2016年7月29日金曜日

第1414話 立ち飲み 侮るべからず (その1)

第1392話 鮎あればこそ(その1)
ちょっとだけふれた門仲の立ち飲み居酒屋「M」。
約束通り、今話よりじっくりと紹介したい。

店名を「ますらお」という。
ロケーションは界隈きっての人気店「魚三酒場」の裏手、
細い路地の2階にある。
オープンして2年に満たない新店のようだ。

数ヶ月前、江東区・深川を徘徊していて偶然に見つけた。
寒い時期だったが長距離を歩いたせいでノドはカラカラ。
カウンターに落ち着き、さっそく瓶ビールを所望する。
銘柄は好みとはいえないキリンの一番搾り。
中瓶が550円(税別)だから
立ち飲みとしてはかなり高めの価格設定だ。
生ビールもキリンでこちらは中ジョッキが400円(同)也。

頭上のボードをつぶさに見つめ、つまみの選定を開始する。
けっして盗み見ではなく、
何気なしに隣客の手元に視線を落とすと
白身の刺身が目に入った。
ふむ、これは真鯛だろうな。
おすすめボードにも真鯛が書き込まれてるしネ。

真鯛はともかくも惹かれたのは
脇にチョコンと添えられたわさびのほうであった。
やや! これはひょっとして本わさびじゃないの?
このことである。

若い頃には抜群の視力を誇ったわが両マナコも
年齢とともに衰えがいちじるしい。
他人の皿をギョロリとのぞき込むわけにもいかず、
百聞は一見に如かず、
そして百見は一食に如かずの諺に倣い、
刺身を注文することにした。

選んだのはマイ・フェイヴァリットの平目である。
平目や鰈(かれい)など、
いわゆるフラットフィッシュの類いはみんな好き。
形状はまったく異なるものの、
やはりフラットな真鯒(まごち)も大好物だ。

やがて登場した平目刺しには
思惑通りに本わさびが据えられていた。
発声はせず、胸の内で快哉を叫ぶ。
心の中心で愛を叫んだに等しい。

いや、驚いた。
失礼ながら一介の立ち飲み居酒屋で
本わさびとは前代未聞の快挙ではなかろうか!

=つづく=

2016年7月28日木曜日

第1413話 クラムだって恋をする (その6)

平日の明るい時間だというのに
浅草のランドマーク「神谷バー」は大盛況だった。
この店の2階は「レストラン神谷」が正式名。
カジュアルな1階が「神谷バー」で食券制を採用している。
J.C.は煙草のけむりと騒音にまみれた、
1階を利用することはほとんどない。
「神谷バー」といったらイコール2階なのだ。

中ジョッキを飲みながら着信したメールをチェックする。
つまみは欲しくないから頼まなかった。
夕暮れどきに過ぎゆく時間の流れは
各駅停車もいいところ、ゆるゆるのゆるである。
でも好きだなァ、このひととき。
お替わりの電氣ブランをあおって階下に降りた。

どこぞへ河岸を替える前にふと思い出す。
わさびを1本買っておかねば・・・このことであった。
自宅の冷蔵庫の生わさびがチビでしまって要買い足し。
購入するのはいつも浅草のスーパーマーケットだ。
「神谷バー」からその「オオゼキ」へは徒歩2分。
目の前の雷門通りを渡った。

真っ先にわさびを選りすぐり、
最良の1本をバスケットに投じたら
とにかく目的を果たした安心感を抱きつつ、
ザッと店内をパトロール。
というより徘徊だねこれは―。

鮮魚コーナーに目を凝らしたときである。
ん? おや?
視線を離さぬ物体に遭遇したのであった。
青いネットに包まれて
ふむ、青ネットねェ。
赤ネットなら甘栗や蜜柑だが、どう見ても貝である。
それも二枚貝だということは遠目にも判る。
いやはや二枚貝と二枚目のご対面であった。

パックを手にとっていささか驚いた。
ラベルには千葉産ホンビノスと明記されているものの、
どこか本邦のハマグリを想起させる貝殻模様なのだ。
15粒ほど入って税抜き399円、格安と言わねばならない。
ユニクな模様と廉価な値付け、
わさびの隣りに放り込んでレジに向かった。

帰宅後、ネットを破って塩抜きである。
真ん中2粒のガラをご覧くだされ
周りを取り囲むのは紛れもなくホンビノス。
しかるにこの2粒は違いますゾ。
これは日本のハマグリとのハーフなのだ。
東京湾の最深部での国際結婚。
国を超えて言葉を超えて、そう、クラムだって恋をする。

=おしまい=

「神谷バー」
 東京都台東区浅草1-1-1
 03-3841-5400

「オオゼキ」
 東京都台東区雷門2-15-1
   03-5830-0731

2016年7月27日水曜日

第1412話 クラムだって恋をする (その5)

吉野通りと明治通りが交わる泪橋の交差点。
ここは荒川区と台東区の区境にあたっている。
行き交うクルマの多い明治通りを横断して
吉野通りを真っ直ぐ南下して行った。
途中、今戸神社と待乳山聖天に立ち寄ったので
かれこれ1時間近くは歩いたろうか―。

ちなみに今戸神社は新撰組きってのイケメン、
沖田総司、終焉の地といわれている。
かたや待乳山のほうは時代小説の第一人者、
池波正太郎、出生の地である。
これも何かの縁(えにし)であろう。

待乳山聖天の脇に旧今戸橋がある。
かつてこの橋の下に山谷堀があり、
大川から吉原に通じていたが
今は埋め立てられて山谷堀公園となっている。

 ♪   梅は咲いたか 桜はまだかいな
   柳なよなよ風次第
   山吹や浮気で 色ばっかり
   しょんがいな


   浅蜊とれたか 蛤やまだかいな
   鮑くよくよ片想い
   さざえは悋気で角ばっかり
   しょんがいな


   柳橋から小舟を急がせ
   舟はゆらゆら波しだい
   舟から上がって土手八丁
   吉原へご案内       ♪


端唄・小唄に唄い込まれたように
古くは神田川最下流の柳橋から
猪牙舟で大川をさかのぼって
今戸橋をくぐり、吉原に通うのが粋筋の遊びとされた。

まっ、それはそれとして
J散歩は歌舞伎「助六」の舞台となった花川戸を抜け、
吾妻橋西詰にたどり着いた。
目の前には浅草1丁目1番地1号の「神谷バー」がある。
当ブログでたびたび紹介した、
マイ・フェイヴァリット・スポットだ。

陽が落ちるにはまだ相当の時間がある。
晩酌には少々早いが誰に気兼ねをするじゃなし、
何のちゅうちょもなく、2階へと階段を上った。
どこの階段かって?
もちろん「神谷バー」ですヨ。

=つづく=

2016年7月26日火曜日

第1411話 クラムだって恋をする (その4)

二枚貝ワールドのみにくいアヒルの子、
ホンビノスのハナシである。
たとえ醜くとも食味の良さが認識され出して
最近は徐々にその値を切り上げてきている。

ひんぱんには厨房に入らぬJ.C.だが
気が向くと食材を求めて街に出る。
その際の御用達は
御徒町の吉池・松坂屋、
浅草のオオゼキ(中堅スーパー)・松喜(精肉)・竹松(鳥肉)、
北千住の食遊館(マルイ地下)、
といったところだ。

ほかにはナニナニ銀座を自称する、
ノスタルジックな商店街を愛するから
 砂町銀座―シューマイと焼き鳥
 戸越銀座―鮮魚とたら子
 田端銀座―食パンとおでん種
 霜降銀座(駒込)―イタリアワインと珍野菜
用途に応じて各銀座にときどき出没している。

その日のJ散歩は荒川区・南千住でスタートした。
南千住へは、あゝ上野駅から
JR常磐線で行こうか、東京メトロ日比谷線にしようか、
ちょいと迷った末に常磐線を選択。
やはり、あゝ上野駅となれば、
国鉄にじゃないと気分が出ないからネ。 

  ♪   どこかに故郷の 香りをのせて
    入る列車の なつかしさ
    上野は俺らの 心の駅だ
    くじけちゃならない 人生が
    あの日ここから 始まった  ♪
       (作詩:関口義明)

ハハハ、上野から南千住へたったの3駅しか乗らんのに
わざわざ井沢八郎を引っ張り出すこともないやネ。

とにかくそうして降り立った南千住。
再開発のせいで駅前の様相がガラリと変わっており、
つい、キョロキョロしてしまう。
丸どぜうを出した居酒屋なんか、カゲもカタチもありゃしない。

コツ通りに面した大衆酒場「大坪屋」は健在だ。
真向かいの回向院と人形焼き店も以前と変わらぬたたずまい。
歩道橋を渡って都営バスの青空車庫を
右手に見ながら進路を真南に取った。

ほどなく泪橋の交差点である。
明治通りを横切ると、
そこは岡林信康が唄った「山谷ブルース」の世界、
というより、
「あしたのジョー」発祥の地と言ったほうが通りがいいか―。

=つづく=

2016年7月25日月曜日

第1410話 クラムだって恋をする (その3)

米東海岸の北部三州だけで3種類もあるクラムチャウダー。
それぞれを簡単に紹介してみよう。

最もポピュラーなのはニューイングランド・クラムチャウダー。
州最大の都市はボストン、よってボストン風とも呼ばれる。
これはクリーム仕立てだから
ちょっと見はホワイトシチューのようだ。

アンディ・ウォーホルのポップアートで一躍有名になった、
キャンベル社の缶入りクラムチャウダーもこのタイプ。
缶詰にミルクを加えて温めるスタイルをとっている。
ミネストローネやマッシュルームクリームなどが揃う、
スープシリーズの中ではこのクラムチャウダーの出来が一番よい。

マンハッタン・クラムチャウダーは別名ニューヨーク風。
こちらはトマト仕立てでイタリア系移民が多いニューヨークならでは―。
クリームとトマト、どちらも好きだが
マンハッタンはスペイン名物のガスパチョみたいに
冷製もまたイケるところが秀にして逸である。

ロードアイランド・クラムチャウダーには滅多にお目に掛かれない。
アメリカでは珍しい清まし仕立てはクラムコンソメといった風。
日本のはま吸いに最も近い。
スープとして飲まれるよりも冷したコレを
ミックスドリンクのブラッディ・メアリーと合わせて
楽しむ向きのほうが多そうだ。

そもそもホンビノス(リトルネック)は
バラスト水に紛れ込んではるばる東海岸から運ばれて来た。
日本で最初に発見されたのは
東京湾最深部の千葉県・幕張海岸で1998年のことだった。

その後、大阪湾でも見つかっているが
もちろんこれは東京湾から移動したものではない。
大阪は大阪で米東海岸から渡来したのだ。
パナマ運河を通って太平洋を横断したのか、
大西洋から喜望峰を経てインド洋を越えたのか、
はたまた大西洋を横断し、
地中海を抜けてスエズ運河から紅海、インド洋を経由したものか、
その経路は確認されていない。

ホンビノスは外見がよくないものの、
アメリカで生食されるくらいだから味はすこぶるよろしい。
中国産はもとより、国産のハマグリと比較しても遜色がない。
近年はスーパーのみならず、
高級デパートの地下でも売られるようになった。

ただし、そのルックスのせいか値段はやや安め。
言わばアヒルの子の中に紛れ込んだ白鳥のヒナ的存在だ。
これをアンデルセンは”みにくいアヒルの子”と呼んだ。

=つづく=

2016年7月22日金曜日

第1409話 クラムだって恋をする (その2)

東京の街で初めてホンビノスに遭遇したとき、
その第一印象はよくなかった。
貝殻の色や模様から想像される味は
まずダメだろうな・・・そんな感じだった。

パックを手に取って眺めているうち、
おや? ちょいと待てヨ、
これってニューヨークでよく食べたリトルネックじゃないの?
そこに行き着いたのだった。

ウィキペディアによればこの貝、
米国東海岸からメキシコのユカタン半島まで広く分布し、
サイズに応じて呼称が変化する”出世貝”とのこと。
若い順から

リトルネック→トップネック→チェリーストーン→チャウダークラム

と呼ばれる。

ニューヨークには10年あまり棲んだ。
そのあいだ、トップネックの名は何度か耳にした記憶があるものの、
チャウダークラムは聞いたことがない。
通常はリトルネックかチェリーストーンのみ。
しかもJ.C.はこの2種をまったくの別種と認識していた。
ウィキペディアのおかげで初めて”出世貝”と知ったのだ。

生でいただくリトルネックの美味しさは
当地で食べる生ガキの上をいった。
そりゃあ日本の的矢、唐桑、仙鳳趾あたりで収穫される、
上物を凌駕するとまでは言わないが
かなりの美味であることは間違いない。

ホンビノスは生食以外にも重用されている。
最大に育ったものをチャウダークラムと称するようだが
その名の通り、最もポピュラーなのがクラムチャウダー。
いろいろ食べてみてこれはまずハズレのない、
希少なアメリカ固有の料理と言えよう。

誰が決めたか知らないけれど、
ブイヤベース、ボルシチ、トムヤムクン、魚翅湯(フカヒレ)
の四つをもって世界四大スープとするらしい。
確かにそれぞれみな美味しい。

しかしながらちょいとばかり斜に構えて
マイ・四大スープを選べば、
スープ・ド・ポワソン、ビーフコンソメ、ミネストローネ、
そしてクラムチャウダーとしたくなる。

クラムチャウダーには東海岸だけでも3種のスタイルがある。
ニューイングランド、マンハッタン、ロードアイランドがそれだ。
あの大雑把なアメリカ人がここまでこだわるのは
きわめて稀有なことと言わねばならない。

=つづく=

2016年7月21日木曜日

第1408話 クラムだって恋をする (その1)

今話はクラム、いわゆるハマグリのハナシ。
シジミ、アサリもけっこうだけど、
二枚貝のキングはハマグリであろう。
鮨種となる赤貝・青柳・みる貝・北寄貝等は
生で食べたらすばらしく美味しいが
また別のカテゴリーに括らなければなるまい。

J.C.は1987年3月半ば、ニューヨークに赴任した。
最初の1週間は歓迎会やら
個別の”飲みニュケーション”やらで連夜の午前サマ。
いろんなモノを飲んだり食ったりしたわけだが
もっともインパクトが強かったのがハマグリだった。

ハマグリなんぞ別段、珍しくも何ともないが
驚くべきはそれがナマだったこと。
前述した鮨種の貝類は基本的にナマで賞味される。
しかるに味噌汁に最適の貝トリオを
ナマで食する日本人はまず皆無であろう。

生食の貝となると、真っ先にピンとくるのは牡蠣。
おそらくそのジャンルでは断トツの消費量だと思われる。
確かに生ガキはとてつもなく旨い。
殊に日本産の真ガキは世界に最たる美味を誇っている。

そう信じて疑わなかったこの目からポロリとウロコが落ちた。
生まれて初めて食べた生ハマグリは実に強烈だった。
鮨だ刺身だと魚介類の生食にかけては
日本人が世界のリーディング・イーター。
その座を脅かすのがニューヨーカーだったとは!

マンハッタンのレストランではオイスター・バーに限らず、
フレンチや和食店でも生ハマグリを供する。
通常、小ぶりなリトルネックと
大ぶりなチェリーストーンがメニューに載っており、
J.C.が注文するのは常にリトルネック。
デリケートな風味が好みにピタリと合ったのだった。

その点、図体のデカいチェリーストーンはかなり大味。
一度食べて閉口して以来、二度と指名することはなかった。
同じ生ハマでもまったくの別物、
真ガキと岩ガキほどの違いがある。

あれは10年ほど前だったろうか、
浅草は雷門前のスーパーマーケット「オオゼキ」で
見慣れない二枚貝に遭遇したのは―。

サイズは中サイズのハマグリってな感じ。
光沢のない貝殻には横筋が走っていかにも不味そう。
パックのラベルにはホンビノス貝とあった。
いったい何だよ、コレ?

=つづく=

2016年7月20日水曜日

第1407話 心から好きだよ ピーナッツ (その5)

まだ庶民の茶の間にテレビジョンが普及する以前、
昭和30年代には娯楽が少なく、
ラジオを聴くか映画館に出掛けるしかなかった。
あとは大人の競輪・競馬とパチンコ、
子どもの草野球くらいのものである。
それでも子どもには鬼ごっこ・かくれんぼ・缶蹴りなんてのもあった。
しっかし、今のガキんちょは外で遊ばないねェ。

映画は製作が間に合わないので
いわゆるプログラム・ピクチャーが乱造され、
ちまたは駄作・愚作・凡作であふれ返っていた。
したがって観る目を養うには洋画に頼ることになる。
音楽界にも同様の兆候が見られ、
その結果、欧米のポップスが大挙して日本に上陸してきた。

ラーメン・カレーライス・スパッゲッティの食生活のみならず、
ミュージックの世界でもポップス・ジャズ・シャンソン・カンツォーネ、
それこそなんでんかんでん聴き漁った日本人。
そんな時代の申し子がザ・ピーナッツである。

同時代、演歌のツイン・デュオにこまどり姉妹がいた。
彼女たちは日本人が慣れ親しんだ”和”の世界にいたものの、
比較的短命に終わっている。
もっともここ数年はときどきTV等に現れるから超長命といえるかも?
ただし、こまどり姉妹ならぬ、
クマドリ姉妹なんて揶揄されちゃったりしてるけど―。

その点、ピーナッツの引き際はいさぎよい。
数年前から心の準備をしていたらしいが
いよいよ1975年に引退を決めてしまった。
もっともその数ヶ月後、姉のエミさんは
ジュリーこと、沢田研二と華燭の典に臨んでシアワセいっぱい。

12 年後に離婚したとはいえ、子宝にも恵まれた姉に比べ、
妹のほうは神秘のヴェイルに包まれたまま。
引退後はファッションデザイナーに転じたというが
姉ともども公の場には姿を見せていない。
私生活を知る由もないが、ずっと独身を貫いたらしい。
今頃はきっと、姉妹仲良く天国でハモッていることだろうヨ。
歓ぶべし。

このたび、おかげと言ってはなんだけれど、
哀しみの中に一つだけうれしいことがあった。
ピーナッツ・ナンバー、マイ・ベストテンにランクインした、
「モスコーの夜は更けて」について調べているうち、
アル・カイオラ楽団の「モスクワの夜は更けて」に行き着いた。

今は昔の1972年夏、ちまたに吉田拓郎の「旅の宿」と
小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」が流れるなか、
京都へ一人旅をしたことがあった。
新京極のレコードショップで
たまたま聴いたのがアル・カイオラのこの曲。
深く心にしみて帰京後、あちこちのレコード店を廻り、
ずいぶん探したがついに見つからなかった。

この曲はソビエト連邦時代の1955年に発表されたロシアの歌曲で
原題を「モスクワ郊外の夕べ」という知る人ぞ知る名曲。
今、アル・カイオラを44年ぶりに聴きながらこの稿を書いている。
肝心のピーナッツ版はもう30年も聴いていない。
嘆くべし。

=おしまい=

2016年7月19日火曜日

第1406話 心から好きだよ ピーナッツ (その4)

そんな歌謡シーンがくり拡げられた1959年。
ザ・ピーナッツは彗星のごとく、
もとい、妖精のごとくデビューをはたしたのだった。

振り返れば当時の彼女たちは洋楽のカバーばかり。
オリジナル曲がほとんどない。
翌年リリースされた「心の窓にともし灯を」が目立つ程度だ。
この曲にしたってB面扱いでA面は「悲しき16才」、
ケーシィ・リンデンのカバーである。
彼女たちのオリジナル・ヒットは
1962年の「ふりむかないで」まで待たねばならなかった。

この年も名曲・佳曲が目白押し。
「江梨子」(橋幸夫)、「山男の歌」(ダーク・ダックス)、
「寒い朝」(吉永小百合&和田弘とマヒナスターズ)、
「電話でキッス」(ダニー飯田とパラダイスキング)、
「ヴァケイション」(弘田三枝子)、若いふたり(北原謙二)、
ルイジアナ・ママ(飯田久彦)、可愛いベイビー(中尾ミエ)と
相当数の洋モノが紛れ込んでいる。

ちなみにレコード大賞曲は
「いつでも夢を」(橋幸夫&吉永小百合)。
レコード大賞の黎明期、作詞・作曲においては
この7日に亡くなった永六輔&中村八大が大活躍した。
’59年(第一回)の「黒い花びら」に続いて
’63年(第五回)の「こんにちは赤ちゃん」も同じコンビの作品。

これに対して作曲家・吉田正が
’60年(第二回)の「誰よりも君を愛す」、
’62年(第四回)の「いつでも夢を」で受賞している。

’62年におけるマイ・ベストスリーは

① 赤いハンカチ・・・石原裕次郎
② 下町の太陽・・・倍賞千恵子
③ コーヒー・ルンバ・・・西田佐知子

この頃になると、演歌が綺麗さっぱり姿を消している。
低学年から高学年に成長した小学生・J.C.の趣味が
変わったのではなく、
時代が変遷して演歌の氷河期が到来したのだ。

余談だが倍賞千恵子の小学生時代の家庭教師は永六輔サン。
これはほとんど知られていないエピソードではあるまいか―。
そして役者としては芽が出なかったものの、
司会者として大成した関口宏の奥様が西田佐知子サン。
こちらのほうはみなさんご存じですネ。

もう一つ、佐知子サンが歌って大ヒットした「コーヒー・ルンバ」は
ザ・ピーナッツとの競作でありました。
ピーナッツ版もけして悪くないけれど、
声色と曲調の一体感は西田版が優れており、
大衆はそこのところをよく理解し、評価したのでありましょう。
そう、往時の音楽ファンは耳が肥えていたんです。

=つづく=

2016年7月18日月曜日

第1405話 心から好きだよ ピーナッツ (その3)

1959年に「可愛い花」でデビューしたザ・ピーナッツ。
この年は水原弘の「黒い花びら」が
第1回レコード大賞の栄光にに輝いた。
といってもまだまだ世間一般の関心は薄く、
何だそれは? ってな感じであったろうヨ。

この年、小学二年生だったJ.C.は
リアルタイムでヒット曲の数々を記憶している。
なぜか?
当時の娯楽は映画とラジオしかなかったからネ。
映画館へは週に1~2回しか行けなかったが
ラジオは毎日聴いていた。
結果、幼心にも流行歌の数々が深く刻まれたのだった。

とにもかくにも一番印象に残っているのは
スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」。
わが人生において
初めてささやかなエロチシズムを感じたのがこの曲。

 ♪   若い娘は ウッフン
   お色気ありそうで ウッフン  ♪
      (作詞:星野哲郎)

若い頃の星野サンはトンデモない詞を書いてたんだねェ。
ちなみに作曲は浜口庫之助。
昨日、「NHKのど自慢」を観ていたら
四人組のオバちゃんが歌ったのにはびっくりポンの巻。

ペギー葉山の「南国土佐を後にして」も
ラジオから流れ来ぬ日はなかった。
ほかには「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)、
「古城」(三橋美智也)、「お別れ公衆電話」(松山千恵子)、
「ギターを持った渡り鳥」(小林旭)、「紅の翼」(石原裕次郎)、
「グッド・ナイト」(松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)。
いや、懐かしいなァ。

そんな中にあって1959年のマイ・ベストスリーは

① 大利根無情・・・三波春夫
② 浅草姉妹・・・こまどり姉妹
③ 人生劇場・・・村田英雄

であります。
何だ! 演歌ばっかじゃねェか!
そんなガキがおるんかや。
いや、ごもっとも。

でも、小学二年生にゃ歌詞がイマイチ意味不明ながら
メロディーラインの心地よさを
感じ取ることができたのも事実。
ただし、ベストスリーは
ある程度、大人になってからの選別と断定ですがネ。

=つづく=

2016年7月15日金曜日

第1404話 心から好きだよ ピーナッツ (その2)

当ブログ、第349話 「心の窓にピーナッツ」のつづき。
ザ・ピーナッツのマイベスト・テンであった。

① 恋のバカンス・・・聴くたびに胸の奥が甘酸っぱくて
② さよならは突然に・・・絡み合うメロ&ハモをぜひ!
③ 悲しきタンゴ・・・アズナブールの「ラ・ボエーム」を連想
④ 風のささやき・・・巨匠・ルグランも聴いて満足
⑤ ふりむかないで・・・’62年のあの夏がよみがえる
⑥ 恋のオフェリア・・・これぞ真実のデュオ・ドラマティコ
⑦ 可愛い花・・・蕾ふくらみかけし二輪の花
⑧ ローマの雨・・・愛の泉に今は竜馬とシロ犬が
⑨ 情熱の花・・・突如としてエリーゼを襲う闘牛士
⑩ シェルブールの雨傘・・・キミたちこそがモナムール
次点 リオの女・・・名古屋生まれがリオでアウフヘーベン

「恋のバカンス」はベストワンが不動の指定席。
日本歌謡史に燦然と輝く不朽の名曲は
サザン・オールスターズに多大な影響を与え、
ロシアでもいまだに庶民に愛され続けて歌い継がれている。

J.C.の心の窓にはピーナッツという名のともしびが
永遠に灯り続けていくことでしょう。

♪ 心から好きだよ ピーナッツ 抱きしめたい ♪

あゝ、目をつぶれば二人の声が耳にこだまする。
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」―
そうかい、そうかい、肇とっつぁんの代わりに礼を言うヨ。
ありがとう、そして安らかに。

で、ありました。
ここ数日、彼女たちの楽曲を聴きに聴きまくった。
するってえと、ベスト・テンに微妙な変化が表れる。
早いハナシが順位の変動である。
オメエの好みなんかにつき合ってられっかヨ!
まあ、そうおっしゃらずにご覧くだされ。
急場しのぎにつき、ショートコメントは割愛します。

① 恋のバカンス
② さよならは突然に
③ 悲しきタンゴ
④ 恋のオフェリア
⑤ ブーベの恋人
⑥ 月影のキューバ
⑦ 夕焼けのトランペット
⑧ 可愛い花
⑨ 恋のロンド
⑩ モスコーの夜は更けて
次点 ウナ・セラ・ディ東京

微妙どころか、変われば変わるもんですな。
激変だわサ。
ミッシェル・ルグランが消えちゃったヨ。
”ローマ”が退場して”東京”の登場。
何だか半世紀前の夏季五輪みたい。
でも、ベスト・スリーは不動だかんネ。

=つづく=

2016年7月14日木曜日

第1403話 心から好きだよ ピーナッツ (その1)

 ♪   あなたにも私も 窓辺のリラも
   今では枯れはて 風にふるえる
   心に流れる 悲しい唄は
   あなたと踊った ラストタンゴ

   泣きながら 泣きながら
   ひとりゆれて踊る タンゴ
   部屋のかたすみの 小さな椅子も
   あなたの帰りを 待っているの

   抱きしめて 抱きしめて
   私ひとり踊る タンゴ
   来る日も来る日も 悲しいだけで
   心に花咲く 春は遠い    ♪

       (作詞:なかにし礼)

ザ・ピーナッツの「悲しきタンゴ」がリリースされたのは1969年3月。
詞も曲もオサレで大好きなナンバーである。
アズナブールの「ラ・ボエーム」を連想させる歌詞は
シャンソンの訳詞を手掛けた過去を持つ、なかにし礼ならではか―。
ちなみに作曲はすぎやまこういち。

双子のデュオ、ザ・ピーナッツの妹、伊藤ユミさんが亡くなっていた。
それも2ヶ月近く以前に。
今から4年前、オネエちゃんのエミさんが逝ったとき、
当ブログで語ったのだが、その稿をダイジェストで綴ってみたい。

第349話 心の窓にピーナッツ
   
ザ・ピーナッツのオネエちゃんのほう、
伊藤エミさんが逝ってしまった。
6月15日に亡くなっていたことが
一昨日の27日にわかったのだ。

ザ・ピーナッツは心底好きだった。
いや、今でも好きである。
彼女たちのCDを聴きながらコレを書いている。
「銀色の道」から「東京の女」に移行したところ。

1959年にピーナッツがデビューしたときのことは
今もはっきりと覚えている。
当時は大田区の大森海岸に棲んでおり、
下町風に家々が密集した路地裏を歩くと、
聴こえ来るBGMのパターンは3通り。

午前中・・・・創価学会員の読経(南無妙法蓮華経)
昼から夕・・・ピーナッツの「小さい花」と「情熱の花」
夕方以降・・ラジオのナイター中継・巨人戦

オネエちゃんの死を悼みつつ面影を偲んで
ザ・ピーナッツ・ナンバーのマイ・ベストテン。

とここまできて、以下次話であります。

=つづく=

2016年7月13日水曜日

第1402話 錦の御旗に群がる五人 (その3)

駒込は霜降橋の交差点に近い「炒め処 寅蔵」で
第一陣の三匹がピータンに舌鼓を打っている。
ほとんどの客が注文する焼き餃子も
丁寧に包まれ焼かれて満足度が高い。
よくありがちな皮と皮とがひっついて
はがそうとすると破れてしまう粗忽物とは大違いだ。

19時にヤクザの、もとい、薬剤師のW子が現れた。
この娘()は、いや、娘と呼ぶには
少々トウが立っているものの、
気立てはいいし、器量だってぜんぜん悪くない。
なのにいまだに未婚で親元に居るんだから
いったいどんな人生を生きてきたんだろうねェ。
未婚の、あいや、未完の大器なのかもしれんなァ。

追加オーダーは
豆腐とねぎのサラダ仕立て、蒸し鶏、キクラゲ炒めの3品。
逸品はなくとも継ぎの役目はじゅうぶんにはたしてくれる。
ビールに飽きた先遣隊が紹興酒の珍10年を所望したとき、
銀行勤めの八ちゃんが到着、計5名が顔を揃えた。

厨房にいる中国人シェフに
清蒸全魚のアラ・キュイジーヌを伝える。
総勢五人なので一匹では心もとない。
念のために二匹お願いしてあった。
転ばぬ先の杖である。

そのあいだを継ぐため、焼き餃子をもう一人前と
大正海老の塩味炒めを注文しておく。
火の通し巧みな海老がなかなかに美味しい。
紹興酒との相性だって悪かろうハズがない。

ワイワイガヤガヤやってるまにメインのハタが蒸し上がった。
見ればほどよいサイズの真ハタであった。
ハタにも赤ハタ・キジハタ・アズキハタ・ネズミハタなど、
いろいろあるのだ。

やはり二匹にしておいてよかった。
遠慮や気兼ねをせずにのびのびと食べられる。
プリンとした食感にデリケートな食味、
ハタの美味しさを心ゆくまで堪能する。

それにしてもこの清蒸、
白身魚を料するにこれ以上の方法はあるまい。
和食の煮付けや鍋物、フランス料理のムニエルも
美味の極みながら清蒸には
一歩譲らざるを得ないのではないか。

支払いは一人アタマ5千円ほど。
一同、大満足で夜の街へ。
徒歩15分は掛かる二次会場、
動坂下のスナックへ向かいましたとサ。

おっと、そう、そう、
サブタイトルの「錦の御旗に群がる五人」は
「二匹の真ハタに群がる五人」の間違いでありました。

=おしまい=

「炒め処 寅蔵」
 東京都北区西ヶ原1-1-1
 03-3918-2385

2016年7月12日火曜日

第1401話 錦の御旗に群がる五人 (その2)

日本、いいえ、世界を代表するツイン・デュオ、
ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんが亡くなっていた。
すでに姉のエミさんは4年前に他界しており、
これで二人ともいなくなってしまったわけだ。
大ファンのJ.C.はとても悲しい。
数日中にあらためて彼女たちを語りたい。

JR駒込駅東口の北側を走る短い商店街はさつき通り。
ちなみに改札口前のガードをくぐるとアザレア通りが南に走る。
アザレアはつつじのことで
さつきとつつじ、二つの商店街は直線でつながっている。

さつき通りの立ち飲み酒場「ひろし」で
中ジョッキを飲み干したときに
店頭を横切った御仁を追いかけて呼び止めたのだった。
この人をナベちゃんという。
額に汗をかきながらの競歩まがいは
待ち合わせに遅れてはならじのなれのはて、
何もそんなに急がなくとも―。

だが、そうだった、そうだった、
先着組の3人はJR駒込東口に18時半の待ち合わせ。
うっかり忘れるとこだったぜ。
すでに改札口にたたずむタコちゃんをピックアップして
今来たストリートを逆歩する。

そうしてやって来たのが「炒め処 寅蔵」。
この店は年に数回オジャマするセミ行きつけだ。
当ブログでも紹介したことがある。
カウンターが主体の小体な店ながら
入口そばにテーブルが1卓、ここを抑えてあった。

予約の際に目当てのスペシャリテもお願いしてあった。
ここに来たらコレを食べなきゃの必食アイテムである。
ただし、メニューには記載されていない。
それは清蒸全魚。
鮮魚丸一匹の蒸しもので魚種はハタを最上とし、
広東料理の聖地・香港では清蒸石斑魚と称する。

後続の二人は19時に到着予定。
それまで冷たいビールと軽めのつまみでしのぐ。
最初の発注はピータンと焼き餃子。
ピータンには香菜(パクチー)を大盛りでお願いすると、
この香り高きハーブを大の苦手とするタコちゃんから
「勘弁してヨ!」の一声。
よって別盛りにしてもらった。

蓼食う虫も好きずきなれど、ことハーブ系に関しては
嫌いなものが一切ない自分のシアワセを文字通り、
かみしめながら味わうピータンの美味さを何に例えよう。

=つづく=

「ひろし」
 東京都北区中里2-2-1
 03-5394-5168

2016年7月11日月曜日

第1400話 錦の御旗に群がる五人 (その1)

その宵の舞台は豊島区・駒込。
プチ「たべともの会」であった。
この顔ぶれは4ヶ月ぶりだろうか・・・。
前回は浅草観音裏の「立花」だった。

「立花」はエンコ随一のお好み焼き屋である。
知名度と雰囲気なら坂口安吾や高見順など、
文士が入り浸った「染太郎」が第一かもしれないが
あえてJ.C.は「立花」を推したい。

お好み焼き・もんじゃの類いとは
年に一度接する程度の縁薄い間柄。
なのにこの店だけは訪問を躊躇しないくらいに好きだ。
その晩も楽しい時間を過ごした。
もちろん面子に恵まれたことも重要なファクターである。

エッ! 何ですって?
エンコって何なんだ! ってか?
折にふれて紹介および説明しているけれど、
いいでしょう、いいでしょう、リクエストに応えていまいちど。

そのスジの隠語で新宿はジュク、
池袋はブクロというのを多くの方がご存じだろう。
それでは上野はどうかな?
エノケンじゃあるまいし、エノってわけにはいかない。
正解はノガミ。
上野をひっくり返して野上としたわけだ。

明治6年、太政官布告によって浅草寺の境内は
浅草公園の指定を受けた。
大正末期に宮内庁の御料地が下賜された、
上野や井之頭の恩賜公園とは意味合いが異なる。
とにかく浅草は或る日突然、公園となったのだった。
公園をひっくり返すと園公、そう、エンコウでありますネ。

エニウェイ、浅草は浅草、駒込は駒込のアナザー・ナイト。
メンバーに先駆けて到着したJ.C.は例によって独り0次会を催した。
とは言っても許される時間は30分足らず、極めて限定的である。

直行したのは立ち飲み「ひろし」だ。
ここはちょいと一杯のつもりで飲むには推奨に値する。
おそらく駒込でベストだろう。
あとに中華料理が控えているため、
つまみはオーダーせずに
生ビールの中ジョッキ1杯にとどめおいた。

飲み干しながら何気なくオモテを見ると、
見覚えのあるオッサンが人の波をかき分けつつ、
走るがごとくに歩いてるじゃないの。
あわてて店を飛び出し、うしろから呼び止めた。

=つづく=

2016年7月8日金曜日

第1399話 同期会で池袋の夜 (その2)

池袋西口の「豊田屋」。
西口だけで1号店から3号店まで3軒が暖簾を掲げている。
束の間の一杯を楽しんでいるのは1号店のカウンターだ。
焼きとんのレバは悪くはないものの、
やはり下町の水準には達していなかった。
歯ざわりに支障を来たすスジの処理が徹底されていない。

滞在時間はちょうど30分。
1本の大瓶をつとめてゆっくり飲んだのだった。
このあと中華料理のフルコースが待ち受けているハズ。
焼きとんは2本にとどめておく。

そうして向かった「地球飯店」。
われわれの会場はビルの3階にあった。
10人掛けの大きな丸卓が4卓。
参加者は35人だという。

座った席の右側は中学時代、
しょっちゅう映画を観に行った、言わば”観るとも”のS木クン。
大好きな「太陽がいっぱい」を初めて観たのも
彼と一緒で1965年7月、日比谷スカラ座であった。

左側はこの会のために京都からやって来たM崎サン。
3年ほど前に10人ほどのプチ同期会を
同じい池袋で催して以来だ。

当然のことながら座がゆるんでくると、
参加者同士ののシャッフルが始まる。
こうなってくるともう料理なんか食べていられない。
ビールから紹興酒に移行して酒はたっぷり飲んだが
料理のほうはあまり食べていない。

振り返ると箸を付けたのは乾焼蝦仁に腰果鶏丁のみだ。
海老チリ、鶏肉とカシューナッツ炒めである。
なぜか前菜のくらげや叉焼もパスったし、
締めの五目炒飯なんか美味しそうだったのに逃した。
かといって本格的に飲み出すと料理はちっとも欲しくない。
38
二次会は「清龍 西口店」。
ここでもビールと焼酎を飲んだ記憶はあるが
つまみのほうは突き出しすら食していない。
「清龍」は東口に本店があって学生時代はお世話になった。
食事は「大戸屋」、晩酌は「清龍」だった。

ちなみにこの「大戸屋」は
今をときめくあの「大戸屋」の1号店。
中学2・3年の頃、ときどきカレーライスを食べに来た。
今もあの味と値段は忘れない。
何せ、一皿50円だったからネ。
町の中華屋のラーメンより安かったのだ。

帰宅して空腹感を覚えた。
冷蔵庫を開けると鮭缶があった。
缶を開け、包丁を握って新玉ねぎのスライスを添える。
同時に缶ビールも開けた。

食卓に運ぶと匂いを嗅ぎつけた愛猫がまっしぐら。
鮭缶の半分を分け与えてやり、深夜の”のみとも”とした。
苦楽をともにしたヤツとは目と目で会話ができるからネ。

「豊田屋1号店」
 東京都豊島区西池袋1-24-6
 03-3985-8135

「地球飯店」
 東京都豊島区西池袋1-22-8
 03-3985-0684

「清龍 西口店」
 東京都豊島区西池袋1-23-2
 03-5928-2992

2016年7月7日木曜日

第1398話 同期会で池袋の夜 (その1)

先週末、中学の同期会が池袋で開かれた。
独り幹事のN中クンによれば、
われわれは第20期の卒業にして同期会は6回目なのだという。
毎年恒例の忘年会はその数に入れないようで別勘定の由。
 
会場は西口の「地球飯店」、スタートは17時半である。
山手線で池袋に到着したのは17時前。
若干の時間的余裕があった。
この街は中高年になってから、
もとい中高生の頃から慣れ親しんだホームタウン。
時の過ごし方、時間のつぶし方は熟知している。
 
さっそく頭の中に描いた景色は
ビールの大瓶1本に焼きとんの串2本である。
となれば東武デパート前の「三福」が第一感なれど、
普段あまり訪れない「豊田屋」にしようという気になった。
この店の存在は小学生時代から認知している。
西口だけで1号から3号まで3軒あるハズだ。
 
土曜日の黄昏どきだというのに店内の客はまばら。
同じ西口の「ふくろ本店」と比較すると劣勢は否めない。
それでも五十路だろうか、元気なオネエさんを中心に
スタッフの掛け声が店内に響き渡って
それなりの活気を保っている。
 
サッポロビールと良好な関係を築いていると見え、
生も瓶もサッポロである。
ただし、瓶は黒ラベルではなくラガー、いわゆる赤星だ。
J.C.はこれをあまり好まない。
飲み口はちょうどキリンラガーと黒ラベルの中間といったふう。
そして赤星とスーパードライの中間が黒ラベルだろう。
 
赤星は懐旧の情をくすぐるが
現在のサッポロの主力商品は黒ラベルだ。
もしも前者の売れ行きが後者に勝るのなら
当然、主力の座は入れ替わっているハズ。
飲み比べると後者の洗練が浮上して違いがよく判る。
 
と言いながらもコップに注いだ赤星を一気に飲み干す。
陽気が陽気だけにのど越しは格別なものがあった。
暑い夏は大好きだから本当は自宅から徒(かち)で来たかった。
来たかったが汗びっしょりで宴に臨むワケにはまいらんもん。
 
先刻、頭に描いた通りに焼きとんは2本。
シロとレバを1本づつが理想形なれど、
当店は1種につき、ミニマム2本制だ。
悩んだ末にレバを選択。
どちらも甲乙つけ難いほどの好物ながら
レバのほうが当たり外れが少ない。
その堅実性を買ってみたのである。
 
=つづく=

2016年7月6日水曜日

第1397話 文豪たちも来たろうか? (その4)

文京区・千駄木の「巴屋」。
二人はともにおすすめメニューの中から
穴子丼と冷たいそばのセットを注文した。
小鉢とお新香も付いてくるようだ。

はたして運ばれ来たる穴子丼は予想通り天丼だった。
上下に両断された穴子が丸1尾分。
三つ葉がきっちり脇を締めている。
通常、青みにはしし唐が多用されるが
三つ葉はボリュームがしし唐3個分ほどあって
こっちのほうが嬉しいかもしれない。

かぼちゃの煮つけ、ほうれん草のおひたしに
大根のぬか漬けが所狭しと並べられ、
ちょいとした定食屋的光景が目の前に拡がった。
そば前の一杯がいよいよ欲しくなる。

何よりも驚いたのは
やはりどんぶりに盛られたそばだった。
まったくの予想外、想定の範囲外である。
何となれば、そばの色が純白ときたもんだ。
これは明らかに更科である。
町場のそば屋で更科に遭遇するとは夢にも思わなんだ。
いや、びっくりしたなもう!

穴子丼は置いといて
われわれは更科そばのどんぶりを手に取った。
一箸付けると、おう、これはまぎれもない更科の強靭なコシ。
色白にしてたおやかな風情を保ちながら
ピシッと一本通った芯の強さをうかがわせる。
町家の娘などではなく、
武家の内儀といったたたずまいが印象深い。
K子老人も驚きを隠せぬ様子だ。

つゆは町場特有のオーソドックスな、
言い様によっては下世話な甘みを感じさせない。
実はJ.C.の好みはその下世話なほうなんだが―。
薬味はきざみねぎと粉わさび。
したがってねぎのみを使用する。

そばを食べ終えて穴子丼に取り掛かる。
揚げ上がりはカリッとではなく、クニュッとした感じ。
揚げ油に胡麻の香りせず、好きなタイプではない。
加えて肝心のごはんがイマイチだ。
そばと丼を比べれば、そばのほうがずっとよい。

「巴屋」の住所は千駄木五丁目。
明治36(1903)年、ロンドン留学から帰国した夏目漱石は
千駄木町57番地に居を構えた。
奇しくもこの十数年前、家の主は森鷗外であった。

「巴屋」までは徒歩5分ほどの距離。
二人の文豪は当時でも
創業六十有余年の老舗そば屋を訪れたろうか?
たぶん来てるネ。
いや、間違いなく来たであろうヨ。

=おしまい=

「巴屋」
 東京都文京区千駄木5-2-21
 03-3821-2519

2016年7月5日火曜日

第1396話 文豪たちも来たろうか? (その3)

千駄木の日本そば店「巴屋」は天保元年の創業。
ぜひ行かねばと腰を上げた次第だ。
初見参にあたってK子老人をお誘いしたら
快諾の旨、返信があった。

それではと待合わせを
最寄り駅の地下鉄千代田線・千駄木駅にする。
いや、ちょいと待てヨ、
駅から店までの団子坂がお年寄りには難関だ。
あわてて再メール。
場所を白山上の三井住友銀行前に変更する。

老人は満面の笑みを浮かべて現れた。
久方ぶりの挨拶もそこそこに彼曰く、
「今日は指せるの?」―相変わらずお好きなのである。
この人の辞書に”花より団子”の言い習わしはない。
何せ、”飯より将棋”だからネ。

大観音の前を通って到着した「巴屋」である。
店内はさすがに歴史を感じさせるものの、
不可思議なレイアウト。
大きなテーブルがど~んと4卓。
それも2卓づつ、ピッタリくっつけられていた。

ほかには狭い小上がりに2卓。
言わばテーブル席は広々と、どこぞの社員食堂、
小上がりは狭苦しくて場末の居酒屋風なのだ。
粋もセンスもあったもんじゃないネ。

食後は将棋を指すのだ、ビールは控えることにした。
品書きは卓上になく壁にh貼りめぐらされている。
一般的な単品もののほか、目を惹くのはおすすめメニューだ。
海老天丼や親子丼に
温・冷選べるそばかうどんが付いたセットである。

相方のK子老人の視線もそこにくぎ付け。
健啖家だからもりやざるでは満足できないのだ。
ともに気になったのは何を差し置いても穴子丼。
海老の場合は海老天丼と明記されてるのに
穴子は単に穴子丼とはこれいかに?

「あれはやっぱり穴子の天丼だよねェ」
「まあ、煮穴子や焼き穴子ってこともあるでしょうが
 普通は天丼だと思いますよ。
 柳川風の玉子とじも考えらるけど、
 それならそれでその旨を謳うでしょうし―」
「女将に訊いてみるかな?」
「いや、そのまま注文して何が出て来るか
 出たとこ勝負もまた一興でしょう」
「それもそうだ」
こんな会話が交わされたのだった。

=つづく=

2016年7月4日月曜日

第1395話 文豪たちも来たろうか? (その2)

天保元年創業のそば店「巴屋」。
天保は成熟した町人文化の開花により、
江戸がもっとも江戸らしい時代を迎えた、
文化・文政、いわゆる化政期の直後に当たる。
時代小説、並びに映画・TVの時代劇の舞台になるのも
文化から天保に至る時期がきわめて多い。

J.C.が天保時代(1830~1845)に惹かれるのは
ひとえに「天保水滸伝」のおかげだ。
「天保水滸伝」の原型を作ったのは講談師の初代・東流斎馬琴。
その後、講談から浪曲・歌謡曲・小説へと発展し、
ちょいとした”プチ忠臣蔵”と呼んでもよいくらい、
日本人の感性にふれるものがある。

物語は対立する博徒、笹川の繁蔵と飯岡の助五郎、
そこへ剣豪・平手造酒(みき)ががからむ。
3人とも実在の人物でクライマックスは大利根河原の決闘だ。
天下分け目の喧嘩(でいり)のわりに討ち死には少なく、
飯岡側に3人、笹川側はたった1人にすぎない。
ところがその1人は食客の平手だった。
一宿一飯の義理を果たすため、
孤軍奮闘して敵陣に乗り込み、めった斬りに合っている。

時は下り、天保改元のおよそ百年あと、
1930年前後には「天保水滸伝」のタイトルを冠した映画が
数本作られており、一大ブームを迎えた。
続いた歌謡曲、田端義夫の「大利根月夜」(1939年)、
そして三波春夫の「大利根無情」(1957年)によって
日本全国津々浦々、多くの大衆に知られるようになった。
ここで例によって歌詞の紹介と行きたいところなれど、
「大利根無情」のほうは
過去に何回も載せているから今回はじっとガマンを貫く。

ちなみに天保年間を生きた歴史上人物には
渡辺華山、大塩平八郎、鼠小僧次郎吉などがいる。
「天保水滸伝」の中心人物同様に
いずれも不幸な死に方をしているのは時代の必然だろうか。

団子坂上の日本そば屋、天保元年創業の「巴屋」であった。
バスの窓から再会に及んだからには
同じ失敗は繰り返したくない。
また忘れたら元も子もない。

そこで翌週には出掛けることにした。
独りの訪問はちと侘しい気がしたので
近隣に棲む友人を思い浮かべてみたら
まっさきに浮かんだのが将棋仲間のK子老人だった。
しばらくご無沙汰しているからちょうどいい。
さっそくお伺いのメールを入れると15分後には返信があった。

=つづく=

2016年7月1日金曜日

第1394話 文豪たちも来たろうか? (その1)

お婆ちゃんの原宿、巣鴨の地蔵通りで所用を済ませ、
身体が自由になった夕まぐれだった。
JR巣鴨駅前までやって来ると、
折よく浅草行きの都営バスが停車しているではないか。
渡りに舟、通りにバス、運チャンに手を挙げて
閉じかかったドアを開けてもらって乗り込んだ。

このバスは巣鴨を出たあと、
旧白山通りから団子坂、道灌山通りから明治通り、
三ノ輪で国際通りに入り、浅草へと至る。

千石―白山上―千駄木―道灌山下―西日暮里駅―
荒川区役所―三ノ輪駅―竜泉―千束―浅草

上記の町々を順に運行してゆくのだ。
起点は池袋東口で池袋と浅草を継ぐ、
わりと便利な都民の足となっている。
とりわけ中高年からお年寄りの利用者が多い。

さて、その夕刻。
バスは白山上から駒込千駄木町へと走っていた。
駒込大観音(おおがんのん)で世に知られる、
天昌山光源寺の門前を過ぎて団子坂上に向かう途中、
車窓から街並みをボンヤリ眺めていると、
一軒の日本そば屋が目にとまった。
屋号を「巴屋」という。

はて? どこかで聞いたような見たような・・・
訪問した記憶はなくとも何か引っ掛かるものがあった。
一体全体、何だったろうか?
しばし、思案投げ首の巻である。

心の屈託などお構いなしにバスは団子坂を下り切り、
不忍通りの赤信号でストップ。
長い赤信号が青に変わって通りを左折する。
そのときようやく思い出した。

かれこれ5年以上になろうか。
散歩の途中に遭遇して近いうちにぜひ来なければ!
そう思ったことであった。
変哲もない古びたそば屋なのだが
袖看板に記された屋号の脇の文字が強く心に響いたのだ。

”天保元年創業”・・・このことである。
近いうちに来ようと思っていながら
いつしか忘却の彼方に追いやられてしまったんだネ。
この有り様じゃ、備忘録でも作らなあかんぞなもし。

それにしても天保元年といやあ1830年。
実に186年もの歴史を刻んでいる。
この頃の日本は・・・
と、ここまで綴って以下次話であります。

=つづく=