2013年6月5日水曜日

第592話 楽しみ本線瀬戸内海 (その2) 古く良かりしニューヨーク Vol.6

 ♪ 私には 戻る 胸もない 戻る 戻る 胸もない 
   もしも死んだら あなた あなた泣いてくれますか 
   寒い こころ 寒い 哀しみ本線 日本海  ♪
            (作詞:荒木とよひさ)

森昌子は哀しみの日本海をたどったが
J.C.は瀬戸内海を楽しんでいる。
さっそく昨日のつづきとまいりましょう。

=楽しみ本線瀬戸内海 ②=

旅の終わりは丸谷才一氏が
”西国一の鮨や”と称えた伝説の名店、岡山市内の「魚正」へ。
つけ場に立つのは先代の娘さん、
といっても五十路に差し掛かっていようか。
脇で彼女の息子がアシストしている。
とにかくオンナの鮨職人は生まれて初めての体験である。
何につけても女性との初体験にはおのずと緊張感がつきまとうものだ。

突き出しのバフン海胆とベイカ(蛍いか)で地酒のお多美鶴を楽しみ、
すぐににぎってもらう。

 平目・さより・真鯛・きす・平貝・ママカリ・とり貝・シャコ・
 穴子・かんぴょう巻き・玉子

とりわけ穴子がすばらしい。
1カンに1尾付けでは口の中がパン食い競争状態になるから
包丁を入れてもらったが、香ばしさの中に旨みがスッと立ち、
さわやかなあと味を残して消え去った。

ポン酢おろしをカマせた平目はこの店ならでは。
岡山名産のママカリは小肌に及ばぬものの、それなりによかった。
真っ白に煮上げたかんぴょう巻きの美しさが記憶に残っているし、
オムレツ風の玉子の美味しさも忘れられない。

暖簾を反対側からくぐり、石畳を踏んで門の外へ。
さっきまで帳場に立っていた先代の未亡人が
曲がった腰をいといもせずに出てきて送って下さる。
笑顔が今食べたばかりの鮨のようにつややかだ。
お婆ちゃん、いつまでもお達者で。

こうして2泊3日の旅を終え、帰京したのだった。
丸谷才一氏の随筆集「食通知ったかぶり」に収められた一篇、
「岡山に西国一の鮨やあり」から抜粋して名文を紹介したい。

この鮨やはたしかに名代の店らしく、
数日後、石川淳さんにお目にかかった折り、
岡山ゆきのことを口にした途端、夷齋先生はただちに魚正をすすめて
「神戸から下関までの鮨やで随一」
と断定したのだ。
話がかうなると、新幹線に乗るのも張り合ひがありますねえ。

ベラタといふ、穴子の稚魚を辛子味噌で和へたもので
お多美鶴といふ地酒を飲みだしたとき、
わたしはこの店が西国一の鮨やであることを確信してゐた。

丸谷サンは翌々日の昼にも「魚正」を再訪している。
そして赤貝の見事さに驚嘆してこう締めくくった。

こんなに見事な赤貝は見たことがない。
倉敷の大原別邸の緑の瓦は
戦前ドイツに注文して作らせたものださうだが
昔のドイツの名工の作った赤い瓦が倉敷の春の雨に濡れたならば、
かういふ色艶で照り輝くのではないかとわたしは思った。

いや、赤貝も見事だったのだろうが、御大の筆も実に見事でござんす。

「魚正」
 岡山県岡山市中央町7-5
 0862-22-3505