2013年11月6日水曜日

第702話 三人揃って 舞い、舞い、舞! (その2)

日本球界におけるピッチャー酷使のハナシのつづき。
今年は最後の最後で敗れたものの、
球界の覇者・ジャイアンツの投手はわりかし長持ちしている。
のちに監督を務めた藤田元司は比較的短命だったが
おしなべて長命ではなかろうか。

原因は川上監督の采配が大きいように思う。
何といっても8時半の男、宮田征典の出現だ。
リリーフ専門投手の草分け的存在で
これは当時ピッチング・コーチだった藤田の着想。
国鉄から巨人に移籍してきた金田が400勝を目指しており、
あとを任されたロングリリーフも多かった。

1965年には69試合に登板して20勝を挙げる。
リリーフ投手で20勝なんて、今では夢物語だろう。
しかし、登板過多がたたって翌年から低迷、
以後、復活することはなかった。
いくら何でも’65年は投げ過ぎで、
彼もまた川上監督に殺されたと言えなくもない。

古い名前が続々だが
今年のシリーズ優勝監督、星野仙一のエピソードを一席。

明大出身の星野は1969年、中日ドラゴンズに入団。
当時の監督は怪童・尾崎をつぶした元巨人の水原茂だった。
その年のある巨人戦でルーキーはKOされ、敗戦投手となった。
星野は首脳陣に
「明日も投げさせてください。必ずリベンジしてみせます!」―
と直接訴えた。

コーチ陣は連投に難色を示すものの、水原監督の鶴の一声。
「仙が投げたいと言ってるんだ、投げさせてやれ!」―
こんな経緯の末に翌日の巨人戦でも先発連投が実現する。
当夜の星野のピッチング内容はよかった。
しかし、打線の援護に恵まれず、再び敗戦投手になってしまう。

面目を失い、ダグアウトでうなだれる星野に
手を差し伸べ、声を掛けたのは水原だった。
「よく投げた、いいか、プロの世界ではやられたら必ずやり返す。
 この精神を忘れるな、それがなくなったらプロとして終わる。
 今日のゲームを決して忘れるな、よくやった」
どんなに新人は励まされたことだろう。

のちに星野は
「あのとき、水原サンに握手してもらった、
 その手の温かさは今でも昨日のことのように覚えています。
 プロの精神を自分は水原さんから教わりました」―
このように語っている。

ときは流れて2013年11月3日。
「仙台で宙に舞いたい!」―
田中で負けてしまい、
宙に浮きかけた念願がようやくかなって宙に舞う。
胴上げ投手のマー君も舞い、
オマケに彼のかみサンは里田まいときたもんだ。
三人揃って舞えてよかったネ、とにかくおめでとっ!