2018年3月20日火曜日

第1831話 隠し文書の三悪人 (その1)

長嶋茂雄がプロデビューした1958年。
年末に黒澤監督の「隠し砦の三悪人」が公開された。
あとに続いた「用心棒」、「椿三十郎」に比して
ずいぶん見劣りするように感じたが
’59年のキネマ旬報ベストテンでは第2位に輝いている。
観る目がなかったのかなァ・・・
なんて振り返る今日このごろである。

それはそれとして「隠し文書の三悪人」。
こういうテーマはあまり語りたくないけれど、
温厚なJ.C.もとうとう堪忍袋の緒がプッツン。
ほかにもいろいろ悪いのがいるものの、
代表格三人をお白洲に引き立ててみたい。
三人が誰を指すのか、言わずもがなでありましょう。

大悪たちは一番の小者である、
理財局長にすべての罪を引っ被らせる魂胆。
哀れ小者はスケープゴートにされている。
野党が追及したり、各種メディアが論評していることを
上塗りしても仕方ないから矛先の角度を変えたい。

まず、三悪人に共通するのはその悪相である。
いや、いずれをとっても悪い顔をしてるよなァ。
ああいうのを毎日見せつけられる善良な市民は
やりきれんヨ、ジッサイ。

顔の良し悪しは持って産まれたもんだから
仕方ないんじゃないの?
そう思われる向きも少なくなかろう。
いや、けっしてそうではない。

文豪・森鷗外だったかな?
人間、四十を過ぎたら
自分の顔に責任を持つべし、と言ったのは―。
アメリカの第16代大統領・リンカーンもまた、
同じ主旨の言葉を残している。

産まれたときからあんな顔であるハズはなく、
その後の生き方が悪相のモトで
人倫の道を正しく歩まなかった結果がアレなのだ。
この点、フランスの哲学者、
ジャン=ポール・サルトルの唱えた実存主義に通ずる。

加えて三悪人はすぐキレる。
痛いところを突かれると瞬時に逆ギレする。
あの醜態は女房に浮気がバレたときの亭主さながら。
恥ずるべし。

振り返れば、先の衆院選はいったい何だったんだろう?
首相は「国民の力強い支持をいただいた」、
なあんてうそぶくけれど、
票を集めたのは党であって、首相本人ではなかろう。

=つづく=