2016年3月31日木曜日

第1328話 綾瀬はるかと二人飲み (その5)

「串のこたに」のカウンター。
もともと関西風の串揚げは好まぬほう。
なのに夏のビヤガーデンにおける串カツは
大好きだからわれながらちょっとヘンだ。
 
そもそも昭和40年代頃まで
東京に串揚げはまず見掛けなかった。
初めて食したのは
銀座かシンガポールの「串の坊」だったと思う。
本場・大阪は通天閣の下で食べたのはそのあと。
だが、いずれも感心しなかった。
 
東京でもここ10年ほどは
立ち食い店を中心にかなりの普及ぶり。
J.C.とてまったく利用しないわけじゃないが
ごくごくマレである。
「二度づけ禁止」の貼り紙を見るのも
あまり気持ちのいいものじゃないしネ。
 
グラスがカラになった。
ホイスはもうじゅうぶん。
ビールに戻そうとも思ったが
当店は生も瓶もキリン一番搾りのみ。
同じキリンのラガーよりは飲み口が万人向けながら
好みの上ではスーパードライ、
そして黒ラベルの後塵を拝することになる。
 
それよりもくだんのこたにサワーを試しておかねばならない。
あらためてドリンクリストをチェックしてビックリ。
何と1杯100円ポッキリじゃないか!
税込みでも108円である。
こんなに安い酎ハイは前代未聞だ。
 
しかも
「当店のサワー類のアルコール度数は高めになっております」―
なんて謳っちゃってるんだから二度ビックリの巻である。
どうなってんだい、この店は!
 
加えて常連が抱え込んでるピッチャーはよりいっそう割安のハズ。
店の人気は第一に値付けであることが確信される。
同時に綾瀬の町に大量のアルコール中毒患者を
産み出すのではと心配になってきた。
 
そのこたにサワー、飲んでみるとなかなかに爽快。
下町の良心的な酒場ならボールと称されて
200~250円で提供されるものに匹敵する。
なるほどアルコール度数もやや高め、
強いわりに飲み口がマイルドでもある。
思い出すなァ・・・あの曲を。

=つづく=

2016年3月30日水曜日

第1327話 綾瀬はるかと二人飲み (その4)

綾瀬の「串のこたに」にいる。
ちなみにここは東京都・足立区。
米軍基地のある神奈川県・綾瀬市ではない。

他の客が串揚げばかりを注文するので
郷に入れば郷に従え、常連さんに倣うこととする。
数種類ある串セットのうち、
興味を持ったのは山賊セット(450)と海賊セット(480)
前者は山の幸、後者は海の幸の盛り合わせだな、これは―。
当たり前のごとくシーフードをお願い。
もともと肉よりサカナのほうが好きだしネ。

海賊セットの揚げ上がりを待つあいだ、
隣りの客があおる液体の正体を見極めようとしたものの、
いまだ未確認液状物体である。
色合いからして酎ハイみたいでだったが
まっ、いいか。

やがて現れたザ・パイレーツ・オブ・アヤセーンは
かき・海老・きす・もんごいか・帆立貝の5本。
480円割ることの5本、イコール96円だから
1本当たり100円に満たないサービス価格といえる。
ドリンクに限らずフードもまた安い。
ただし、帆立は小粒でおそらく近縁種の板屋貝かと思われた。

添えものの小皿には抹茶塩と中濃ソースにマヨネーズ。
加えてキャベツ・きゅうり・大根の生野菜トリオが付け合わせ。
まあ、こんなものでありましょう。

そこへ新しい単身客が入店してきて
一席だけ空いていた隣りに腰を下ろした。
開口一番、「こたにサワー! ああ、ピッチャーでな」―
ずいぶん乱暴な言い様だねェ。
でもおかげで、はは~ん、
謎の液体の正体があっけなく判明した次第だ。

このオヤジさん、ピッチャーを待つヒマもあらばこそ、
タバコに火を点けてスッパ、スパ。
スパゲッティ屋の店主じゃあるまいし、
ぜわしなく吸い込んでは激しく吐き出す。
自分の吐いた煙りの行く先なんぞお構い無しの無頓着。
チラッと横顔をのぞくと、予想通り下品な顔をしてた。

ピッチャーの仕度がちょいと手間取ったせいもあるが
あろうことかオヤジ、2本目に点火しやがった。
少しは周りに気を配りなさいヨ、ったく!
トンデモないのが脇に座ったもんだ。
1軒目の「大松」といい、今宵はお隣りサンに恵まれないや。

=つづく=

2016年3月29日火曜日

第1326話 綾瀬はるかと二人飲み (その3)

「串のこたに」は綾瀬きっての繁盛店。
その秘密を探ってみようと思っていた。
カウンターに座った途端、
「お飲み物は?」―オネエちゃんに訊かれて
メニューをろくすっぽ吟味しないままに
チラリ目についたホイス・ハイを反射的にオーダー。
めったに頼まぬホイスを使用したハイボールである。

ホイスというのは半世紀以上前に
港区・白金の後藤商店が発売を始めたハイボールの素。
ホイスと焼酎を合わせたところに炭酸を注ぐと、
ちょいとしたウイスキー・ハイボールを味わえるというワケ。
これが280円とずいぶん安い。
取りあえず安価なリカー類が繁盛の一因であることは判った。

おっと、店内に響き渡るBGMは
TUBEの「さよならイエスタデイ」じゃないか。

 ♪    別れ間際には 無傷じゃいられない
    やるせないお互いに 涙の初恋
    もうすぐ私も 普通に嫁いでゆくわ
    今となりゃ懐かしい 目眩のくちづけ
   
    あなたの胸の中で少女を
    脱いで女になったあの夏
    火傷しそうなほどに燃えて 
    消えたロマンス

    憎んでも恨んでも いいから忘れないで
    本気だった愛してた さよならイエスタデイ ♪

              (作詞:前田亘輝)
    
ラテン調のこの曲は1991年のリリース。
初めて耳にしたのはその年の秋口のことで
京都駅から四条河原町に向かうタクシーの中だった。

それはそれとしてホイス・ハイで一息つく。
周りを見渡すとドデカいピッチャーを目の前に据えて飲む客がいる。
これがグループではなく独り飲みなのだ。
カウンターにはこの手の客が3人も―。
いったい彼らは何を飲んでいるんだ?
まっ、それもおいおい判明してくるだろう。

突き出しの枝豆をつまみつつ、品書きに目を通す。
「串のこたに」を名乗るくらいだから名物は串のハズ。
客の注文状況に耳をすませていると
串揚げが圧倒的で串焼きは皆無だった。
確かに焼き鳥はどこでも食べられるけど、
しかし、こうまで片寄るかねェ。

=つづく=

2016年3月28日月曜日

第1325話 綾瀬はるかと二人飲み (その2)

足立区・綾瀬の「大松」。
独りカウンターに陣をとってさっそくビールの大瓶である。
ここにはアサヒとキリンが揃っているから安心だ。

「大松」の焼きとんは1種4本からが基本なれど、
同時に注文すれば、2種2本づつもOKだと聞いたことがあった。
カウンターの中の若い衆に
「串は1種4本からでしたっけ?」―訊ねると
「そうですネ」―つれない返事が返ってきたじゃないの。
こちらの勘違いによる早とちりだったのかもしれない。
仕方なしにシロを4本タレでお願いした。

ここのシロは一度ゆでこぼし、
ある程度柔らかくしてからカリッと焼き上げる。
普段は同じものを4本も食べることはないのに
好みのタイプだからイケてしまう。

ほかに煮込みか厚揚げを所望する気になったが
串を完食してからでも遅くはないと思い直した。
しかし、間もなく4本の弊害が明らかになる。
悠長に食べてると、冷めてしまって脂が白く固まるのだ。
これには閉口、よってビール1本、焼きとん4本で切り上げた。

このとき隣りに常連とおぼしき客が座った。
見るからにガラが悪い。
目と鼻の先の”コスゲ”からさっき出所してきたばかりといった風で
典型的な町の嫌われ者、あるいはチンピラだぜ、こりゃ。

そのチンちゃんが生ビールを注文。
ジョッキの到着時には焼きとんを追加する。
ハツとカシラを塩で2本づつときた。
ありゃりゃ、常連のくせに
当店のミニマム4本システムを知らないのかネ。
すると驚くなかれ、先刻J.C.のオーダーをとった若い衆が
素直に2本づつをアクセプトするじゃないか!
何てこったい、これをダブル・スタンダードと言わずして何と言う。

ことここに及び、温厚な性格の持ち主が
ほとんどキレかかりやしたネ。
若い頃なら間違いなく一悶着起こしてた。
われながら歳とともに丸くなったものよのぉ・・・。
グッとこらえて金910円也を支払い、
後足で砂をかけたつもりでオモテに出る。

外はまだ夕陽が沈み切っておらず、宵の口もいいところ。
当然ながら2軒目の物色に入る。
入るとは言ったものの、頭にはすでに一つのイメージがあった。
以前から「串のこたに」という、
串揚げ&串焼き専門店が気になっていたのだ。
しかも「大松」からは徒歩30秒と超至近である。

=つづく=
 
「大松」
 東京都足立区綾瀬2-24-4
 03-3690-0196

2016年3月25日金曜日

第1324話 綾瀬はるかと二人飲み (その1)

巷間、あまり知られていないけれど、
JR常磐線・三河島駅周辺はちょいとしたコリアン・タウン。
くわしくは知らないが韓国系よりも
北朝鮮系の人々が多く住んでいる様子だ。
1960年代初めには大きな列車事故に見舞われ、
多くの犠牲者を出してもいる。

その忌まわしい過去に訣別するためか、
近隣の地番は東日暮里や荒川に変更され、
現在では駅名にその名を残すばかりとなった。
徒歩5分くらいの距離には京成電鉄の新三河島駅があって
近所に冠新道なる、名前とは裏腹の古びた商店街があり、
その日はそこで知人と会ったのだった。

1時間余りで用事が済んだらあとは何もすることのない夕まぐれ。
はて、どうしたものだろう。
晩酌には少々時間が早く、
冠新道にはこれといった店舗も見つからない。

徒歩10分の西日暮里まで出れば、
24時間営業の「はってん食堂」、
そしてそのはす向かい、
つくばエクスプレスの高架下には「餃子の王将」もある。
ここ十数年、まったく利用していないが
餃子をつまみに冷たいビールでもいってみるか・・・。
歩き始めたものの、すぐに気が変わった。
東京メトロ千代田線・町屋駅方面にきびすを返す。

ずっと長距離散歩をしていなかったので
久々にしっかり歩いてみるつもりになった。
途中、町屋駅前のビル地下、「ときわ食堂」に惹かれたが
中途半端な時間は枝豆、煮込みなど数点のつまみしかなく、
とても入店する気になれなかった。

初心貫徹、北へ北へと進み、尾竹橋で隅田川を渡り、
北千住の旧市街にやって来た。
宿場町の雰囲気を濃厚に残す一郭は通行人もまばら。
のんびりとした散策が可能だから身を置くだけでも楽しい。

今度は千住新橋で荒川を渡る。
右手間近に東京拘置所を眺めながら小菅の町を抜け、
17時前には綾瀬の町に到着した。
なおも亀有・金町と葛飾区を東進してもよかったが
17時なら酒場が暖簾を出す時間、今宵は綾瀬で飲むことにする。

駅南口のもつ焼き屋「大松」に差し掛かると、
ちょうど開店したところ。
こいつは一番乗りかと思いきや、店内には二組の先客があった。
いったい連中は何時から飲んでるんだい?

=つづく=

2016年3月24日木曜日

第1323話 花嫁は二児の母 (その6)

とにもかくにも東京プリンスの中国料理店、
「満楼日園」の乾焼蝦仁にブッタマゲたのであった。
それまでの20年に及ぶ人生において
まるで経験したことのないタイプの味だったのだ。

わが人生において美味しい食べ物を口にしたとき、
その美味に身体が震え、鳥肌が立ったことはたったの三度しかない。
以前にもどこかで書いた記憶が無きにしも非ずなれど、
恥ずかしながら今一度、振り返ってみたい。

その1(1967年春)
J.C.が紅顔の美少年(?)であった中学三年生の終り。
こう見えても生徒会の役員を・・・ってゆうか~、
生徒会長だったんですけどネ。
校長先生がご苦労さんの意味を込め、
役員全員に昼ごはんをご馳走してくれた。
それは1杯のかつ丼で実に美味しかった。
かつ丼を何度も食べた経験はあったが、かくも上品なのは初めて―。
どんぶりのフタを開けたときの美しさが目に灼きついている。
つゆが完ぺきに切ってあり、バカ若者の好むつゆだくとは真逆。
人生でベストのかつ丼だったことに間違いはない。
ただ残念なのは店名が判らずじまい、それだけである。

その2(1971年秋)
「満楼日園」の乾焼蝦仁。
この料理は日本生まれの中華料理らしいが
天下の美味でありました。
一流店に行かないと本物に出会えないのが玉にキズ。
そのせいか最近はほとんど口にする機会に恵まれない。
悲しむべきか。

その3(1978年夏)
わが人生における最後の晩餐は浅草の「弁天山美家古寿司」。
そう心に決めている。
初めて訪れたときの相方は当時の恋人で
東京プリンスに出入りしていた花屋さんのスタッフ。
最初のにぎり、平目の昆布〆にもう身もだえしてしまった。
続いての小肌と穴子にも鳥肌が立ちまくり。
今まで食ってた鮨、ありゃいったい何だったんだ!

さて、2016年3月。
数日前に東プリに電話を入れた。
もちろん復刻版のための予約である。
ところが希望の日にちが満席で
最終週の週末になんとかおさえることができた。

せっかくだから東プリ時代の同僚に
レンラクをとると二つ返事の快諾。
懐かしき復刻料理と往年のプリティ・ウーマンは
盆と正月が一緒に来たようなもので
今からダブルの楽しみを心待ちにしている。
もちろん、その夜のことは報告いたしますとも!

=おしまい=

「ザ・プリンス パークタワー東京」
 東京都港区芝公園4-8-1
 03-5400-1111

2016年3月23日水曜日

第1322話 花嫁は二児の母 (その5)

29年前のニューヨーク。
まだWTC のツインタワーが屹立していた平和な時代だった。
往時、街のベスト・フレンチの異名をとって
誉れ高き「Lutece」のテーブルに着いていた。
おそらく接客陣も胡散臭い連中がやって来やがったと思ったことだろう。
でも、そこは一流料理店、表向きにそんな態度は微塵も見せない。
 
アペリティフをお願いし、手渡されたメニューに目を通すことしばらく―。
ほどなくしてメートルDが本日のスペシャリテの説明をし始めた。
当地の料理店では必要不可欠なサービス、というより儀式である。
言葉の判らない客にとっては迷惑このうえないだろうが
そんなことを言ってはバチが当たるというものだ。

とにかくその説明は
リストランテ・イタリアーノのカメリエーレほどではないにせよ、
レストラン・フランセーズのギャルソンもまた懇切丁寧にして
日本の料理店の比ではない。
 
途中、くだんのバール・アン・クルートが紹介された。
こちらは何気なしに
「ああ、ポール・ボキューズ風ネ?」―
相槌を打ったら即座に
「ウイ、ムッシュウ!」―
わが意を得たりと満面の笑みである。
結果としてこの一言が功を奏した。
メートルDがわれわれのテーブルから離れなくなり、
極上のサービスを受ける立場と相成ったのだ。
 
エニウェイ、無粋な客の汚名をすすいだだけでも価千金。
以後、余計な気兼ねをせずに済んだというわけ。
ちょいとばかり慇懃無礼の感否めずではありましたがネ。
 
ハナシを元に戻さねば―。
東プリ復刻料理のうちでもっとも思い入れが深いのは
何を差し置いても海老のチリソースである。
中国語では乾焼蝦仁(ガンショウ・シャーレン)と表記され、
蝦仁というのは芝海老のこと。
これが車海老なら明蝦、大正海老サイズは大蝦、
伊勢海老クラスになれば龍蝦、これにて打ち止めだ。
 
東プリには「満楼日園(マロニエ)」という名の中国料理店があり、
その薄味タッチはなかなかの人気を誇っていた。
これは現在も変わらない。
レストラン・メニューに限らず、
パーティー料理も中華モノはここのキッチンから出てくる。
 
1971年、秋口のある日。
そう、街には尾崎紀世彦の「また逢う日まで」と
五木ひろしの「よこはま・たそがれ」が流れていたっけ―。
たまたま乾焼蝦仁を試食する機会に恵まれた。
 
いや、驚いたのなんのって―。
あいや、ブッタマゲたというのがより正しい。
世の中にこんな美味が存在していたとは!
舌は震え、身体には鳥肌が立ったのでありました。
 
=つづく=

2016年3月22日火曜日

第1321話 花嫁は二児の母 (その4)

プリンスホテル・グループのフラッグシップ、
東京プリンスが今月いっぱいで
1年間の長期休業に入ると聞いては看過できない。
しかもラスト・ワンマンスは
当ホテルの伝統料理を復刻させるという。
 
ブッフェ形式だから多種多彩な料理を少しづつ、
心ゆくまで堪能することができる。
これもみな花嫁・K枝のおかげだ。
彼女の披露宴に出席していなければ、
”このこと”に気づかなかっただろう。
 
復刻ブッフェのポスターには
四つのディッシュが大きく紹介されていた。
紹介してみよう。
 
和食ー金目鯛の煮つけ
フレンチー牛肉の赤ワイン煮パイ包み焼き
中華ー海老のチリソース
デセールーベイクド・アラスカ
 
ほかにもスモークサーモン、ローストビーフ、
ロブスター・テルミドールなど、
深く深く慣れ親しんだ美味が並んでいる。
 
1970年代は町場の仏料理店がまだ少なく、
シティホテルがダイニングシーンをリードしていた。
当時の東京の三大ホテル、
帝国、オークラ、ニュー・オータニ、
そのすべてのメインダイニングはフレンチだったのである。
 
ご多分にもれず東京プリンスにも
「ボー・セジュール」というフレンチのメンダイがあった。
J.C.が蝶タイとタキシードに身を固めていたとき、
牛肉赤ワイン煮のパイ包み焼きは
当ホテルのスペシャリテではなかった。
というより、ただの一度も見たことがなかったネ。
 
代わりにポール・ボキューズのオリジナル料理、
バール・アン・クルート(スズキのパイ包み焼き)が
たびたびパーティー料理の花形となっていた。
 
あれは1987年の秋口だったかな?
ニューヨークに赴任して半年ほど経った頃である。
往時のミシュランガイドブック・NYで
フレンチの最高峰と評された「Lutece」を訪れた。
 
男ばかりが4人、いわゆる接待ディナーだ。
カップル主体の素敵な店内にダークスーツのグループ野郎。
そんな無粋なマネは避けたかったが
クライアントの希望とあらば、これもまた致し方なし。
気が進まぬままに予約を取ったことを
つい昨日のことのように覚えている。
 
=つづく=

2016年3月21日月曜日

第1320話 花嫁は二児の母 (その3)

結婚式の披露宴においては
立食パーティー形式でもない限り、
なかなか新郎新婦と語らう機会に恵まれないもの。
にもかかわらず、幸運なことに新婦と会話を持てたし、
初対面の新郎、フロム・グレート・ブリテンとも言葉を交わせた。
僥倖と言わねばならない。

金屏風の前で送賓を受けた際には
両家の御両親に挨拶することもできた。
心晴々として暮れなずむ芝公園を歩む。
真っ直ぐ帰宅してもよかったが
ふと思いついて東プリ本館に足を向けてみる。
青春の思い出が詰まったホテルのバーで
余韻にひたろうという腹積もりであった。

何度か訪れたことのあるフランス料理店、
「クレッセント」を右に見ながら増上寺の門前を横切る。
この光景をたびたび目にしたのは1970年代だった。
懐かしいなァ、懐かしいねェ。

あれはやはり’70年代の後半だったろうか、
現在、「クレッセント」の並びにあるメルパルク東京が
郵便貯金会館だった頃、
エルヴィス・プレスリーの主演映画を朝から晩まで
何と5本立てで観尽くしたのは!

それはそれとして東京プリンスの敷地内に足を踏み入れた。
以前、「プリンス・ビラ」だった別館レストランは
まったく別経営のドイツ系ベーカリーに変身していた。
何となく最近のシャープや東芝に通ずる悲哀がつきまとう。

もっと驚いたのはベーカリーの横に設置されていた案内板だ。
東京プリンスはこの3月末日をもって丸1年、休館するという。
大幅なリノベーションを敢行するとのことだった。
ついては顧客への感謝をこめて
名物料理の復刻版を1ヶ月間、ブッフェで提供する由。
ことここに及ばれてJ.C.は心に決めた。
これは何としても行かねばならぬ、
行かねばならんのだ!

 止めて下さるな、妙心殿、
 落ちぶれ果てても平手は武士じゃ
 男の散りぎわだけは知って居り申す、
 行かねばならぬ、
 そこをどいて下され、
 行かねばならんのだ

 ♪  瞼 瞼濡らして 大利根の
  水に流した 夢いくつ
  息をころして 地獄まいりの
  冷や酒飲めば
  鐘が 鐘が鳴る鳴る 妙円寺  ♪

         (作詞:猪俣良)

1957年、三波春夫の「大利根無情」は
フランク永井の「有楽町で逢いましょう」と
同年のリリースでありました。

=つづく=

2016年3月18日金曜日

第1319話 花嫁は二児の母 (その2)

ハンウェル&K嶋御両家の披露宴である。
着席したテーブルには懐かしい顔ぶればかりが幾人も。
当然のことながら思い出話に花咲かじいさんの巻である。
そもそも新婦のK枝サンの顔を見るのだって
実に12年ぶりのことなのだ。

そうこうするうち新郎新婦が二人の男の子を伴って入場してきた。
本日の主役は紋付き袴に打掛け姿である。
こういう披露宴もなかなかによいものよのぉ!
晴れやかで華々しい宴のあと、
ハネムーンに海外へ飛び立ったと思いきや、
帰国早々の成田離婚なんて醜態をまず招かないからネ。

新郎の兄上の音頭により乾杯。
月並みなシャンパーニュではなく、
真澄の樽酒というところがまたよい。
”小津の愛したダイヤ菊”よりもずっと美味いぞなもし。

東京プリンスの結婚披露宴におけるフランス料理は
隅から隅まで知り尽くしている。
おそらく1000回に近い披露宴のサービスを
受け持ったのではないだろうか。
そのほとんどが新婦、媒酌人令夫人と
新婦側主賓のテーブル担当だった。
もっとも退社したのは1980年だからはるか昔の物語なりけり。

当時のサービスは銀のプラッターに盛られた料理を
スプーン&フォークのサーバーで持ち回るスタイル。
接客係にはそれなりの技術が求められていた。
いつの頃からか一人前づつの皿盛りが取って替わり、
これによってサービス側がずっとラクになったわけだ。

手元に当日のメニューがあるからザッと紹介してみたい。

海の幸と蟹のレムラード キャヴィアのせ
ホロホロ鳥胸肉と聖護院かぶらのコンソメ・ロワイヤル トリュフ風味
茸入り真鯛ムースのカダイフ包み トマトバター・ソース
国産牛フィレ肉のゆっくりロースト ポルチーニのコンディマンのせ
ヴァニラ風味の木苺ムースとトンカ豆のアイスクリーム

40年前のメニューを思い出しながら比較してみよう。

いろいろなオードヴルの盛合せ
海亀入りコンソメ・ロワイヤル
オマール海老のテルミドール(熱月風)
牛フィレ肉のポワレ 温野菜添え
マスクメロンとマウント・フジのアイスクリーム

変われば変わるものだねェ。
あの頃はポルチーニやカダイフなんて
東京の街には存在していなかった。
ただ、コンソメとテルミドール以外は現在のほうが美味しい。
これだけはハッキリ言えますネ。

=つづく=

2016年3月17日木曜日

第1318話 花嫁は二児の母 (その1)

金融界に身を置いていたときの直属の部下、
K嶋K枝サンからメールをもらったのは新年早々だった。

「オカザワさんは年末年始をふるさと長野でお過ごしですか?」―
こう始まる文面には意外なことごとが綴られていた。
数年前に英国人男性と結婚して二児の母親となり、
現在はシンガポール在住とのこと。
そして二月には帰国して遅ればせながらの結婚披露宴を催すので
ぜひ、出席していただきたいとあった。

彼女との出会いはJ.C.がニューヨークから帰国した直後。
バックオフィスで働いていた彼女が退社したいと言う。
話を聴いてみると、
バックからフロントに移り、ディーラーに挑戦したい由。
ふ~む、なかなかのガッツの持ち主ながら大丈夫かネ?

われわれの職種は外国為替&外国資金を
市場で取り扱うマネーブローカー。
バックオフィスからフロントデスクへの異動が
まったくないわけじゃないが多難な前途が想像に難くない。
生半可なことじゃ勤まらないんだ。

それでも明晰な頭脳、人並み以上の器量、
何よりも本人の熱意を総合的に判断し、
あえてレールを敷いてやることにした。
「けしてムリはするんじゃないヨ」―
そう言い含めてネ。

その結果、東京に赴任してきたブリティッシュと
所帯を持つシアワセに恵まれたわけだから
J.C.は縁の下の力持ちならぬ、
縁の下のキューピッド的役割を果たしたことになる。
われながらけっこう役に立ってるじゃん!

二月吉日。
披露宴に赴いた。
会場はザ・プリンス パークタワー東京のボールルーム。
ここは東京プリンスホテルの新館的存在である。
思いおこせば、青春時代の重要な一時期をこのホテルで過ごした。
フランス料理に関する知識もこの場所で習得したのだった。

加えて新郎新婦が現在、駐在するシンガポールは
J.C.が初めて海外赴任した思い出の土地なのだ。
何か因縁めいたものを感じる。

さらに加えて披露宴会場に進んで着席し、
これより入場して来る新郎新婦のメインテーブルを見やると、
脇にはこもかむりの十斗樽。
しかも銘柄が信州・諏訪の真澄ときたもんだ。
何から何まで因縁めくんだよねェ。

=つづく=

2016年3月16日水曜日

第1317話 小津の愛したダイヤ菊 (その11)

辛口ダイヤ菊を注しつ注されつするあいだに
もつ煮込みがやって来た。
コンニャク入りのオーソドックスな一鉢
相方ともどもさほど期待もせずに箸をつけると、
ややっ! 意想外の出来映えに視線が交差して仲良くニッカリ。
うむ、ウム、こいつはかなりのレベルであるぞヨ。
下町の良心的な大衆酒場クラスだ。
 
なんだかうれしくなっちまったなァ。
心なしか酒の味まで一段上がったような錯覚にとらわれる。
いや、これは錯覚じゃなくってホントにグレード・アップしたんだヨ。
酒と肴が互いに引き立て合っている。
晩酌たるもの常にかくありたい。
 
もつ煮込みを追いかけるように身欠きにしんが運ばれた。
皮目がパリッといい感じ
脂のノリもよいようだ。
ところが先に箸をつけた相方が小首を傾げた。
なんだ! なんだい? ヤな予感。
こちらも続くと、塩気が少々足りない。
まっ、これはあくまでもマイナー・プロブレム。
卓上の生醤油を軽く垂らしてみた。
 
二合徳利がカラになる。
ともに嫌いじゃないほうだから
よせばいいのにお替わりの巻であった。
心の中では
(おい、オイ、これから映画を観るんだぜ!)
そんなつぶやきが聞こえないわけじゃないんだが
もう、どうにもとまらない!
リンダ、困っちゃう!
 
ついでに¥300メニューにあったレバーの味噌漬けを追加した。
これは明らかに先刻味わったもつ煮込みに誘発されたもの。
内臓好きのJ.C.は豚の白もつ(小腸)だけでは満足できず、
肝臓も食べたくなったのだった。
やって来たのは明らかに鶏レバー
そりゃそうだヨ、
豚レバーだったらしっかり火を通さなけりゃネ。
 
そうしてこうしてほろ酔い気分の春の宵。
ロードショーが億劫になってしまい、
このまま飲み続けたい心持ちなれど、
それじゃ相方が納得するまい。
第一、すでにチケットを買ってあるのだ。
 
「キャロル」を観終わり、どことなく不完全燃焼。
1950年代のニューヨークもそれほど映されてたわけじゃない。
その旨、口を尖らせて伝えると、
「よく言うわ、ぐっすり寝ちゃってたクセに―」
「ハイ、どうもすんません」
 
=おしまい=
 
「酒蔵 ダイヤ菊」
 東京都港区新橋2-16-1ニュー新橋ビルB1
 03-3580-5375

2016年3月15日火曜日

第1316話 小津の愛したダイヤ菊 (その10)

相方が目ざとく見つけたのは小さな四角いメニューボード。
そこにはオール¥300メニューが記されていた。
ハナからじっくり腰を落ち着けるつもりがないので
手軽、手頃、コンパクトな小皿・小鉢類は大歓迎だ。

たいした品数でもないから全て紹介してしまおう。

 冷や奴 小アジ唐揚げ
 長芋千切り ねぎサラダ
 レバー味噌漬け 菜の花ひたし
 チクワ天ぷら 油揚げ焼き

「好きなモン2、3品選んでいいヨ」
「そうお、ありがと、ちょっと待ってネ」
30秒ほどで菜の花ひたしと冷や奴がピックアップされた。
¥300メニューならば味の保証はともかくも
安くて早いことに間違いはなかろう。

居酒屋においては何はともあれ、
スッと出てくるつまりみが必要不可欠なのだ。
案の定、迅速であった。
ジョッキの生ビールがまだ半分近くも残っているからネ。

まっ、別段、特筆すべきこともない菜の花と豆腐を突つきながら
こちらも別段、特報すべきことがない互いの近況を語り合う。
少々ビールが飲み足りないので瓶を追加した。
生はスーパードライだったが瓶は黒ラベルになった。

300モノばかりでは格好がつかない。
通常メニューからも何かいっておきたい。
 吟味の結果、身欠きにしんともつ煮込みをお願いした。
 
同時にお待ちかね、ダイヤ菊への移行を試みる。
数種類が揃っているうち、
辛口ダイヤ菊二合徳利とリストにあったものを選んだ。
専用徳利で登場 
小津監督に倣い、熱めの燗でお願い。
互いに酌を返し合って盃を合わせる。
ふむ・・・、数十年前に一度飲んだ記憶があるものの、
どこの酒場だったかトンと思い出せない。
ましてや飲み口の印象なんぞトコトン忘れてしまっている。
 
あらためて此度、気合いを入れて口元に運んだものの、
際立った銘酒とも思えなかった。
思えなかったが小津作品の名場面、
たとえば「東京暮色」の小料理屋「小松」における、
女将の浦辺粂子と客の笠智衆、田中春男の顔を
思い浮かべながら味わってみると、
多少ありがたみが増したような気がしないでもなかった。
でもネ、信州の清酒ならば、
諏訪の真澄、あるいは木曽の七笑のほうを愛でるなァ。
 
=つづく=

2016年3月14日月曜日

第1315話 小津の愛したダイヤ菊 (その9)

新橋駅前広場に面して、むか~しからあるニュー新橋ビル。
その地下1階は「酒蔵 ダイヤ菊」の奥まった卓に二人。
目当てのロードショウをすべったために
晩酌を繰り上げているわけだ。

 ♪    心に沁みる 雨の唄
    駅のホームも 濡れたろう
    ああ小雨にけむる デパートよ
    今日の映画(シネマ)は ロードショー
    かわす囁き
    あなたと私の 合言葉
    「有楽町で逢いましょう」  ♪
       (作詞:佐伯孝夫

ああ、なんて素敵な曲なんでしょう。
作曲者・吉田正の国民栄誉賞もむべなるかな。
彼の先輩、佐伯孝夫の歌詞もまた素晴らしく、
J.C.がもっともリスペクトする男性歌手・フランク永井も
一世一代の名唱を披露している。
わが愛する「にっぽんの歌」で
間違いなくベストスリーに数えられる楽曲なのだ。
いや、ひょっとしたらベストワンかもしれないが
それは今決めたくはない。

この曲のリリースは1957年11月。
歌詞に登場するデパートは今は無き有楽町そごう。
鳴り物入りでオープンしたのは半年前の5月25日だった。
不振にあえいであえなくクローズしたのが2000年9月24日。
半世紀に満たない短い命であった。

この時期、歌謡週刊誌「平凡」が同名の小説を連載したり、
映画会社の大映が同名映画を製作したりしている。
小説は未読につき、評価しかねるが
映画はヒドいデキで目を覆うばかり。
せっかく好きな女優の京マチ子を主役に持ってきてるのに
飼い殺しもいいところであった。

小津安二郎の大ポスターににらまれながら生ビールで乾杯の巻。
突き出しはコンニャクの炒り煮だ。
壁の品書きボードを見上げた。
お造り5点盛り(1680円)を筆頭に
〆さばや真鯛刺し、たこ刺しの生モノ。
ホッケ、うるめいわし、ししゃも、いか一夜干しの焼きもの。
串カツ、アジフライ、芝海老揚げの揚げもの。
一応、一通り並んでいる。
中でも湯豆腐(600円)と馬刺し(880円)に印が付いているから
これが当店のオススメなのであろう。

すると相方のP子が反対側の壁を指さした。
振り返ると、おう、おう、手ごろな品々があるじゃないの。

=つづく=

2016年3月11日金曜日

第1314話 小津の愛したダイヤ菊 (その8)

久保田早紀の「異邦人」である。
彼女の才能に瞠目したのは2番の歌詞であった。

 ♪   市場へ行く人の波に
   身体を預け
   石だたみの街角を
   ゆらゆらとさまよう
   祈りの声 ひずめの音
   歌うようなざわめき
   私を置きざりに
   過ぎてゆく白い朝  ♪

殊に赤字部分はまさしくイスラムで
本当はまっことアラブ的と評したいところなれど、
久保田早紀に影響を与えたのはイランの音楽だから
ペルシャ的と表現せずばなるまい。

J.C.が初めてアラブ圏に足を踏み入れたのは1973年のカイロ。
その後、1984年にはパキスタンのカラチと
トルコのイスタンブールを訪れた。

  祈りの声 ひずめの音
  歌うようなざわめき

イランのテヘランがそうであったように
カイロもカラチもイスタンブールもまさしくであった。

脇道から本題に戻る。
鳥や雲や夢までも子供たちがつかもうとしたごとく、
ニュー新橋ビルの居酒屋群は両手をひろげて
われわれを迎えようとしていた。

ザッと一めぐりして1軒の店先に足がとまる。
ん? う~ん、どことなくデジャヴュ。
立派な欄間看板には「酒蔵 ダイヤ菊」とあった。
・・・ ・・・
ゥワッ!
十数年の時を経て記憶がよみがえり、思わず発した叫び声。
忘れもしないムック「いま、小津安二郎」で紹介された、
あの「酒蔵 ダイヤ菊」だったのだ。

折よく奥から女将が姿を現し、われわれを店内へと誘(いざな)う。
これじゃ断り切れないよねェ。
ってゆうかァ、心の中では決めていた。
むろんのこと、相方に異存があるはずもない。

店内は右手にカウンター、左手にテーブル席のレイアウト。
左奥に隠れスポット的な1卓があった。
世間をはばかる関係ではないにせよ、
一応そこに身を落ち着けてみる。
おっと! 壁には小津の大きなポスターときたもんだ!

=つづく=

2016年3月10日木曜日

第1313話 小津の愛したダイヤ菊 (その7)

ひとまず劇場を右手に出た。
すると目の前には黒山の人だかりである。
それも若い女性ばかりが選り取り見取り状態だ。
いや、こっちが選っても向こうがお断りってか?
もっとも多少トウの立った方が散見されはしましたけどネ。
そう、スカラ座のお隣りは東京宝塚劇場でありました。
それにしてもスゴカねェ、
タカラジェンヌの人気ときたら衰えることを知らない。

帝国ホテル新館(といってもかなり古いがネ)前のJRガードをくぐり抜け、
コリドー街を土橋に向かって歩む。
進路を新橋方面に取ったことになる。
コリドー街はちょいと見ないあいだにずいぶんと店が入れ替わった。

ただし「美登利寿司」だけは相変わらずの行列だ。
ここが理解に苦しむところ。
せっかくの銀座、ほかに行くべき鮨屋はいくらでもあるだろう。
どうせなら世田谷区・梅ヶ丘の本店に遠征することを勧めたい。
まあ余計なお世話の指摘を受ければそれまで、
自分が悪くありました。

新橋仲通りから赤レンガ通りを流してゆく。
暖簾を出していない店が多いのは日曜のせいもあろう。
この調子じゃ御成門、浜松町界隈に足を延ばしても
よい結果は生まれまい。

新橋駅前に舞い戻った。
ニュー新橋ビルの地下なら多くの居酒屋が両手をひろげて
われわれを待ち受けているハズだ。

 ♪   子供たちが空に向かい 
   両手をひろげ 
   鳥や雲や夢までも
   つかもうとしている
   その姿はきのうまでの
   何も知らない私
   あなたにこの指が
   届くと信じてた      ♪
    (作詞:久保田早紀)

1979年秋にリリースされた久保田早紀の「異邦人」。
とにかく衝撃的だった。
何だって素人同然の21歳がかくも素晴らしい楽曲を
作詞・作曲できたのであろうか?

曲のほうはいランの民族音楽の影響を多分に受けている。
彼女の父親がイランに赴任していて
幼少の早紀に当地の音楽を吹き込んでいたからネ。

しかし、J.C.がより驚いたのは歌詞のほうであった。
例によって脇道の迷い道なれど、次話をお待ちくだされ。

=つづく=

2016年3月9日水曜日

第1312話 小津の愛したダイヤ菊 (その6)

1950~60年代のニューヨークには
自分がその時代をミスしているだけに憧憬に似たものを覚える。
往時の米社会には人種差別や異端蔑視など、
マイナー要因がまだ残っており、
ワスプをはじめとするセレブ以外の人々には
それぞれ住みにくさがあったはずだが
古き良き時代の香りに満ちていたこともまた事実なのだ。

スクリーンにその匂いを求めると、
2本の名作が真っ先に思い浮かぶ。
J・レモン主演、B・ワイルダー監督の「アパートの鍵貸します」。
A・ヘップバーン主演、B・エドワーズ監督の「ティファニーで朝食を」。
どちらも高校生のときに観たけれど、とてもいいよねェ。

もっとも「アパートの~」は初見からその良さが判ったが
「ティファニーで~」のほうは子どもには少々難しく、
理解できたのは大人になって再見したときだ。
同時期に観た同じヘップバーンの「シャレード」には
一発で魅了されちまったのになァ。

さて、結局は薬局、P子の殺し文句にあえなく轟沈。
つき合わされる羽目となった。
映画は「キャロル」@みゆき座であった。
みゆき座といえば現在は
すぐ近くのスカラ座の建物に引っ越して来ている。
こういうことってあるんですネ。

すでに日比谷の映画街から有楽座も日比谷映画も消えた今、
2館の存続は懐かしくもあり、心強くもある。
初めてのスカラ座は1965年の夏。
「太陽がいっぱい」のリバイバル・ロードショウだった。
一方のみゆき座はおそらく同年か翌年、
「嵐が丘」、あるいは「昼下がりの情事」だったと思う。
みゆき座は伝統的に女性映画をウリとしているのだ。

P子と待合せたのは帝国ホテルのロビー。
久々の再会だったが相方は肌の色艶もよく、
健やかそうで何より。
さっそく劇場に向かった。

向かったものの、
20分後に上映される直近の回はすでにチケット完売の憂き目だ。
いいでしょう、いいでしょう、これも想定の範囲内。
およそ2時間半を飲んで食べて語り合えば、それで済むことサ。

リクエストを訊ねると、
「おまかせするワ」の気のない返事。
火のないところに煙は立たず、気のないところにヤル気は立たない。
それでも頭の中を候補店がグルグル回り始めた。

丸の内「レバンテ」でかきフライと白ワイン。
銀座「竹葉亭」で鯛かぶと煮に上燗。
新橋の「直久」なら餃子と生ビール。
第一感はそんなところでありましょうか―。

=つづく=

2016年3月8日火曜日

第1311話 小津の愛したダイヤ菊 (その5)

さて、巨匠・小津安二郎に寵愛された、
三上真一郎といえば若山富三郎の子分役だ。
これが渡世の義理から
伯父貴の鶴田浩二に命を投げ出す破目に陥る。
ここに三島由紀夫が指摘するところのギリシャ悲劇が生まれる。

う~ん、実によかった。
いや、命の投げ出しがいいんじゃなくって
演技がよかったんだヨ、真公のっ!
早いハナシが「総長賭博」は隅から隅まで好循環。
主役の二人に加え、
監督の山下耕作にもこれ以上の写真はないハズだ。
さらに加えてヒール役の金子信夫が
オー・マイ・ゴッドの大当たり!
日本映画界の至宝ともいえるバイプレイヤーの二大名演は
本作と裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」でありましょう。

振り返ればみんな死んじまったんだなァ。
みんな死んじまったんだヨ。
おっと、三上だけはまだ生きてる、生きてる。
「いま、小津安二郎」の三上の文章には
数葉のスナップが挿入されており、
すべてが新橋駅前ビル地下の酒場がらみ。
その名も「酒蔵 ダイヤ菊」ときたもんだ。

十数年前に目を通した一冊にもかかわらず、
この酒場のことをすっかり忘れていた。
その折りは明日にも訪れるつもりでいたのに
歳はとりたくない、まったくイヤになっちゃう。
その頃、古都・鎌倉在住の旧友・P子よりメール到来。
いや~な予感がしやしたネ、いったい何事かと思いきや、
此度は1本の映画につき合えとの仰せであった。

「映画かい? 映画はいいや、ほかを当たっておくれ」―
すげなく断りを入れると
「アカン、あかん、何言うてけつかるねん。
 観なきゃあきまへんって」ー
コヤツいつから大阪弁くっちゃべるようになったんかいのぉ!
源氏が平家におもねるようになったら世も末だわ。

「とにかく1本つき合って!」
「最近の映画は邦・洋ともに時間の無駄が多すぎてなァ」
「まあ、そう言わんと―」
「ダメ、ダメ、ムリ、ムリ!」
「ふん、判らずやっ! 舞台は1950年代のニューヨークなのに―」
「エッ?」
あとは心の中で叫んでいた。
(初手からそう言うてくれいっ!)

=つづく=

2016年3月7日月曜日

第1310話 小津の愛したダイヤ菊 (その4)

三上真一郎が出演した小津の2作品は観ている。
べつに監督が手放しで歓ぶほどの名演技を披露したとも思えない。
ただし、育ちの良さそうな若い男優が
ほとんど登場しない小津作品にあって
一服の清涼剤的な役割は十二分に果たしているとは思う。
 
俳優・三上真一郎の印象がもっとも強かったのは松竹ではなく、
東映移籍後の第一作、任侠映画の「博奕打ち 総長賭博」。
あの三島由紀夫が絶賛した作品である。
今まで色眼鏡で観られていたヤクザ映画が
彼によって新しい息吹を吹き込まれたのだ。
おかげでご法度の裏街道を歩いていた作品群が
日の目を見ることができたんだからねェ。
コレはすでに大事件であった。
ギリシャ悲劇との同一性を謳われたのだからさもありなんて―。

仕上がりは確かにすばらしく、
任侠映画では高倉健の昭和残侠伝シリーズや
同じ鶴田浩二主演の人生劇場シリーズの上をゆき、
マイベスト1に君臨している。
すべての邦画中でも生涯の第三位に輝いているくらいだ。
エッ? 一位と二位は何だ! ってか?
それはまた紹介する機会もございましょう。

「博奕打ち 総長賭博」が封切られたのは1968年。
そう、釜本邦成&杉山隆一を擁する日本代表が
メキシコ五輪において銅メダルを獲得した年である。
ちなみにこの年のレコード大賞は黛ジュンの「天使の誘惑」。

今、手元に古き友人、
高平哲郎サンの「星にスイングすれば」がある。
各界のスターたちに体当たりで取材したインタビューを
まとめた著作なのだが、そこにこうあった。

「博奕打ち 総長賭博」を封切り前に観た主演の二人、
鶴田浩二と若山富三郎は観終わって
しばらく席を立てなかったそうだ。
そして二人のほほにはそれぞれ二すじの涙がかかっていたそうだ。

スゴいねェ、スゴいなァ、本当にスゴい。
TVのロケに出かけるたんびに”スゴ~いッ!”を連発してる、
女子アナ・女子タレとは次元がまったく違いまっせ。
おのれの無知と語彙の貧困を”スゴ~いッ!”でさらけ出してる、
バカどもとはまさしく真逆にあるのです。

鶴田の妹が当時美しさ満開の藤純子。
彼女の夫が若山富三郎。
したがって鶴田&若山は縁戚上の義兄弟でありながら
渡世の上でも兄弟分なのでした。

つづく=

2016年3月4日金曜日

第1309話 小津が愛したダイヤ菊 (その3)

小学館発行の Shotor Library は「いま、小津安二郎」。
巨匠に可愛がられた三上真一郎の一文を続けよう。

いつものように飲まされてもうフラフラ。
最後の方はよく覚えていないんですが
突然アコーディオンが鳴り始め、
軍艦マーチの演奏が始まったんです。
小津先生の横で飲んでいたのですが、
先生が立ち上がって敬礼した。

あの「秋刀魚の味」のバーでの敬礼シーンです。
それに合わせて、40名ほどのスタッフも全員立ち上がり、
座敷の真ん中に立っている先生を囲んで
グルグル行進したんです。
「小津先生に敬礼!」って言いながらね。

あのときぼくは行進組に入らずどういうわけか
敬礼を受けている先生の横に立って
敬礼をしていたところまでは覚えているんですがね。

後に山内プロデューサーから
「真公には呆れたよ」といわれちゃって
「なんです?」と聞き返すと、
「本当に覚えていないのか?」という。

よく聞いてみると、輪の中心で先生とぼくが
並んで敬礼したまではよかったんですが
そのうち軍艦マーチのリズムに合わせて
こともあろうに先制の頭をピシャピシャと
たたいていたというんですが・・・
この話どうやら
山内さんの作り話じゃないかとぼくはにらんでいます。
いくらチンピラ役者でも、そこまではしませにょと思いながら
いや有りうることだな?とも考えています(笑)。

小津先生にかわいがっていただいたのは4年間という短い期間。
でもその出会いはトマトケチャップに缶ミルク、
チーズまで放り込む先生の大好きな「ごった煮鍋」のような、
すべてが持ち込まれた味わい深い日々でした。

愛しのチンピラ弟子に頭をたたかれて
さぞや巨匠もご満悦だったことだろう。
それにつけてもチンピラは惜しいことをしたネ。
「秋刀魚の味」が遺作となってしまったが
あと10年、監督が長生きしてくれたなら
俳優・三上真一郎のステイタスはグ~ンと上がったに違いない。
たとえ1年に1本でも10作品に出演できたのだから
偉大なバイプレイヤーとして
映画史に名を遺すことができたろう。

=つづく=

2016年3月3日木曜日

第1308話 小津の愛したダイヤ菊 (その2)

完成稿の代わりに下書きをアップさせて出かけてしまい、
失礼しました。
最近、こういうことがちょくちょくあるのは
ホンに困りものであります。
遅ればせながらまいりましょう。

「いま、小津安二郎」にて筆をとったのは俳優・三上真一郎。
抜粋しながら紹介したい。

”巨匠とチンピラと酒食の日々”

ぼくはね、小津先生の作品には
「秋日和」と「秋刀魚の味」の2本に出してもらったけど、
NGを出された記憶がまったくないんです。

「秋刀魚の味」の岩下志麻さんは、
父親から縁談を勧められたあと、
ひとり巻尺を手に想いにふけるシーンで
何回もダメを出されたといいます。
もちろん、笠智衆さん、佐田啓二さんのようなベテラン陣にも
厳しかったと聞いています。

小津先生と初めて飲んだのは「秋日和」の撮影終了後。
鎌倉の天ぷら屋で、最初に熱燗を杯に注いでくれて、
「後は好きにやってくれ」と、
こっちは貧乏だし、食べ盛り。
しかも、巨匠とチンピラの関係だから、
まったく臆することもなく、食べましたね、飲みましたね(笑)。

それが、小津先生には新鮮に映ったようで、
「真公、お前のような役者は誰も使わないよ。
おれは1年に1本しか撮れない貧乏監督だが、
おれで我慢しろや。撮るときは必ず真公を使うから」
といってくれて、それ以後いろいろ呼ばれては
ご馳走になりました。

蓼科の別荘に行ったときは朝から熱燗。
銘柄は、蓼科の地酒「ダイヤ菊」。
やかんにお湯を張って、
「ちろり」という錫の燗つけ器で湯煎するんですが、
決まって温度は55度。
熱いなんてもんじゃない。
フーフーいってちびちび飲んでいると、
「真公二日酔いか?」なんて、
平気な顔して飲んでいるんです。
酒量は大酒のみと表現する以外ないでしょう(笑)。
ぼくはいつも酔い潰れていましたから。

あれは「秋刀魚の味」の打ち上げを、
鎌倉の華正樓という中華料理店でしたときのこと。

=つづく=

2016年3月2日水曜日

第1307話 小津が愛したダイヤ菊 (その1)

ダイヤ菊なる酒をご存じだろうか?
信州・諏訪が産する清酒である。
紹介するにあたり、造り手のHPを無断借用させていただこう。
別段、叱られることもないと思われるし・・・。

ダイヤ菊の歴史
 
当蔵は享保2年(1717)に
諏訪高島藩御用商人米問屋の「大津屋」として創業いたしました。
その後大正3年(1914)酒造りに乗り出し、

酒造りに適した立地条件と、先人の努力が実り、
当時の銘柄「ダイヤ菊」「ダイヤ鶴」は
東京市場でも大いに受け入れられるほどの人気を博しました。

その後昭和26年(1951)ダイヤ菊酒造株式会社を設立し、
地元の皆さんや小津安二郎監督をはじめとする、
茅野を訪れた様々な方々に愛され現在に至っております。
なお「ダイヤ菊」の名称は

最高の宝石「ダイヤモンド」と日本の名花「菊」を組合せ、
最高のお酒を目指して名づけられたものです。

米問屋が酒造りを始めて1世紀の歴史を刻んでいる。
ダイヤ菊酒造はその後2008年に
社名を諏訪大津家本家酒造と改称した。
往時、ダイヤ菊とともに醸造されていたダイヤ鶴は
現在、製造されていない。

この国ではちょうど1世紀半前、
菊が栄えて葵は枯れた。
いや、菊が栄えるために葵を滅ぼしたのだ。
歴史は繰り返すものなんだねェ。
信濃の国でも菊は咲き誇り、
鶴は北の空に消えたまま戻ってこない。

大津家本家のHPに映画監督・小津安二郎の名前が見える。
小津はたびたび脚本家の野田高梧を伴って
蓼科高原の別荘にやって来ている。
ベツに遊びに来たわけではない。
新作を仕上げるための遠征だ。

要するに大事な仕事なのだが
実体はほとんど酒浸り状態だった。
このとき彼らが浴びるように飲んだのが
地酒のダイヤ菊だったというワケだ。

手元に「いま、小津安二郎」なるムックがある。
小学館のショトルシリーズ、
Shotor Library に納められた1冊は2003年の発行。
ここに清酒ダイヤ菊にまつわる一文を見つけた。
次話で紹介してみたい。

=つづく=

2016年3月1日火曜日

第1306話 パキスタンの思い出(その7)

北緯25°に位置するカラチは
台湾の台北、東京都の硫黄島と同緯度にある。
だのにめちゃくちゃ暑い。
硫黄島には行ったことがないけど、台北よりはるかに熱いネ。

さて、10分と経たずに戻った彼女の手には小さな缶が一つ。
そのときすでに缶コーヒーが存在していたかどうかは知らねど、
それと同サイズだったろうか?
缶ビールよりずっと小さかったことだけは確かだ。

これが何と当時の日本を席巻していた、
サントリーのタコチューハイでありました。
もちろん、飲むのは初めて見るのも初めてだった。
シンガポール赴任時代は年に数回、
ホーム・リーヴやビジネス・トリップで帰国していた。
日本でついぞ目にしなかったのは
酎ハイはおろか焼酎自体に興味がなかったせいもあろう。

とにかく二日ぶりのアルコール飲料である。
ありがたく押し戴いて感謝の言葉を述べる。
冷蔵庫に保管されていたらしく、
いい感じに冷えていたが厳格な禁酒国で
真っ昼間から酒をあおるのはよくない。
よくないどころか秘密警察に見つかりでもしたら
わが身の安全は保証されない。

クルー仲間と一緒に引き上げる彼女と握手を交わし、
プールで100m ほど泳いだ。
時刻はまだ15時半、
タコチューハイとともに部屋に戻り、
とにかく夜の帳が降りるのを待つ。

デートの相手を待つ身もツラかろうが
時間の経つのを待つ身もまたツラい。
とまれ、やって来ましたセヴン・オクロック。
スーツやタイの備えはなくとも
一番オサレなシャツを着込んでみた。

メインダイニングはホテルの最上階。
東京はホテル・オークラの「ベル・エポック」みたいなものだ。
まずはビールを1本、
それから赤ワインのハーフボトルに移行する腹積もりである。
蝶タイを締めたギャルソンにさっそくお願いすると、
Oh, my God !
またまた首を振られたヨ。
「お客様、リカー類はルームサービス・オンリーとなっております」

  ♪   俺らこんな国いやだ 俺らこんな国いやだ
    トルコに行ぐだ トルコさ行っだなら
    銭コァ使っで トルコで酒飲むだ  
    ああそうしましょ そうしましょ
    そうしましょったら そうしましょ   ♪

吉幾三作詞・作曲の「俺ら東京さ行ぐだ」が
世に出たのは1984年11月、
カラチ事件からちょうど半年後のことでした。

=おしまい=