黒毛和牛を廉価で提供する昼めし専門店「なり升」。
すきなべランチを食べ終えたところで
ふと思い出したのは
記憶の奥に閉じ込められていた一軒の大衆割烹だった。
ときは四十有余年の以前。
ところは板橋区・成増。
奇しくも今いるのは荒川区・町屋の「なり升」だ。
「S」という名の店で独り冷酒を楽しんでいた。
つまみの刺身はまぐろではなく、平目だったと思う。
もう一品は飛竜頭でこれはよく覚えている。
生まれて初めて食べた料理だし、
名前の由来を店主から聞かされたからネ。
ほかに客はやはりカウンターに1人と
小上がりに3~4名のグループだけだった。
グループが女将に会計の声を掛け、
ほどなく代表者が
「すみません、お勘定を50円マケてください!」―
女将の顔に一瞬、困惑のかげりが浮かんだのを
ハッキリと見覚えている。
客の声を耳にした店主がすかさず、
「お断りしますっ!」―ピシャリと言い放ち、続けて
「食べもの屋で勘定をマケろと言うと恥をかきます。
それはおやめになったほうがよろしいです」―
店内に緊張感が走ったが予期せぬ剣幕に驚きながらも
恐縮し切った客が平謝りに謝り、逆に心づけを申し出る始末。
もちろん店主は固辞して受け取らず、
女将ともども笑顔でグループを送り出したのだった。
芝居か映画の名シーンにふれた気がして
こちらの背筋が伸びた。
今までのダラダラ飲みを恥じ入り、
姿勢を正して酒盃を口元に運ぶ。
後日、再訪した際にこんなこともあった。
カウンターの端にいた常連と思しき客が
「オヤジさん、今日は鮑ありますか?」
店主応えて
「鮑ございます。しかし、造れません。
おとついのシナモンでございますから・・・」
いや、シビれやした。
当世の若い料理人に聞かせたいくらいのものだ。
若い頃に柳橋の料亭で修業した店主は
当時、古希を超えていたハズ。
すでにこの世にはおられまい。
以来、この人の料理もさることながら
謦咳(けいがい)に触れたくて
乏しい小遣いをやりくりしながら何度か訪れた。
その度に満足して家路に着くのだった。
はるか遠い戻らざる青春の日々。
=おしまい=
「なり升」
東京都荒川区町屋2-9-25
03-3892-4928
すきなべランチを食べ終えたところで
ふと思い出したのは
記憶の奥に閉じ込められていた一軒の大衆割烹だった。
ときは四十有余年の以前。
ところは板橋区・成増。
奇しくも今いるのは荒川区・町屋の「なり升」だ。
「S」という名の店で独り冷酒を楽しんでいた。
つまみの刺身はまぐろではなく、平目だったと思う。
もう一品は飛竜頭でこれはよく覚えている。
生まれて初めて食べた料理だし、
名前の由来を店主から聞かされたからネ。
ほかに客はやはりカウンターに1人と
小上がりに3~4名のグループだけだった。
グループが女将に会計の声を掛け、
ほどなく代表者が
「すみません、お勘定を50円マケてください!」―
女将の顔に一瞬、困惑のかげりが浮かんだのを
ハッキリと見覚えている。
客の声を耳にした店主がすかさず、
「お断りしますっ!」―ピシャリと言い放ち、続けて
「食べもの屋で勘定をマケろと言うと恥をかきます。
それはおやめになったほうがよろしいです」―
店内に緊張感が走ったが予期せぬ剣幕に驚きながらも
恐縮し切った客が平謝りに謝り、逆に心づけを申し出る始末。
もちろん店主は固辞して受け取らず、
女将ともども笑顔でグループを送り出したのだった。
芝居か映画の名シーンにふれた気がして
こちらの背筋が伸びた。
今までのダラダラ飲みを恥じ入り、
姿勢を正して酒盃を口元に運ぶ。
後日、再訪した際にこんなこともあった。
カウンターの端にいた常連と思しき客が
「オヤジさん、今日は鮑ありますか?」
店主応えて
「鮑ございます。しかし、造れません。
おとついのシナモンでございますから・・・」
いや、シビれやした。
当世の若い料理人に聞かせたいくらいのものだ。
若い頃に柳橋の料亭で修業した店主は
当時、古希を超えていたハズ。
すでにこの世にはおられまい。
以来、この人の料理もさることながら
謦咳(けいがい)に触れたくて
乏しい小遣いをやりくりしながら何度か訪れた。
その度に満足して家路に着くのだった。
はるか遠い戻らざる青春の日々。