自宅のキッチンでニシンを焼いている。
幼少時から慣れ親しんだサカナである。
その頃の記憶をたどると、
イワシやサンマやアジの塩焼きよりも
ニシンのそれをよく食べた気がする。
ふむ、なぜだろう?
当時はさして気にもかけなかったが、おそらく亡父の好物だったのだ。
いや、そうに違いない。
思い起こせば夕餉の献立は母親が父親に伺いを立てていたように思う。
一家でふるさとを離れ、上京して間もない逆境の時代も
そのならわしは変わることがなかった。
もっとも状況が状況だけに命ずるほうもあまり無理は言えなかったハズ。
それでも指示されたほうはやり繰りに苦労したものと推察される。
あらためて母に、メニー・サンクス!
若い頃、欧州を放浪していた際もニシンにずいぶんとお世話になった。
オランダやスウェーデンではもっぱら酢漬け、
イギリスでは燻製を楽しんだのだ。
さすがにスウェーデンの特産缶詰、
あの悪名高き、シュールストレイミングだけは
一口、味見しただけでドン引き、以来口にしていない。
琵琶湖特産の鮒ずしと並び、わが苦手食品の双璧である。
思い出話もそこそこに、ニシンが焼き上がった。
ふくれた腹を箸先で突っついてみたら案の定、数の子がびっしり。
とにもかくにもうれしいなァ。
ここで思い当った。
これだけの抱卵ぶりである。
ニシンの語源はニンシンにあるんじゃあないかとネ。
まず全体にフレッシュレモンを搾った。
そのうえで上半身には生醤油をたらし、口元に運ぶ。
う~ん、美味いぞなもし。
本当は塩をして、ひと晩おきたかったのだが
そんな悠長なことはしていられやしない。
大量の卵にはさらに藻塩を振った。
いいネ、いいネ、特有の歯ざわりを堪能する。
数の子の残り半分と下半身には
ヴァージンオリーヴオイルとオレガノを振り掛けたら、これもよし。
たまらずほどよく冷やしておいたブルゴーニュの白を抜栓。
自分自身に乾杯してヘリンとともに味わう。
すると口内ではシュールストレイミングならぬ、
シンクロナイズド・スイミングと相成ったではないか!
いやはや、たまりませぬな。
春告魚の異名をとるニシン。
望外の口福に、わが身にも遅すぎた春が訪れたのでありました。
=おしまい=