2024年11月13日水曜日

第3666話 文化さば 食べて流転の 王妃かな

この日はまた神保町シアター。
チケットをゲットしたら腹ごしらえだ。
赴いたのは駿河台下「さいまや」。
以前、「とんかつ駿河」のあった場所で
’11年10月以来だから13年も前になる。

実は3週前にも訪れ、
銀ひらす西京漬け定食をいただいた。
そうして山崎豊子原作の「不毛地帯」を
観たのであった。

前回同様にドライ中瓶と
さば文化干し定食を通した。
当店は干物と豆腐が二本柱。
定食類は一律千円でしまほっけだけ1400円。
ごはん&鬼おろしはお替わり自由と太っ腹だ。

半身の文化干しに鬼おろし。
他には、小さな冷や奴(絹だが旨い)。
スルメイカの代わりに
切り干し大根使用の松前漬け風。
つぼ漬けたくあんに緑のキューちゃん風。
大根&その葉っぱとわかめの味噌汁。
盛りがかなり多い白飯。
満腹&満足をもたらした。

今日の「流転の王妃」(1960 大映)は
女優・田中絹代が監督。
満州国皇帝・溥儀の実弟、
溥傑に嫁いだ愛新覚羅浩の自伝が原作。
浩役(映画では竜子)は
存在感抜群の京マチ子。
溥傑(溥哲)がハマリ役の船越英二。

旧満洲の首都・新京(現長春)で
戦時中ながら平和な日々を送る一家は
ソ連参戦により悲惨な運命に見舞われる。
実話に基づいてはいるものの、
原作と異なる部分も少なくない。

悲劇はさらに続く。
浩と溥傑の長女・慧生(英生)が
恋人の学習院大同期生と天城山中で
自死(実際は無理心中)してしまう。
絹代監督は慧生の遺体を撮すものの、
多くは語ろうとしない。

この9日に始まったばかりの特集、
「映画に生きるー田中絹代」だが
「流転の王妃」の上映はあと3回のみ。
今日(水)12時  明日(木)14時15分 
明後日(金)19時15分
映画としてとても良くできており、
読者にも鑑賞をおすすめしたい。

「さいまや」
 東京都千代田区神田小川町3-14-11
 03-5244-5597

2024年11月12日火曜日

第3665話 乗り越しの おかげで昔を 思い出し (その3)

ジイさんのチャーシューメン着卓。
どんぶりを抱えたはいいが
歯もなけりゃ、入れ歯もないようで
フンガ、フンガと歯茎で噛んでいる。

外国人の青年が来店して
われわれの間に割って入った。
スマホでオバちゃんにシューマイを発注。
どうやら下調べをしてきたらしい。
何も付けずにパクリとやったが
そのうち醤油を使い出した。

お節介なJ.C.、ここで見るに見かねて
英語で話しかけた。
「ストレンジ・フード、ダヨネ?」
「エッ? イエ、美味シイデス」
「ドッカラ来タノ?」
「ポーランド、クラクフデス」
クラクフは彼の国の古都。
言わば奈良か京都みたいな存在だ。

「旅行カナ?」
「日本ニ友人ガ・・・」
「ガールフレンド?」
「イイエ」
「ジャ、ボーイフレンド?」
「オー・ノー! ともだち、ともだち」
LGBTの仲間でないことを主張するが如く、
色を成して否定されたが、ともだちは日本語。

初めての欧州旅行の帰途、
ウィーンからモスクワ行き列車に乗った際、
チェコのプラハとポーランドのワルシャワを
トランジットしたことや、ロンドン滞在時に
フラットのランドレディ(大家)が
クラクフ出身だったことなど語った。

「お勘定お願いします」
「こちらもお願いします」
立ち上がった彼の肩をポンとたたき、
「Have a nice trip !]
「アリガト、ゴザイマス」

かっぱ橋本通りを上野に向かって戻る。
ちょいと来ない間に通りの「キッチン城山」も
「ときわ食堂」も閉業していた。
心に淋しさだけが降り積もる。

先日「昔のパン屋で買ってます」(3635話)
紹介した東上野の「シミズパン」を通りすがる。
せっかくだから何か買っていこう。

大好きな野菜パンはすでに売切れ。
代わりに野菜サンド(ポテサラ&きゅうり)と
一つだけ残っていた三色パンを購入。
三色はこしあん・チョコレート・あんずジャム。

袋をブラ下げて歩きながら思い当たった。
「来集軒」も昭和25年創業なら
「シミズパン」も同じ年じゃないか!
こんな奇遇は世田谷や杉並など
山の手じゃ絶対にあり得ない。
上野・浅草ならではなのだ。
単なる偶然とは思えぬ男が一人、
かっぱ橋本通りに立ち尽くしておりました。

=おしまい=

「来集軒」
 東京都台東区西浅草2-26-3
 03-3844-7409

「シミズパン」
 東京都台東区東上野6-27-7
 03-3841-1862

2024年11月11日月曜日

第3664話 乗り越しの おかげで昔を 思い出し (その2)

「来集軒」の創業は昭和25年。
J.C.より一つ年上である。
初めて訪れたのは昭和53年。
隅田川の花火が復活した年で
「美家古寿司」の初訪問と同じ年。

よく覚えていないが
以前は近所でも別の場所だったと記憶する。
どぜう「飯田屋」の並びだったような・・・。
この店のシューマイとラーメンが好きで
幾度もおジャマした。

それが2010年に訪れた際、
味の劣化を強く実感。
その日のフード・ダイアリーにメモってる。
=あまりの凋落ぶりに評価は急降下=
足が遠のいてしまい、
それ以降は '14年に一度行ったきりだ。

これも何かのめぐり合わせ、
自分をなだめすかして暖簾をくぐると
店内は昔のまんま。
少しも変わるところがない。

左手奥の楕円形大テーブルに着く。
これは単身者向けの相席用なのだ。
さっそくドライの大瓶と
名物のシューマイをお願いした。
接客のオバちゃんに見覚えはない。
10年ぶりじゃ、さもありなん。

シューマイは4カン付け。
片栗粉のつなぎが主張して
豚挽き肉はちょっぴり。
周知のことだから不満はないが
はるか昔はもっと好かったような・・・。
飛鳥山の行きつけと真逆のシューマイ。

練り辛子をチョンと付けてパクリ。
んん? 下味がほとんど感じられない。
卓上の醤油と酢を使ってもピンとこない。
隣りのウスターソースのほうが合うヨ。

ラーメンを麺半分で追加した。
中太ちぢれ麺に濃い醤油スープ。
肩チャーシュー1切れ、
煮しめたようなシナチク、
小さな焼き海苔が1片。
全体的にイマイチである。

壁に貼り出された多くの色紙を眺める。
ほとんどが落語家のそれである。
以前来たときに見た若の里と稀勢の里の
寄せ書きは見つからなかった。
文言は確か、
”いろいろ食べて、ごっちゃんでした”
だったハズ。

向かいに近所のジイさんが座り、
チャーシューメンを注文。
オバちゃんと親しげに言葉を交わすから
常連さんだネ、この人は。

=つづく=

2024年11月8日金曜日

第3663話 乗り越しの おかげで昔を 思い出し (その1)

この日は上野アメ横に行く予定だった。
銀行に立ち寄る前に腹ごしらえ。
上野三大レトロ喫茶の1軒で
ナポリタンかハムサンドをつまみながら
ビールを飲む腹積もりである。

家のそばで上野松坂屋行きのバスを
待っていたら台東区のコミュニティバス、
めぐりんが先に来て
反射的に乗り込んじまった。

京成上野駅前で降りればそれでよい。
ところが車内で揺られながら
思いは散り散りに乱れる。
途中、池之端の行きつけ付近を通るため、
もつ煮込み&もりそばでもいいや。
と考えたりもしたが
いや、やはり初心を貫徹しよう。
思いとどまった。

上野広小路に差し掛かり、
そろそろ到着というときに
待てよ、上野なら都営バスでいいじゃない。
せっかく東武浅草駅行きに乗ったんだから
もっと先まで行ったろうやないかー。

浅草寺界隈はしょっちゅう徘徊してるから
ちょいと手前の松が谷あたりで
昼めしとまいろう。
「松月庵」の十割そばがいいな。

めぐりんは北上野と東上野を分断する、
かっぱ橋本通りをひたすら走ってゆく。
ところがボーッとしていて乗り越した。
こりゃチコちゃんに
お叱りを受けること必至である。

一つ先の西浅草三丁目で降りた。
目の前はどぜうの「飯田屋」だ。
昼間っから独りでどぜう鍋もなァ。
読者に「哀れなヤツよのぉ」なんて
どじょうならぬ、
どうじょうされるに決まってる。

稲荷町から移転して来た、
日本そば「おざわ」に行くと
シャッターが降りている。
ここで不図、ひらめいたのが
すぐそばの古いラーメン店だった。

読者の方々は浅草の「来集軒」を
ご存じでありましょうか?
かつては浅草随一の人気と実力を誇る、
ラーメン屋だったのです。

=つづく=

2024年11月7日木曜日

第3662話 包丁一本 晒しに巻いて (その3)

実はこの3月、浅草橋駅近くのとんかつ屋、
「藤芳」で昼めしを食べた。
両国の「ふじ芳」も元々は浅草橋。
何らか縁戚関係があるものか訊ねたら
まったくの偶然でともに店主の姓名が藤田芳お。
”お”の漢字までは訊かなかったが
世間は狭いなァ、こんなこともあるんだねェ。

2組のカップルにうずら鍋の用意が調った。
これは鶉(うずら)と鶏の挽き肉を合わせ、
野菜と一緒に醤油出汁のスープで
じっくりと炊いてゆくものだ。

おのおの2人前づつだが大皿にこんもり。
相撲取りでも満足しそうな量がある。
若い男の二人組ならともかく、
女性連れでこんなに食べられるのかな?
他人事ながら案じていた。

食べたそうに見つめていたのだろう。
左手の準常連カップルが
鍋の具材を呑水(とんすい)によそい、
「よかったらどうぞ」
「エッ? エエエッ? 
 そんな、そんな、けっこうです」
「私たちじゃ食べ切れないので
 手伝ってください」
「いや、どうも、そうですか?
 それじゃ、遠慮なくいただきます」

「ふじ芳」の最大のウリはこの鍋である。
建物の袖にも ”うずら鍋” と書いた看板が
これ見よがしである。

1人前から用意してくれるが
とても無理だと決め込んで
次の機会に誰かを誘おうと思っていた矢先。
最初は面食らったものの、
よくよく考えりゃ、こんな僥倖は滅多にない。

いや、実に美味しい。
ごちそうになると尚更に美味しい。
寒中梅をもう1本である。
満足して食べ終えたらお替わりまでくれた。
まさに恐縮至極なり。

もう、お腹はいっぱい。
しかるにいかの塩辛だけで
お勘定というわけにはまいらない。
かきフライが5カン付けとのことで
それを3カンにしてもらい、注文。

「お一つづついかがですか?」
鍋のお礼にすすめると、旦那はもう無理。
奥さんが一つつまんでくれた。
あとは2カップルに店主夫妻を交え、
打ち解け合って歓談のひととき。
両国の夜は朗らかに更けていきました。

先述した通り、当店は完全予約制。
予約なしでは入店できません。

=おしまい=

「四季の味 ふじ芳」
 東京都墨田区緑1-15-9
 03-3631-0408

2024年11月6日水曜日

第3661話 包丁一本 晒しに巻いて (その2)

開店30分後の17時半に「ふじ芳」入店。
1階のL字カウンターは8席のみ。
2階は座敷になっているようだ。
早くも先客がカップル2組。
常連と準常連だった。

彼らの間に割って入るように着席。
品書きはほとんど頭に入っているが
あらためて熟視した。
当店のビールは大瓶が黒ラベル。
中瓶はスーパードライ。
お替わりが面倒くさいので大瓶をー。

お通しはベイビー帆立&切り昆布の炊いたん。
関西ではなく関東風だが
わりとアッサリめの味付けだ。
L字の底辺、J.C.の右手に陣取った、
常連はお通しの切り昆布だけをお替わりした。

店主との会話を聞くともなしに聞いていると
両国の2駅先の亀戸から
ひんぱんに来店しているそうだ。
二人して「ふじ芳」銘柄の焼酎を飲んでいる。

左手の準常連は食欲旺盛。
かきのみぞれ和え、柳がれい一夜干し、
海老しんじょう&野菜の揚げ物。
その前にも刺身か何かつまんだろうネ。

すでに狙いを定めていた、
いか肝塩辛を所望する。
するとコレがかなりの量。
するめいか1杯とまではいかないものの、
半杯はあるんじゃなかろうか?
肝もたっぷりで久々にホンマモンの塩辛。

女将さんにお願いし、
小皿に生醤油をちょっぴり貰った。
そうしておいて越後は小千谷の銘酒、
越の寒中梅の吟醸生貯蔵酒300mlを発注。

小皿の醤油に酒を注ぎ足し、
大半のいか刺しを漬け込んだ。
即席のづけである。
うむ、いいネ、いいですネ。
美味しさに拍車がかかっている。

店主と女将はともに新潟県・新発田市出身。
新潟市内のかつての花街、
古町の料理屋で出逢い、添い遂げた。
見たところ大将のほうが年かさながら
実際は3歳年下、姐さん女房なのである。

=つづく=

「おかめ」
 大阪府中央区難波1-1-8
 06-6211-0761

2024年11月5日火曜日

第3660話 包丁一本 晒しに巻いて (その1)

今宵は両国に現れた。
目当てはうずら鍋で人気の「ふじ芳」。
「ふじ芳」となれば、脳裏を掠めるのは
藤島桓夫の「月の法善寺横町」。
さっそくいってみたいと思う。
浪花の小姑も舞台が大阪ときちゃ、
文句を口にも出さず飲み込むであろうヨ。

♪  庖丁一本 晒しに巻いて
    旅へ出るのも 板場の修業
      待っててこいさん 哀しいだろうが
    ああ ああ 若い二人の
    想い出にじむ 法善寺
    月も未練な 十三夜

     こいさんがわてをはじめて
   法善寺へつれて来てくれはったのは
  「藤よ志」に奉公に上った晩やった
   はよう立派なお板場はんになりいやゆうて
   長いこと水掛不動さんに
   お願いしてくれはりましたなあ
   あの晩からワテはワテは
   恋さんが好きになりました 

  (作詞:十二村哲)

この曲は1960年の大ヒットだが
実際の法善寺横丁は横丁であって
横町はタイトルだけ。
作詞家の意図なのか誤認なのかは不明だ。


法善寺横丁入口に暖簾を掲げる、
おでん屋「おかめ」は思い出深い。
京都に比べりゃ訪問数の少ない大阪だが
行けば必ず立ち寄る気に入り店である。
浪花のおでんもさることながら
京都・北山の清酒、初日の出。
この上燗の旨さといったらない。
おでんには燗酒が一番なり。

さて、両国「ふじ芳」。
此処はもともとふぐ料理店、
「ひょうたん」の在った場所。
横綱・大鵬がひいきにした其の店は
何度か利用したが「ふじ芳」は初訪問。

以前、台東区・柳橋に棲んでいた頃、
「ふじ芳」は隣りの浅草橋に在り、
そのうち行こう、行こうと思っていながら、
つい、行きそびれた。
もっとも浅草橋と両国はJR 総武線で一駅。
ごく近場に引っ越しというわけだ。

予約なしでは席にありつけないため、
3日前に電話予約を入れておジャマした。

=つづく=

2024年11月4日月曜日

第3659話 宮前商店街 太腕繁盛記

この日出没したのは都電荒川線・宮ノ前。
尾久八幡神社の前に位置しており、
そのまま駅名の由来になった。
駅前から続く宮前商店街を南下する。

何度か利用したとんかつ店、
「どん平(ぺい)」を通り過ぎてすぐ、
町中華「永新」に滑り込んだ。
先客たちの背中と入口のガラス戸の間が
ヤケに狭くてスレスレにつき、
蟹座生まれが蟹歩きの巻。

ワンオペの女店主は背丈も目方も大柄な人だ。
13時を回ったというのにけっこうな客入り。
八面六臂というか、孤軍奮闘といおうか、
ガス台に三つ並んだ中華鍋を駆使して
次々に料理を完成させてゆく。
腕っぷしも強いんだねェ。

先客がキリンラガーの大瓶を飲んでいる。
大瓶はラガー、中瓶はドライ。
あらかじめ調査済みだったが一応、
「ビールはキリンだけですか?」
「ええ、スーパードライは朝来たばかりで
 まだ冷えてないんですヨ」
「(チッ)じゃ、ラガーを」
もちろんチッは発声しない。

レバニラ炒めを量少な目でお願いする。
それでもけっこうなボリュームだった。
あとで麺類を目論んでいるけど
果たしてたどりつけるのかい?
自分で自分に問い掛けたが
横着を決め込んだか、返事はなかった。

レバニラ半ばにしてラガーを飲み終え、
冷えた月桂冠の1合瓶にチェンジ。
京都・伏見の酒である。
レバニラの残りで月の桂を飲み干し、
そろそろ締めにしたいが
ストマック・キャパに大した余裕は無い。

壁にちびっ子ラーメンというのを見つけた。
お子様専用だろうか?
太腕女将に訊ねたら作ってくれると云う。
これならイケる、お願いした。

醤油スープに中太ちぢれ麺が半玉くらい。
具材は肩ロースチャーシュー1枚に
わかめとナルト、シナチクは不参加だ。
まあまあの出来映えながら
オッサンの締めにはちょうど好かった。

帰りは宮前商店街をさらに南下。
尾久本町通り・尾久銀座を経由し、
赤土小学校前で日暮里・舎人ライナーに乗車。
ヒマだから舎人公園にでも行くとしよう。

「永新」
 東京都足立区西尾久2-1-15
 03-3800-0735

2024年11月1日金曜日

第3658話 5軒の「小倉庵」を制覇 (その2)

5軒目の「小倉庵」は豊島区・要町にあった。
これだけ「小倉庵」をめぐりめぐると
否が応でも村田英雄が歌い出す。
此度ばかりは浪花の小姑に
気なんか遣っておられへん。

♪ 小倉生まれで 玄海育ち
  口も荒いが 気も荒い
  無法一代 涙を捨てて
  度胸千両で 生きる身の
  男一代 無法松   ♪
  (作詞:吉野夫二郎)

「無法松の一生」は1958年のリリース。
浪曲の演目を古賀政男が歌謡曲化したものだ。
当時は泣かず飛ばずだったが
「王将」の大ヒットに連鎖して日の目を見た。

以来、誰もが歌いたがる名曲として
多くの実力派歌手がカバーしている。
美空ひばり・都はるみ・ちあきなおみ・
坂本冬美・島津亜矢・五木ひろし・
氷川きよしなどなどの中で
J.C.が一番好きなのは島倉千代子。
男は村田本人、女は千代子でキマリである。

博多より好きな小倉の街は
実に様々なモノを産み出した。
死語ならぬ死髪(しが)となった、
パンチパーマがそうだし、
競輪の発祥地でもある。
競輪は1948年に小倉競輪場で初開催された。

それはそれとして要町「小倉庵」。
オバちゃん3人、女ばかりの切盛りだ。
当店は同じキリンでも一番搾り。
中瓶を2本飲んだ。
つまみの板わさは蒲鉾の質に感心しなかった。
締めのもりは、そば・つゆともにまずまず。

これで都内の「小倉庵」は5軒全店を制覇。
ほかには何処かにあるのかな?
調べてみたら北海道の函館にあった。
さすがにダテは遠すぎる。

あきらめるしかないなと思っていたら
アチラはそば屋ではなく鯛焼き屋。
小倉は小倉でも餡子の小倉だったんだ。
鯛焼き屋の本店は世田谷区・経堂。
あとは同区・赤堤に支店がある。

都内屈指の素敵なプロムナード、
要町通りを北西に歩き、粟島神社に詣でた。
そこから裏道を南下し、
西武池袋線・椎名町駅界隈を徘徊し、
池袋西口に戻りましたとサ。

「小倉庵」
 東京都豊島区要町1-16-11
 03-3957-4345