あけぼの橋通りの「吉野庵」を左に出たら
すぐ左手に安養寺坂があった。
急ではなくともゆるやかでもない坂は
坂上で台町坂に吸収される。
通りの向こう側、市谷台町にかつて
たびたびお世話になったダイニングバー「蛍」ありき。
閉業を聞き及んでいたが
あのユニークな一戸建てはどうなったんだろう?
見届けに行ったら、跡形もなく駐車場と姿を変えていた。
あれもある意味「ポツンと一軒家」だったのに―。
隣りの銭湯・大星湯はしっかりサヴァイヴしている。
北西に歩を進めると、永井荷風が暮らした余丁町。
慶応義塾大学教授を辞したあと、
此処に戻り棲んで邸の一室を自ら断腸亭と名付け、
数年後に綴り始めたのが彼の最高作ともいわれる、
日記文学「断腸亭日常」である。
台町坂を上り切ると、四方を見下ろす高台に厳嶋神社、
通称・抜弁天が瀟洒な姿を見せている。
源義家が奥州平定の達成後、戦勝の感謝をこめて建立し、
安芸の厳島神社を勧請したものだ。
東に向かう前に西に下り、西向(にしむき)天神に立ち寄る。
小高い丘から臨む西空に太陽が傾きかけている。
抜弁天通りに戻り、抜弁天を右手に見ながら団子坂を降り、
大久保通りと合流する若松町交差点に到達。
この地点は北から夏目坂が上り詰めて来ている。
坂の中腹に夏目漱石の生家があったが
すぐ他家に預けられ、本人はほとんど暮らしていない。
地元の有力者だった父が自ら命名したものと
のちに漱石が述懐している。
坂の途中、天ぷら「高七」が健在ながら
時節柄、夜の営業は自粛中。
ほとんど坂下のカフェバー「フォレスタ」も残存。
20年前に一度、10年前にもう一度、ワイン会を催した。
馬場下町に来ると「三朝庵」のあった場所が
嘆かわしくもファミリーマートと来たもんだ。
カレー南蛮そば発祥の老舗を閉業に追い込むんじゃ
都の西北、早稲田も大したことねェなァ。
都の敗北もいいトコだぜ。
こんなだから天理にボコボコにされちまうんだヨ。
落胆はさらに続き、これも老舗洋食店「高田牧舎」は
「Pizzeria TAKATA BOKUSYA」だとサ。
窯用の薪が店先に積み上がってやがった。
並びの雀荘「早苗」は完全に珈琲屋と化している。
此処でもワイン会を催した大隈通りのイタリアン、
「まほうつかいのでし」は蒸発していた。
近所に移転して、その後閉店を余儀なくされた由。
あ~あ、こんなつまらん学生街に長居は無用。
上野松坂屋行きのバスに乗り、ヤサに直帰の巻でやす。