2011年9月2日金曜日

第132話 鮨屋は二十歳になってから (その2)

さっそく昨日のつづき。
伊集院サンのコラム、
「それがどうした」における鮨屋のくだりである。

勿論、子を連れてきた母親なり、
父親(時々、祖父母)が非常識なのだが、
やはり店が子供を追い出すべきだろう。

大人が二人、何年ぶりかで鮨屋で逢い、
― そうか、おまえと逢って飲むのも、
今夕が最後となるかもしれないのか・・・。
とそういう事情で大人の男が酌交している隣りで、ガキが、
「トロ握ってよ、サビ抜きで」と言いやがったら、
地球上に何人ほど大人の男がいるのかは知らぬが、
無条件でそのガキの頭を引っぱたくのは自然なことだろう。

第一、手の届くところに刃物がある場所に子供を置く親があるか。
突然、鮨屋の主人が発狂したらどうするのか。

言えてますね、おっしゃる通り。
もっとも客商売だから入店してきた家族連れを
頭から追い出すのは無理があろう。
「酒を飲めない未成年、および車を運転の方お断り」―
これくらいはキッパリ宣言してもよい。
鮨屋のつけ台は二十歳を過ぎてからだ。

主人の発狂もありえなくはないが、そこまで考えだしたら
子どもを駅のプラットフォームに立たせることもできなくなる。
でも、伊集院サンのようにハッキリ物事を言い切れる男が
めっきり少なくなった今日びのニッポンでは貴重なご意見。
今の世の中、右を見ても左を見ても玉ナシ男ばっかりで
タマに玉アリに出会うと、今度はフニャチン野郎ときたもんだ。

半月ほど前、築地の河岸に出掛けた折、
十数年ぶりでY枝にバッタリ出くわした。
彼女は一時、銀座のオーセンティックなバーで
バーテンダレスの見習いをしていたが
ほどなく勤め人と所帯を持ち、今じゃ2児のママである。
互いにツレがないのを幸いに場内で昼めしをともにした。

何でもご亭主の晩酌用に刺身を買いに来たとのこと。
小学生の息子たちも生モノには目がなく、
週末に近所の安直な鮨屋に揃って出掛けるのが
目下、一家4人の最大の楽しみであるらしい。
平和だネ。

昼めしを食いながら、鮨屋談義をひとしきり。
「安いったって、4人じゃそこそこ取られるだろ?」
「ううん、チェーン店みたいなとこだから」
「皿がくるくる回ってるとこかい?」
「そうじゃないけど、似たり寄ったり」
「真っ当な鮨屋にガキなんか連れて行くんじゃないよ」
「判ってるわよ、ワタシもダンナもバカ親じゃないもの」
ほほう、あらためてY枝を見直したものである。

イートインでも持ち帰りでも
くだらんチェーン店が町場の鮨屋を絶滅に追い込んだ。
昔の親は何かいいことがあったときやふいの来客があったとき、
近所の鮨屋に出前を頼むついでに
子どもたちにもひと桶ずつあてがってくれた。
そうして子どもたちの食べる様子を観察したものだ。

好きな種からパクパク食べ始める子、
後生大事に好物をあとに残しておく子、
その様子からわが子の性格や嗜好をつぶさに分析していた。
猪突タイプの子の手綱は引き締め、引っ込み思案の尻はたたく。
こうして親子の情愛は育まれていった。
愚痴になるが、こんな親子はいくらも残っちゃいまい。
あの時代、鮨桶の中には日本人の温もりがあった。
桶の中の小さな宇宙で子どもたちは思う存分、遊泳したのだ。