2019年10月18日金曜日

第2244話 とんかつ屋の「東京物語」 (その1)

この日の夕餉の仕度は自らキッチンに立つつもり。
食材の仕入れ先はJR御徒町駅前の「吉池」だ。
その前に遅めの昼餉。
久々に松坂屋裏の「蓬莱屋」を訪れた。
最後に来たのは2002年9月だから丸17年ぶりになる。

1週前、アメ横裏のマツコが居るとんかつ屋、
「まんぷく」の稿で宣言した通り、
上野とんかつ屋めぐりの一環である。

店先はしょっちゅう行ったり来たりしているので
懐かしさを覚えはしないが、やはり入店して
見覚えのあるL字形カウンターに腰を下ろすと
往時のことが思い出される。
その際、同伴した相手の面影すら偲ばれた。

「蓬莱屋」はとんかつでもヒレカツの専門店。
この店を生涯愛し続けたのが映画監督・小津安二郎だ。
彼の遺作となった「秋刀魚の味」(1962)には
佐田啓二と吉田輝男が相対し、
とんかつ屋で飲食するシーンがあるが
まるで「蓬莱屋」2階の座敷そのまんま。
ロケではなくセットでの撮影だけど、
二人が食べるとんかつは当日、
「蓬莱屋」から取り寄せたというから念が入っている。

佐田が妹・岩下志麻の縁談を
会社の後輩・吉田に持ち掛けると、
この直前に吉田は他の女性と言い交しており、
もっと早く言ってくれればと残念がる。
岩下ほどの美貌なら
約束相手を袖にしても振り替えそうなものだが
そんな不実など毛頭ないのが昔の人のいいところ。
いや、小津映画の美点と言うべきか―。

晩年の小津は盟友の脚本家・野田高梧とともに
蓼科高原にある野田の別荘で脚本の執筆に専念したが
仕事の合間にこんな戯れ歌まで作っている。

♪   雨の降る日の蓼科は
  薄ら寒さの身にしみて
  足を丸めて昼寝すりゃ
  とんとん とんかつ食いたいな
  蓬莱屋が懐かしや    ♪

好きだったんだねェ。

さて、現実に戻っておもむろに品書きを開いた。
ヒレカツ定食と一口かつ定食がともに2980円。
カツ&かつの不統一はたまたまなのか、
それとも意図するところか、客には判らない。

ん? なんじゃ、こりゃ?
五つの漢字に目を瞠った。

=つづく=