有楽町で雷蔵映画の前にランチ。
この日は晴海通りのガード下で
カレーうどんと相成った。
「慶屋」は屋台に毛の生えたような
カジュアルな造りだ。
冷蔵庫から自分で缶ビールを出し、
お冷やのコップにトクトクトク。
たぬきやきつねもあるようだが
カレーうどんがイチ推しだってんで
先人のオススメに従った。
店は還暦超えと思しきオジさんのワンオペ。
「『けい屋』さんて云うんですよネ?」
「そうですヨ」
「オヤジさんが慶応の出身とか?」
「いや、アタシの名前がキクチだから
"K" で始まるでしょ? そいでもってー」
菊池か菊地かまでは確認しなかったけど
とにかくキクチさんはこの場所で23年。
実は J.C.、この界隈は馴染みどころか
因縁すら感じるのだ。
ガードの隣りのマリオンは当時日劇だった。
親抜きでの銀座デビューは中学一年。
1965年1月だから東京五輪後2カ月半。
まだ東京の街のあちこちに
冷めやらぬ興奮が漂っていた。
級友と観たのは「いしだあゆみショー」。
彼女の大ファンだったのだ。
その翌年には日比谷スカラ座で
「太陽がいっぱい」のリバイバルロードショー。
これは別の級友と行った。
そのまた翌年は人生初めての映画デート。
有楽座で「パリは燃えているか?」を観て
日劇前の「九重」2階でナポリタンを食べた。
レストラン「九重」はすでにないが
九重会館としてビル名に残っている。
先日2階を見上げたら
「まぐろ奉行とかに代官」なんて店だった。
鍋奉行と悪代官はよく聞くけどネ。
中学を卒業し、高校生になって
有楽町と銀座へは毎週のように出没。
殊に2年の夏にバイトで稼ぎ、
懐具合が良くなって
みゆき通りの「JUN」でよく買い物をした。
時は流れて1973年。
往時の恋人とたびたび訪れたのは
「慶屋」と晴海通りを挟んで
真向かいのやはりガード下。
「サンレモ」なるイタリアンの先駆けだ。
よく飲んだのはチンザノ・ロッソのロック。
いわゆるイタリアン・ベルモットは
1杯200円だったと記憶する。
若いくせにシャレたもん飲んでたネ。
その店も紆余曲折を経て
「イル・バロッコ」に変わったが
内装はほとんど昔のまんまだ。
=つづく=