2015年9月4日金曜日

第1179話 池波翁の「銀座日記」 (その26)

「銀座日記」を読んでいて、気が滅入るのはこちらのほうである。
食欲が失せて目方が減り、心細さを嘆く翁が気の毒でならない。
(舞台の鬼平)を続ける。

一日中、ミゾレまじりの雨となる。
出るのをやめようとおもったが、
おもいきって、地下鉄で歌舞伎座の[鬼平犯科帳]を観に行く。
出てしまえば、さして寒くないのだ。
私が[鬼平ー狐火]の脚本を書いたのは、二十二年も前ののことで、
いうまでもなく、先代の幸四郎(白鸚)さんのテレビの鬼平が
大好評であったことから、東宝(当時、白鸚さんは東宝にいた)が
明治座の舞台にかけたのである。
いまの幸四郎、吉右衛門は盗賊の狐火兄弟を演じた。
今回は、八十助と歌昇が演じて、なかなか、よかった。

外へ出て、何を食べようか、と考える。
迷うことなく、[新富寿司]へ行った。
食べられるかどうかとおもったが、ぺろりと食べてしまう。
こういうときは握り鮨にかぎる。
[清月堂]でコーヒーをのんでから、[凮月堂]へ寄り、
アイスクリームとシャーベットを買って帰る。
あまりに疲れたので、タクシーを拾い、帰る。

そうですネ、食欲を失ったときはにぎり鮨にかぎりますネ。
何十年も以前、知り合いの幼女の入院先に
鮨の折詰をぶら下げて見舞ったことがあったが、折を開いた瞬間、
その子の瞳がパッと明るくなって輝いたのをよく覚えている。
その食味のみならず、見た目の美しさ、華やかさが
江戸前鮨の魅力なのだろう、いや、魔力と言いきってもよい。

よく友人・知人から、[凮月堂]の”凮”の字は
どうしてフツーの”風”の字じゃないの?
こう訊かれることがある。
答えは
”風”には”虫”の字が入っており、
お菓子の中に虫が入っちゃ、具合が悪いからである。

午後になって、少し足を鍛えようとおもい、地下鉄の駅まで行く。
往復四十分。
息が切れて、足が宙に浮いているようで、危なくて仕方がない。
いろいろな人から入院をすすめられているが、いまは入院ができない。
また、入院したところで結果はわかっている。
夜は、家人が所用で出かけたので、
鳥のそぼろ飯を弁当にしておいてもらい、食べる。
やはり、半分も食べられなかった。
今夜は[鬼平犯科帳]の最終回、九十分の長篇。
鬼平の[大川の隠居]と[流星]を一つにしたものだが、
脚本よろしく少しもダレなかった。
評判がよかったので、また三月から撮影をするらしい。

自宅やホテルの部屋で何度も転倒しているのに
40分の散歩は無謀きわまりない。
おそらくこれが人生最後の散歩だったと思われる。

=つづく=