2014年5月15日木曜日

第838話 心に沁みる有楽町 (その2)

昭和32年、またの名を1957年。
長嶋茂雄が不滅の巨人軍に入団する前夜であった。
立教大学四年生の四番サードは
その強打で神宮の森を沸かせていた。

ちょうどその頃、父親は就職活動に追われていたのだろう。
丸の内から新橋、新橋から虎ノ門辺りに何度か連れられて行った。
連れられて行ってはビルの外で独り待たされる。
新橋界隈ならいざしらず、平日の丸ノ内のオフィスアワーに
幼児がポツンとたたずんでいる光景は日常的ではない。

よくOLさんに声を掛けられた。
「坊や、独りなの?」 
「お母さんはどこ?」
彼女たちの華やかな美貌がまぶしかったなァ。
このとき、幼な心にも思いましたネ、
将来、こういうオネエさんをお嫁さんにしようと―。

有楽町の街を初めて歩いたのもこの年。
デパート「そごう」とJ.C.の有楽町デビューは奇しくも同年である。
それからトンと、ご無沙汰してしまい、
次に有楽町に姿を現したのは昭和40年1月31日。
日劇の「いしだあゆみショウ」だった。

今は無き日劇に入場したのはこれが最初で最後。
彼女が「ブルーライト・ヨコハマ」でブレイクする数年前だ。
公演で聴いた「緑の乙女」や「パールの指輪」は
よほどのあゆみファンでなければ、
タイトルすら聞いたことがないものと思われる。

その年の夏には日比谷スカラ座(地番は有楽町)で
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を初めて観た。
日本での封切りは昭和35年。
したがってこれは5年後のリバイバル・ロードショウ。

昭和42年、中学卒業を目前に控え、有楽座で観たのが
オールスター・キャストの仏映画、「パリは燃えているか?」。
GFとのデートは観劇後、日劇前の「九重」でナポリタンを食べた。
確か一人前が200円だったと記憶している。

高校に入ってから有楽町や銀座には毎週のように通った。
大学生になると、アルバイトのおかげでフトコロが温かくなり、
行きつけの店まで作る始末。
日劇のはす向かい、ガード下にあった「サン・レモ」が憩いの場所だった。

大学を中退して欧州放浪の旅に出掛け、数年後に帰国する。
人生最初の就職は有楽町の免税店。
職種というより、ロケーションで択んだ職場である。
月に一度、日曜出勤の当番にあたると、
決まって昼めしの弁当を「そごう」で買った。
まだ「ほっともっと」も「オリジン弁当」もない時代、
ずいぶんお世話になったものだ。

思い出の詰まったデパート有楽町「そごう」が消えて早や14年。
ところが懐かしい店内を
これでもかと撮りまくってくれている映画と出逢った。
つい、ひと月前のことである。