2011年8月9日火曜日

第114話 ミラノの哀しい物語

スポーツとニュース番組以外、あまりTVを観てこなかった。
ほかに観るのはNHK総合の「ダーウィンが来た!」くらい。
需要がないので供給もなおざり、
ついこの間までBS放送すら観れない環境下にいたほどだ。
それがつい半年前に
BSどころか、ひかりTVまで観られるようになった。
にも関わらず、しばらくほったらかしていたのは
番組表のチェックやリモコンの操作がわずらわしかったから。

ところが何かの拍子で精力的に観るようになった。
特に気に入っているのは
ひかりTVのナショナル・ジオグラフィとヒストリー・チャンネル。
ミステリー・チャンネルの「逃亡者」も
懐かしさに惹かれ、ときとして―。

困るのはツボにはまってしまうと徹夜も辞さないこと。
その影響からブログ原稿の執筆も
TVのあとの真夜中か明け方が増えた。
ただ今時刻は8日月曜午前3時半。
ピーターじゃないが、「夜と朝のあいだに」書いている。

先週水曜日、NHKのBSプレミアムにて
ルキノ・ヴィスコンティの「若者のすべて」に遭遇。
イタリア・ミラノを舞台にした1960年の作品を
最初に観たのは1965年。
場所は「新宿伊勢丹」の前にあった、
おそらく当時、東京で一番小さな映画館、「シネマ新宿」。

アラン・ドロンとアニー・ジラルドの別れの場面、
ミラノのドゥオーモ屋上のシーンが心に刻まれている。
初見の6年後、これも初めて欧州旅行に出掛けた折、
実際に登楼したときの気分は雲の上を歩いているようだった。
ああいう胸のときめきは近頃、トンとなくなった。

ヴィスコンティ家はミラノの名門。
ルキノ自身も伯爵サマである。
その彼が共産党に入党し、映画界に足を踏み入れ、
ネオリアリスモの一翼を担ったのだから
人の出自ほど当てにならず、人生ほど不可思議なものはない。
晩年の作風からはおよそ想像のつかない、
光と影に彩られた生涯であった。

バイセクシュアルを公言してはばからなかったヴィスコンティは
恋人と噂されたドロンを「山猫」(1963年)で再び起用した。
主役はアメリカ人のバート・ランカスター。
ドロンとジラルドが再度競演した「ショック療法」(1972年)は
ロンドンの映画館で英語の字幕付きを観た。
ともにスターク・ネイキッド(素っ裸)の大熱演。
2人の裸体に唖然としたものである。

「若者のすべて」でドロンの兄貴役を演じたイタリア人俳優、
レナート・サルバトーリは共演が縁でアニー・ジラルドと結婚。
オシドリ夫婦ぶりが伝えられていたが
1988年に55歳の若さで死去。
倦怠感漂う知的な冷笑が魅力のジラルドも
今年の2月に79歳で亡くなった。
「あの愛をふたたび」のラストシーン、
画面いっぱいに拡がる悲しげな微笑のアップが
今もまぶたに灼きついている。

ヴィスコンティの作品で一番好きな「若者のすべて」。
ドロン主演の映画では「太陽がいっぱい」の下、
「太陽はひとりぼっち」の上で、二番目に好きだ。
この時代は彼らがともに輝きを放ち始めた時期。
以降はともにだんだんと光を失ってゆくように見えた。
実際は2人の名声は高まっていったのだが
何かが違う、どこかが違う、
冷めて離れる自分の気持ちを抑えられなかったあの頃。
帰り来ぬ青春というヤツですな。