ化で、第一回を観る。
今回は中村吉右衛門の平蔵で、
これを実現させるのに五年ほどかかった。
プロデューサーの市川久夫さんも、よくねばってくれた。
吉右衛門の鬼平は、第一回のときの父、
松本白鸚(当時は八代目幸四郎)に風貌が似ていることはさておき、
実に立派な鬼平で、五年間、待った甲斐があったというものだ。
しかし、この五年間に激しく時代は変わった。
映画もテレビも、時代劇がどんなものか忘れてしまった。
だから、吉右衛門、中村又五郎をのぞいて下の傍役が、ひどく落ちる。
これは仕方のないことだろう。
回数が進むにつれ、スタッフもよくなってくれるだろうと、期待する。
テレビが終わってすぐに、吉右衛門さんから電話がある。
労をねぎらい、原作者として満足したことをつたえる。

H薬科大学は品川区荏原にある星薬科大学。
池波邸は大学の近所のハズで察するに、最寄り駅は
東急目黒線・不動前か、東急・池上線戸越銀座ではなかったか・・・。

確かに”新鬼平シリーズ”における吉右衛門の存在感は
他者を睥睨、凌駕すること圧倒的。
松平の健チャンにゃ悪いが、「鬼平」を観てしまうと、
「暴れん坊」を観る気がしなくなるんですヨ。

(夏のロース・カツレツ)

脂身のたっぷりついた黒豚のロース・カツレツ。
これこそ、私の夏の活力源だ。
しかし、家で食べるとなると、なかなか、おもうようにいかないが、
このごろ、サラダ用のキャベツのいいのが買えるので、
梅雨が明けてから何度も食べた。
ソースはトマト・ピューレをまぜて家でつくる。
今度、外へ出たら、どこで、ロース・カツレツを食べようかと考えている。
私のは、いわゆるトンカツではない。
昔風のロース・カツレツだ。

=つづく=

2015年8月21日金曜日

第1169話 池波翁の「銀座日記」 (その16)

なおも美空ひばり。

「松葉寿司」のある宮川町の隣り、
野毛町に「パパジョン」なる空前絶後、唯一無二のバーがある。
横浜のみならず、東京にもファンの多い、
知る人ぞ知るユニークきわまりないスポットで
頭髪は喪失しているものの、
白い口ひげがキュートな偏屈おやじが
二度目のカミさんと実の息子の三人で営んでいる。

店内に流れる音楽はジャズとひばりのレコードだけだ。
ジャズバーと言うより、ジャズ&ひばりバーと呼ぶのが正しく、
うっかりスナックなんぞと口を滑らしたりすると、
店主どころか常連に張り倒されそうな店なのだ。
開店して四十有余年、
一日たりとも店を開けなかった日がないのが
何と言っても最大の自慢。

予備知識は言うに及ばず、
その存在すら知らずにフラリと入ったのは
かれこれ五、六年前のこと。
何となく気に染まってしまい、それ以来、
年に一度は止まり木に止まっている。

横浜に泊りがけで出向くのは年に二度ほどだから
二打数一安打、けして悪い数字ではない。
この店での楽しみの一つは
膨大なコレクションのひばりのレコードから
好きな曲をリクエストできること。

訪れるたびに同じ曲をお願いしている。
それがマイ・モースト・フェイバリット・ソングの
「むらさきの夜明け」なのだ。

「真赤な太陽」の大ヒットに気をよくしての、
ひばり・ブルコメ・吉岡治・原信夫のカルテット・コラボ第二弾。
思惑はずれて不発に終わったが
つらいとき、悲しいときに勇気を与えてくれる名曲だと思う。

「松葉寿司」のオヤジさんに、ひばりの好きな色が”紫”と聞いたとき、
瞬時にこの曲を思い起こした。
これはきっと、ひばりが作詞家の吉岡治に
おねだりして書いてもらったに違いない。

とここまで稿を書き進めて
ふいに「むらさきの夜明け」が聴きたくなってしまった。
ちょっと失礼して、CDラックへ。

う~ん、いいカンジ ♪ 明日も頑張ろっと!

とまあ、こんな具合でござんした。
読者におかれては長々とおつき合いくだざり、
まことにありがとうございました。
次話からまた池波翁の「銀座日記」を読み進みます。
 
=つづく=

2015年8月20日木曜日

第1168話 池波翁の「銀座日記」 (その15)

ひばりの稿を続ける。

横浜は日ノ出町交差点そばのウインズ前に
「松葉寿司」という鮨屋がある。
美空ひばりゆかりの店を訪れてみると、
店先に幼い頃のひばりの銅像が
夕日に染められて立っていた。

昭和28年の創業で
それ以前は甘味処だったようだが、ハッキリしない。
終戦直後の物資が欠乏している時期に
ひばり母子がしばしば遊びに来て、葛餅を食べていったという。
この当時、ひばりの実家の鮮魚店「魚増」は
すでに磯子区滝頭で開業していたようだ。

二代目となる現在の「松葉寿司」店主が
たまたまひばりと同い年で、言葉を交わすこともあった。
時は流れて大きく成長したひばりが磯子に御殿を建てると、
催事のあるたびに鮨を出前するようになる。

相方と二人、つけ台に陣取る。
三人連れの先客は店の常連とお見受けした。
こちらは電話予約の際に
特製ちらしに当たるひばり御膳(3150円)をお願いしてある。
そのほかにずわい蟹の爪をつまみにもらう。
御膳の内容はかくの如くであった。

マグロカマとろ2切れ・カンパチ3切れ・帆立貝・子持ち昆布・
焼き松茸玉子焼き・姫さざえ煮・栗渋皮煮・酢ばす・奈良漬け・
松茸土瓶蒸し・イクラ・酢めし・チーズケーキとフルーツゼリー

まずまずの顔ぶれが揃っているものの、
肝心の酢めしに難があった。
ケレン味が強く、酢・塩・砂糖がそれぞれに主張して
きわめて味付けが濃い。

久しく大衆的な鮨店の敷居をまたいでいないせいか
酢めしは受け入れがたいものがあった。
一品で焼き松茸をお願いしたときに
店主が今時期は焼いても旨くないと言った通り、
土瓶蒸しのほうがよかった。

マグロやカンパチは水準に達しており、
ここではそれをつまみに酒を楽しむほうがよい。
ただしわさびはニセわさび。
この夜はビールの大瓶一本に、
焼酎二杯を含めて約七千円の勘定だった。

お重の隅を飾る紫色のゼリーと
チーズケーキを抱き合わせたデザートは
店主が河岸で見つけてきたもの。
美空ひばりがもっとも好んだ紫色にこだわったのだという。

=つづく=

2015年8月19日水曜日

第1167話 池波翁の「銀座日記」 (その14)

美空ひばりが亡くなったのは1989年6月24日。
同年1月にリリースされた「川の流れのように」は
本人も驚くほどの大ヒットとなった。
それはそれとして・・・
「銀座日記」を読み進めよう。

当時、人気歌手だった笠置シヅ子の物真似唄だったが、
その達者さには瞠目したものだ。
ひばりは、まだ子供で、私は二十代の前半だった。
いまさらに、この四十余年の歳月を想う。

ここでちょっと寄り道をし、
稀代の大歌手にスポットライトを当ててみたい。
自著「文豪の味を食べる」から彼女の稿を。
 
松葉寿司」

港町 重入りランチ

美空ひばりは思い出深い歌手である。
個人的にファンと呼べるほどの思い入れはないが
心惹かれる気に入りの曲はけして少なくはない。

そんなことより、1960年代のわが両親の論争である。
「ひばりの佐渡情話」を第一と位置づける父親に対して
「悲しい酒」をベストと言い張る母親がいた。
夫婦ゲンカになるほど議論がエスカレートすることはなくとも、
わが親ながら、ともに強情なツガイであった。

上記二曲に共通するのは曲全体を覆う哀愁。
当然、調べはマイナーコードで綴られている。
子どもの頃からずっと聴かされてきたおかげで
自分の好みもメジャーではなく、
マイナーばかりになってしまった。

「越後獅子の唄」、「津軽はふるさと」、「みだれ髪」、
好きな曲を挙げると、揃いも揃ってみなそうだ。
論争の対象となった二曲にも、それぞれになじんでいる。

そんなわけでレコード売り上げの上位を占める、
「柔」、「川の流れのように」、「港町十三番地」あたりの、
メジャーコードには心惹かれることがない

ちなみに古賀政男作曲の「悲しい酒」は
もともとテンポ早めでノリのよい曲を
ひばりが古賀にお願いして”悲しい唄”に転換させたものだ。

J.C.にとって、ひばりのベストはあいにくヒットしなかった。
ほとんど無名に近いその曲の名は・・・
へへへ、ソイツはのちほど明かすことに致しましょう。

=つづく=

2015年8月18日火曜日

第1166話 池波翁の「銀座日記」 (その13)

(自作の展覧会)

初夏を想わせる快晴。
痛風はまだ癒(なお)らぬ。
姪が銀座へ買い物に行くというので煙草その他をたのむ。
午後は、三十年前に封切られたフランス映画、
[殺意の瞬間]をビデオで観る。
この映画が封切られたとき、
私は、まだフランスを知らず、パリを知らなかった。
映画の主要背景は中央市場(レ・アール)である。
私が初めてパリを訪れたとき、
中央市場は郊外に移されてしまっていた。
そのレ・アールにある、レストランのシェフ兼パトロンを
ジャン・ギャバンが演じる。

J.C.が初めてパリを訪れたのは1971年。
マドリッドから夜行列車のシュド・エクスプレスに乗り込み、
途中、ボルドーに1泊してからパリへ入った。
移転する前のレ・アールのことはよく覚えている。
映画のロケには最高の舞台であった。
市場脇の「オー・ピエ・ド・コション(豚足亭)」で
あまり旨いものじゃなかったけれど、
仔豚の足のパン粉焼きを味わったっけ・・・。

[殺意の瞬間]もボンヤリと覚えている。
これはTVの洋画劇場で吹き替え版を観た。
確か、シャンベルタン(ブルゴーニュの銘酒)と
コック・オー・ヴァン(鶏の赤ワイン煮)が登場したハズだ。

ときは変わって1990年代中頃、ニューヨークのマンハッタンに
「レ・アール」なるステーキハウスが開店した。
アメリカン・ステーキハウスはたくさんあったが
この店はその名が示す通り、フランス風のステーキをウリとした。
ときどき出向いてはフィレ・ミニョン(小さめのフィレステーキ)、
あるいはバヴェット(ハラミのステーキ)とフリッツ(フライドポテト)で
ピノ・ノワールのボトルを空けたものだった。

パリのレ・アールの跡地、
ポンピドー・センターを訪れたのは1997年。
一画に「豚足亭」は健在だった。
その際は豚足をやめて海の幸の盛合せと
舌平目のムニエルを食べたが
相変わらず料理のデキはよくない。
ただ、ただ、懐かしさに魅かれただけだったネ。

(吉右衛門の”鬼平”)

美空ひばりが死去した。
五十二歳である。
私は、ひばりの東京における初舞台を観ている。

=つづく=

2015年8月17日月曜日

第1165話 池波翁の「銀座日記」 (その12)

池波正太郎の日記を読み進めていくと、
体力・気力の衰えが手に取るように判る。
この頃、文字通り、昭和を象徴する人物が世を去った。

(冬ごもり)

ついに、天皇が崩御され、平成元年の新年となったが、
自分に元気のないことは旧年通りで
二枚、三枚の原稿を書くのが、やっとのことだ。

大相撲、千秋楽にて、北勝海と旭富士の優勝決定戦。
北勝海が勝つ。
この人は三ヶ月の休場後に、この成績をあげた。
えらいものなり。
毎日、家にこもったまま、何処へも出ない。
これはよくないとおもうのだが、
いざとなると面倒になってしまい、炬燵(こたつ)へもぐりこむと、
そのまま、夕景までうごかない。
隣家の御主人もそうだ。
この人は「冬ごもり」と称して、毎年、
春が来るまでは庭にも出て来ない。

家にこもりっきりになって外出を渋るようになると、
もうその人の行く末は長いことはない。
面倒、億劫というより、外へ出てゆくことが怖くなってしまうのだ。

池波翁とスポーツとはイメージが重ならないが
相撲に限らず、プロ野球もそこそこTV観戦している。
振り返れば、昭和天皇も大の大相撲ファンであった。

(訃報つぎつぎに)

テレビも新聞も、連日、
リクルート事件と税金問題を取りあげていて、もう飽きた。
日本の戦後で、もっとも質が下落したのは政治家だ。
それは企業の発展と傲慢に足なみをそろえて下落してしまった。
私は大平前首相のころまでは、自民党に希望をつないでいたが、
いまは、投票する気にもなれない。
そうかといって、野党はいずれも頼りなく、相変わらず、
反対のための反対を空虚に叫びつづけているのみだ。
午後から神田へ行き、散髪、すぐに帰宅。
皇居周辺の桜花は、すっかり咲きそろって、
陽気も暖かくなった。
昨日あたりから体調もよくなり、血圧も下がったが、
久しぶりに私を見る人は「すっかり、おとろえた」と、おもうらしい。
床屋で「少し禿げてきたから、短くしてもらおうかな」といったら
「とんでもない、こんなの禿のうちに入りませんよ」と、
はげましてくれた。

本当だ、政治家についてはまさしく翁の言う通りですな。
野党もまたしかり。
それにしてもハハハ、
”禿”をハゲまされるっていうのもねェ。

=つづく=

2015年8月14日金曜日

第1164話 池波翁の「銀座日記」 (その11)

(久しぶりの試写通い)の稿を続ける。

松茸があったことをおもい出し、
そのバター炒めで冷酒を少しのみ、
御飯はやめて小千谷の干しそばをあげることにした。
その旨を電話で家へ予告しておき、地下鉄で帰る。
晴天の夕暮れだが、しだいに冷気がきびしくなっている。
夜、我家にいる四匹の猫のうち、
もっとも年をとっている女猫のメイコが、長らく病気で寝ていたが、
めずらしく今夜、部屋へ入って来る。
しかし、もう歩けない。
歩こうとしては倒れ、倒れては必死になり、
起きあがろうとするありさまを見ていると、あわれになる。
何処へ行きたいのか、それがわかれば手を貸してやるのだが、
わからない。
メイコは我家の猫のうち、もっとも古い猫だ。
人間なら七十をこえているかとおもう。

メイコは未明、家内の部屋で息を引き取った。
猫が最後の期(とき)を迎える姿は、
立派だと、いつもながら、そうおもう。

J.C.も愛猫・プッチと暮らし始め、早や11年を超えた。
彼女の血統書には2004年2月29日生まれとある。
なるべく健康で長生きしてもらいたいと、
食事制限をするようになって1年半になるだろうか。
猫だけにひもじい思いをさせるわけにもいかず、
自分も節食のおつき合いに努めてはいる。
おかげで2キロ以上体重が減り、体調はすこぶるよろしい。

プッチが息を引き取るとき、どんな気持ちになるんだろうネ。
もちろん哀しむに決まっているけれど、
それだけではないような気がする。
今も足元で惰眠をむさぼるその表情は
老猫に似ず、何ともあどけない。

(出さなかった年賀状)

一九八九年の新年を迎える。
六十をこえると格別のおもいもない。
雑煮も元日だけできょうはチキンライス。
一日中、テレビの忠臣蔵を見ていた。
年賀状がぞくぞくと到来。今年にかぎって、心が落ち着かず、
賀状は早く刷りあがっていたのだが、ついに書けなかった。
体調をくずして、千数百枚の宛名を書く気力がなかったことも事実だ。
眼は老人性のかすみ目らしく、
名簿の名を追うのも骨になってきた。

いよいよ、翁もあぶない。
それにしても、千数百枚の年賀状とは!
健康に害が及ぶこと、はなはだしいのではないか。
自殺行為というほかはなく、思いとどまって、よかったぞなもし。

=つづく=

2015年8月13日木曜日

第1163話 池波翁の「銀座日記」 (その10)

またもや、PC不調で丸一日遅れのアップにて恐縮です。
さらに(暖かな日々)のつづき。

新しい年が明けた。
私は、早生まれの戌(いぬ)で、本命の星は六白である。
去年、この六白の星をもつ人は大なり小なり、ひどい目に会った。
むろんのことに例外はあるけれど、
何といっても五黄殺という恐ろしい星が
上へ乗って来たのだから、どうにもならない。
今年は外国へ二度ほど行くつもりだが、
体力的に自信がなくなってきている。
今年は仕事を思いきって減らすつもりだ。

朝から、」まるで春のような暖日。
何だか気味が悪い。
第一食に昨夜のチキン・コロッケをソースで煮て食べる。
午後からY新聞へ行き、例年のごとく映画広告の審査をやる。
これも今年かぎりで辞めることにした。
早く終ったので神保町へ行き、散髪。
それからB社へ行き、むかしからの担当者四名と
近くの中華料理で夕飯をする。
みんな、中年になってしまって食べないし、飲めない。
私も大きなグラスに冷えたビールをなみなみと注ぎ、
ぐっとのみほしたいのだが、のめなくなってしまったし、
すっかり食が細くなってしまった。
先行き、体調が変わって、また、のめるようになるか、どうか・・・
おそらく、そうはならないだろう。

1988年、新春のことである。
めっきりと気が弱くなっていて気の毒なくらいだ。
大好きだったビールにしてもグラス1杯が飲み干せなくなっている。
体調の復元を自ら否定しきってしまっている。

「銀座百点」に連載した「池波正太郎の銀座日記」はここまで。
続いて「池波正太郎の新銀座日記」が始まる。
文庫本のタイトルに、[全]とあるのはこのことだ。

(久しぶりの試写通い)

秋晴れの朝、ほんとうに久しぶりで、試写会へ出かける。
終って、ビルの1Fにある[O軒]へ行き、
たのんでおいたレーズン・パイを受けとり、
店の奥のパーラーでエスプレッソをすするうち
疲れが出てきて、何処へも行く気がしなくなる。
帰りも地下鉄にする。
脚力が、おとろえてしまったことが、はっきりとわかる。
夕飯は家へ帰って食べることにしたので、
コーヒーをのみながら
(何にしようか?)
と、考える。

=つづく=