読者の方々はメンチボールをご存じだろうか?
聞いたことがあるような、ないような・・・。
たぶんそんな感じでありましょう。
最近、耳にしないので念のため、ネットで調べてみた。
あった、あった、レシピがありました。
挽き肉・玉ねぎ・パン粉をまんまるに丸め、
片栗粉をはたき、パン粉を付けて揚げたもの。
言わば丸いメンチカツだった。
ありそうな料理だが食べたことはない。
J.C.が記憶するのはまったくの別物。
ミートボールの一種で中華の肉団子に似ていた。
幼少期を過ごした長野市・横澤町の精肉店では
ごく普通に売られていたのだ。
このメンチボール。
漱石の「吾輩は猫である」に
メンチボーとして登場する。
当時の西洋料理店のメニューに載っており。
明治時代はこう呼ばれていたようだ。
実際の料理は店によってバラつきがあり、
肉団子だったり、ハンバーグだったり。
忘れもしない1958年3月。
御茶ノ水、代々木上原、中板橋と、
バラバラに暮らしていた家族4人が
ようやく一つ屋根の下で
枕を並べて眠ることができるようになった。
引っ越し先は大田区・大森。
最寄り駅は学校裏(現・平和島)だ。
その引っ越し当日、母親に連れられて
夕飯の買い物に寄った精肉店でのやりとり。
「メンチボールはございませんの?」と母親。
「メンチボール? そりゃあ奥さん、
メンチカツのことだネ」と肉屋のオヤジ。
「いいえ、違うんですのヨ」
母親が買いたかったのは漱石のメンチボーだった。
ここまで覚えてるが、そのあと何を買ったのか
その晩何を食べたのか、記憶がない。
なぜ、時期だけ覚えているのかというと、
これには確固たる理由がある。
実はJ.C.、小学校入学直前の身体検査を
文京区立根津小学校で受けた。
ところが入学したのは大田区立大森第五小学校。
4月上旬の可能性は捨て切れなくとも
おおかた3月だったであろうと推測されるのだ。
何があったのか、子どもの知るところではないが
根津も大森も父親の学友ゆかりの土地。
困窮する一家にオジさんたちが
救いの手を差し伸べてくれたに違いないのだ。
=つづく=